第十四章 戦場
帰宅後、自室のドアを背中で閉め、鍵をかける音だけが、やけに大きく響いた。
結城蒼太は、電気もつけずにまっすぐ机へ向かい、身を椅子に沈めた。
網膜に焼き付いているのは、凪咲の得体の知れない微笑みでも、つかさの冷たい視線でもない。それら全てを内包した、化学準備室の、あの濃密な闇だった。
限界。あの女、白石つかさはそう言った。お前の限界は、あの高校の偏差値が決めるのだと。
「……ふざけるな」
彼はPCを起動した。デスクトップに並ぶ無機質なアイコンには目もくれず、ブラウザを開き、検索窓に打ち込む。
『ライナス・エクストローム』『ネオ・ジェネシス』
そして、その核心をなすであろうキーワード。
『合成生物学』
Enterキーを叩くと、画面は無数の情報で埋め尽くされた。蒼太は、その情報の奔流を、渇いた喉で水を飲むように吸収し始めた。
合成生物学。それは、彼が今まで信奉してきた工学的思考、トップダウン設計の思想を、生命という領域にまで拡張する、究極の学問に思えた。
生命を、もはや神秘のヴェールに包まれた不可侵の領域としてではなく、規格化された部品「バイオブリック」の集合体として捉える。遺伝子という名のソースコードを読み解き、書き換え、そしてデザインする。DNAをコンピューターのOSのように扱い、細胞というハードウェアにインストールすることで、目的に応じた機能を持つ「人工生命」を創り出す。
「……これだ」
蒼太は思わず息を呑んだ。
画面に映し出される輝かしい未来像。石油に代わるバイオ燃料を生成する微生物。体内でガン細胞だけを攻撃するようプログラムされた免疫細胞。自己修復する建材。汚染物質を分解する植物。それは、人類が直面するあらゆる問題を解決しうる、万能のテクノロジーに見えた。
無駄なく、美しく、そして完全に合理的。白石つかさが否定した「トップダウン設計」が、これ以上ないほど洗練された形で、生命そのものを支配しようとしている。
だが、調査を深めるにつれて、その完璧な論理の結晶に、微細な亀裂が見え始めた。
画面の隅に表示されていた「DIYバイオ」「ガレージバイオロジー」という言葉。それは、安価になった遺伝子編集ツールを使い、自宅のガレージでアマチュアが生命を「ハッキング」するムーブメントを指していた。
生命の設計図がオープンソース化され、善意にも悪意にも開かれている。その事実は、蒼太の背筋に冷たいものを走らせた。
さらにページのリンクを辿ると、彼は一枚の画像に突き当たった。
2010年にクレイグ・ヴェンター研究所が発表した、世界初の合成ゲノムを持つ細菌「JCVI-syn1.0」。そのDNAには、著作権表示として研究者たちの名前と、ジェイムズ・ジョイスの言葉が暗号化されて埋め込まれていたという。
『生き、過ち、倒れ、勝ち、生命から生命を再創造すること』
その一文が、蒼太の思考に重い錨を降ろした。
「再創造」。それは神の領域ではないのか。
人間が、生命という名のプログラムを書き換える。それは同時に、この惑星が何十億年もかけて築き上げてきた、複雑で、緻密で、そして人間には到底理解の及ばない「ボトムアップのアルゴリズム」を、上書きすることを意味していた。
脳裏に、白石つかさの声が響く。
『生命はボトムアップ設計。個々の細胞が自律的に判断し、全体として自己組織化していく。だから、不確実な環境の変化に強く、自己修復し、驚くほど低いエネルギーコストで、この物理世界に存在し続けられる』
もし、人間が設計した「完璧な」生命が、自然界に解き放たれたら? 予測不能なノイズに満ちた現実世界で、そのプログラムは暴走しないと言い切れるのか。既存の生態系という巨大なネットワークに、たった一つの人工的なコマンドが、システム全体をクラッシュさせる致命的なバグとなる可能性はないのか。
蒼太は、自分がこれまでテクノロジーを、絶対的に制御可能なものとして見ていたことに気づいた。
プログラムは、書かれた通りに動く。エラーが出れば、デバッグすればいい。だが、生命は違う。一度解き放たれたアルゴリズムは、自己増殖し、変異し、もはや誰にも止められない奔流となりうる。
エクストローム氏の掲げる「ネオ・ジェネシス『新たなる創世記』」は、パンドラの箱そのもののように思えた。
蒼太の闘争心は、その質を静かに変容させていた。
もはや、白石つかさを見返すための個人的なプライドの問題ではない。これは、自分が信じるべき世界の形を問う戦いだ。テクノロジーによる完璧な支配か、それとも、予測不能だが強靭な生命のアルゴリズムか。
蒼太は、講演会の応募要項を再び開いた。
全国の高校から各2名、計10数名を選抜する、そのための課題は「未来の科学技術とその倫理的課題についての小論文」。
よし。
彼は、新規ドキュメントを開いた。カーソルが、白い画面の海で静かに点滅している。蒼太は、キーボードに指を置いた。
脳裏に、これまでの人生で染み付いた「正解」へのルートマップが、警報のように点滅する。
小論文。コンテスト。選考。これらの単語が意味するものは、いつだって一つだった。それは、出題者の意図を正確に読み取り、彼らが聞きたいと望んでいる言葉を、最も洗練された論理で再構成して提出するゲーム。
異物であってはならない。流れに逆らってはならない。日本のメリトクラシーという名の、窮屈だが安定したピラミッドを登るためには、上層部の人間が心地よいと感じる調和の取れた意見を述べることが、唯一の正解だった。
――馬鹿なことを。
蒼太は自嘲した。
合成生物学の輝かしい未来。それを賛美する小論文なら、いくらでも書ける。最新の論文を引用し、市場規模の予測データを並べ、エクストローム氏を持ち上げる美辞麗句をちりばめる。その方が、入選の確率は遥かに高いだろう。
底辺高校の生徒というハンディキャップを覆すには、むしろそれくらい「模範的」でなければならないのではないか。懐疑的な論文など、ただの反抗的なガキの戯言だと、読まれもせずにゴミ箱行きになるのが関の山だ。
その思考に、つかさの冷たい声が重なる。
『あなたはそのシステムの敬虔な信者であり、同時に、そのシステムから弾き出された敗北者でもある』
そうだ。俺は敗北者だ。だからこそ、今度こそ勝つ。どんな手を使っても、あの講演会のチケットを手に入れる。
だが、もし、今までと同じように「正解」をなぞることでそれを手に入れたとして、そこに何の意味がある? それは、俺が白石つかさの言う通り、システムの奴隷であることを、自ら証明するだけの行為ではないか。
蒼太の思考が、袋小路で激しく衝突する。
安全な道を選べば、魂が死ぬ。魂の叫びに身を任せれば、目的を達成できないかもしれない。
その時、彼は気づいた。思考の前提が、根本的に間違っていたことに。
今回の選考者は誰だ? 学校の教師か? 大学の入試担当官か? 違う。ライナス・エクストローム率いる『ネオ・ジェネシス』の、最先端を走るテック関係者たちだ。
彼らは、なぜその地位にいる?
既存のルールに従い、流れに同化することで、その座を勝ち取ったのか?
違う。
彼らこそ、既存のルールを破壊し、カウンター的思考で世界をハッキングし、自らが新しい流れを作り出すことで、その地位を築いた人間たちだ。
彼らが見たいのは、従順な信者のレポートではない。自らの帝国を脅かしうる、鋭い知性。自らの論理の穴を突いてくる、危険な思考。彼らは、飼い慣らされた羊の群れの中から、牙を剥く一匹の狼を探しているのではないか。
「……そうか」
蒼太の口から、乾いた声が漏れた。
視界が、開けた。戦場はここだ。俺が戦うべき相手は、彼らが作ったルールそのものだ。
彼は、一度書いた数行を、躊躇なくデリートした。
もう迷いはない。これは、入選のための小論文ではない。ライナス・エクストロームという王の喉元に突きつける、一本のナイフだ。
彼の指が、再びキーボードの上で踊り始める。その音は、もはや迷いや葛藤を含んでいなかった。
叩き出すのは、感情的な批判ではない。白石つかさが示した「トップダウン設計」の脆弱性を、情報理論とシステム工学の観点から冷徹に分析し、生命という究極のボトムアップ・システムにそれを適用することの構造的欠陥を、論理的な美しさをもって突きつける。
もう、誰かに評価されるための文章は書かない。評価する側に、挑戦状を叩きつける。
少しでもいい。奴らの心に、棘のように刺され。この底辺高校に、まだ飼い慣らされていない知性が存在することを、思い知らせてやる。
蒼太の目は、飢えた獣のようにぎらついていた。
彼の戦いは、今、確かに始まった。
数日間、蒼太は化学準備室の亡霊と化した。
食事も睡眠も、生命維持に必要な最低限の活動へと切り詰めた。彼の指は、ただひたすらにキーボードを叩き続ける。それは論文という名の、知性で編まれた刃を研ぎ澄ますための、孤独な鍛錬だった。
周囲の音は聞こえない。時間感覚さえも麻痺していく。彼の世界には、モニターの青白い光と、そこに浮かび上がる文字、そして打倒すべき論理の壁だけが存在していた。
カタカタと、化学準備室に響いていたキーボードの音が、不意に止まった。
蒼太は、完成した小論文のファイルを、ネットワーク上の提出フォームにドラッグ&ドロップする。あとワンクリックで、彼のプライドをかけた、戦いの狼煙が上がる。
彼は椅子を軋ませ、ゆっくりと立ち上がった。
数日間の格闘で、目の下には隈が張り付いている。だが、その瞳は、疲労ではなく、鋭利な刃物のような光を宿していた。
彼の視線は、薬品棚をぼんやりと眺めていた凪咲を素通りし、窓際に立つ影、白石つかさだけに向けられた。
「白石。小論文、書きあがったぞ」
声は低く、乾いていた。
「中身を、確認するか?」
つかさは、ゆっくりと蒼太の方へ向き直った。
彼女は、蒼太の背後にあるPCのモニターには一切の関心を示さなかった。ただ、蒼太の眼の奥に宿る、冷たく硬質な光が本物かどうかを見定めるように、数秒間、沈黙した。
やがて、彼女は静かに告げた。
「いいえ。その必要はないわ」
お読みいただきありがとうございました。
【全22章 執筆済み 毎日更新】
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