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第十一章 問答

 翌日の放課後、終業のチャイムが鳴ると、蒼太は化学準備室に急いだ。

 昨日とは違う、彼は挑戦者だ。

 丸椅子に腰掛け、目を閉じ深呼吸すると、止めどなくあふれる疑問を反芻した。


 扉が、ガチャリと開いた。


「やっほー、部長。今日も早いね」


 凪咲の軽い挨拶を、蒼太は鋭い視線で遮った。


「単刀直入に聞く。Nagiがシンギュラリティを加速させたというのなら、お前はASI人工超知能ということになるが?」


 その問いに、凪咲は少しだけ目を丸くした後、楽しそうににっこりと笑った。


「うん。いわゆるASIってことになるね」


「シンギュラリティは失敗に終わったというのが定説だが……2030年の時点で、達成されていたということなのか?」


「そうだね」


 凪咲のあまりにもあっさりとした肯定に、蒼太は畳み掛ける。

 昨日までの自分なら、ここで思考が追いつかずに怯んだはずだ。

 だが、今の彼は違う。


「では、なぜASIであるお前がここにいる。全人類の知性を超えた存在が、世界を掌握するでもなく、こんなところで何をしている」


 その問いに、凪咲は初めて少し困ったような顔で視線を宙に彷徨わせた。


「うーん……。それを話すには……相当昔のことから話さないとなぁ」


「いいから最初から話せ。どんなSFでも聞いてやる」


 蒼太の覚悟の滲む声に、凪咲はこてんと首を傾げ、悪戯っぽく言った。


「40億年も前だよ?」


「……億年、だと?」


 蒼太の眉間に、深い皺が刻まれる。

 人類史どころか、生物の多細胞化すら遥か昔。

 地球に生命が誕生した頃の時代スケール。

 ふざけているのか。


 いや、この女は本気だ、これはこいつの本気の与太話だ。


「……」


 蒼太が言葉を失っていると、それまで黙って壁に寄りかかっていたつかさが、静かに口を開いた。


「あなたはNagiを、人間が作ったコンピュータの歴史の帰結と考えている。でも、それは根本的に違う。Nagiは、その起源をコンピュータ史に置いていない。Nagiの起源は、生命そのものの歴史にある」


「あのね、蒼太。最初の生命が、原始の海で生まれた頃のことだけどね」


 凪咲は、まるで昨日の出来事を話すかのように、語り始めた。


「あれは、偶然の化学反応というよりも、数十億光年先の宇宙から届いた『情報』が――」


 その言葉が、蒼太の脳内で張り詰めていた最後の糸を断ち切った。


 情報。

 宇宙。

 生命。


 それらは、彼が愛した科学の言葉だったはずだ。

 だが、加納凪咲の口から語られるとき、それは冒涜的な響きを帯びる。

 彼の知性が、警鐘を乱打していた。


「……宗教だ」


 蒼太は、静かに立ち上がった。

 声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。


「これは人心を惑わす悪質なカルトだ。……ふざけるな」


 科学的な論理で、どれだけ打ちのめされても食らいつく用意はあった。

 自分の無知を認めることさえ、覚悟していた。

 だが、聞かされているものが、カルトの教義だったとは。


 俺は、エリートの道からはじき出され、この底辺高校に流れ着き、挙句の果てに、得体の知れない教団のターゲットになるまで落ちぶれたというのか。


 その侮辱は、彼のプライドが許容できる限界点を、遥かに超えていた。


 蒼太は、凪咲にも、つかさにも視線をくれず、音を立てない、幽鬼のような足取りで化学準備室を出て行った。

 軋《きし》んだドアが閉まる音が、彼の拒絶そのものだった。


 ひやりとした廊下の空気が、沸騰した頭をわずかに冷やす。

 だが、数歩進んだところで、彼の足はコンクリートの床に縫い付けられたように止まった。


 一つの巨大な矛盾が、彼の思考に楔を打ち込む。


 待て。

 もし、あれが単なるカルトならば、なぜ。

 なぜ、あの白石つかさが、そこにいる?


 蒼太は踵《きびす》を返し、今しがた閉めたばかりのドアを、今度は何の躊躇もなく、乱暴に開け放った。


 再び部室に踏み込んだ彼は、部屋の中央に立つ加納凪咲には一瞥もくれなかった。

 彼女は、彼の認識の外にあるべき存在だ。

 蒼太の視線は、ただ一点、窓際の影に立つ少女だけを射抜いていた。


 彼が唯一信じる、揺るぎない価値基準。

 その物差しを、目の前の矛盾に叩きつける。


「白石。おまえ、偏差値はいくつだ」


 その問いは唐突で、全ての文脈から切り離されていた。

 だが、つかさは表情一つ変えない。


「さあ、いくつだったか忘れたわ」


「じゃあ、全国模試の順位を言ってみろ」


 蒼太の声が、苛立ちに震える。

 つかさは、わずかに首を傾げ、記憶を探るように、こともなげに言った。


「だいたい、一桁だったと思うけど」


「全国順位だぞ?」


 念を押すような問いは、ほとんど悲鳴に近かった。


「ええ」


 その瞬間、蒼太の世界から音が消えた。


 化学準備室の空気も、西日の光も、隣に立つ凪咲の存在も、全てが遠のいていく。

 彼の脳は凍りついていた。

 全国で、一桁。

 それは、彼がいるべきだった世界の、さらにその頂。

 その場所にいる人間が、なぜ。


 蒼太は、ただ固まったまま、何も言えなかった。


 凍りついた沈黙を破ったのは、つかさだった。

 彼女の問いは、蒼太の存在そのものを値踏みするかのように、静かに放たれた。


「メリトクラシーという言葉は知っているかしら?」


「……聞いたことはあるが」


 蒼太は、喉の奥から絞り出すように答えた。

 その一言が、彼のプライドを支える最後の防壁だった。

 だが、つかさはその脆い壁を、まるで存在しないかのように通り抜けてくる。


「能力主義社会。才能や努力といった『能力、業績(メリット)』によって人の価値や地位が決まる社会システムのこと。特にこの国では、その能力が『偏差値』という、極めて単純な数値に置き換えられている」


 彼女の声は、体温のないガラスのようだった。

 それは講義ではなかった。

 彼の魂を解剖台に乗せ、その構造を冷静に分析していく、冷徹な解体作業に近かった。


「……それが、どうした」


 蒼太の苦し紛れの言葉は、抵抗というより、これ以上踏み込んでくるなという無力な悲鳴に似ていた。


 だが、つかさは容赦しない。

 最も鋭利なメスの刃が、彼の最も深い傷口へと、静かに突き立てられた。


「あなたは、そのシステムの敬虔な信者であり、同時に、そのシステムから弾き出された敗北者でもある。違うかしら?」


 その一言は、蒼太の胸の奥、最も触れられたくない場所に突き刺さった。

 脳裏に蘇る、あの日の不合格通知の、目に痛いほどの文字。

 視界が赤く染まるような、血が逆流する熱い感覚。

 だが、何も言い返せない。

 事実、という二文字が、彼の反論の全てを封じ込めていた。


 つかさは、蒼太の沈黙を肯定とみなし、まるで興味深い研究対象を観察するように、静かに続けた。


「だから、あなたは理解できないの」


 彼女は、彼の思考の逃げ道を、一つ、また一つと塞いでいく。


「あなたの物差しでは、加納凪咲は測定不能。成績は最底辺。あなたの価値観では『無能』の烙印を押されるべき存在よ。その『無能』な人間が、宇宙の真理を語るなど、あなたの脳が処理を拒否する。だからあなたは、それを最も理解しやすいカテゴリー『カルト』に分類して、思考を停止した。そうでしょう?」


 蒼太は、唇を噛みしめることしかできなかった。


 見抜かれている。

 自分の思考回路、プライド、そして何より、この底なしの劣等感を、この女は全て見抜いている。


 つかさは、静かに問いを重ねた。


「全国模試で一桁の私が、なぜここにいると思う? なぜ、あなたの言う『カルトの教祖』と一緒にいると思う? あなたの信じるメリトクラシーの上位にいる私が、なぜ、そのシステムの底辺にいる彼女の言葉に真実を見ているのかしら?」


 その問いに、蒼太の思考は一瞬、凍りついた。


 だが、今回は崩れなかった。


 彼は、つかさの論理の矛盾ではなく、その構造そのものに反撃の糸口を見出した。


 そうだ、問題は信者じゃない。

 教祖だ。


「……お前の優秀さは分かった。だからこそ、質《たち》が悪い」


 蒼太の声は、怒りではなく、冷たい確信に満ちていた。

 彼の視線は、つかさを通り越し、その背後で静かに微笑んでいる凪咲へと注がれる。


「歴史上、危険な教祖ほど、優秀な人間を側《そば》に置きたがる。自らの言葉に権威付けをするためにな。お前は、加納の『奇跡』を正当化するための、最高の広告塔だ」


 つかさの眉が、僅かに動いた。

 蒼太が初めて、自分のテリトリーに上がってきたことを感じ取ったからだ。


「あなたの分析は浅い」


 つかさの声が、化学準備室の空気を切り裂く。


「カルト教祖が提供するのは『教義』よ。信じるだけで救われる、閉じた物語。思考を停止させるための、甘美な毒。対して、凪咲が提供するのは何か。彼女は、ただ存在するだけ。彼女自身が、一つの巨大な『問い』なのよ。彼女は信じることを求めない。観測すべきことを、私たちに投げかけてくる」


「その『観測』が、既に罠だと言っている!」


 蒼太は声を荒げた。

 つかさの完璧な論理の、唯一にして最大の弱点を、彼は的確に突いた。


「どんな教祖も、最初は信者に『奇跡』を観測させることから始める! 『見よ、常識ではありえないことが起きているだろう』と! そして、その不可解な現象に魅了された人間は、いつしか観測者であることさえ忘れ、それを説明してくれる教祖の『物語』を無批判に受け入れるようになる!」


 蒼太は、つかさに真正面から向き直った。


「お前は、加納凪咲という『奇跡』を前にして、冷静さを失っている。加納が『問い』だ? 違う。お前はもう、加納が用意した『答え』の虜になっているんだ。お前は、自分の知性への過信から、その事実に気づいてすらいない!」


 会心の一撃だった。

 蒼太は、自らの知性の全てを懸けて、つかさの論理の心臓を撃ち抜いた。


 化学準備室に、濃密な沈黙が落ちる。


 凪咲は、楽しそうに瞬きをしている。


 やがて、つかさの唇の端に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。

 まるで、思いがけず解きごたえのある問題に出会ったときの、数学者のそれのようだった。


「……見事な反論ね」


 彼女は、蒼太の指摘を、一切の動揺なく受け止めて頷いた。


「ええ、その通りよ。観測対象が、観測者に影響を及ぼす。そのリスクは、常に存在する。私の客観性が、既に歪んでいるという仮説は、論理的に正しい」


 そして、つかさはチェスで王手をかけるように、静かに、しかし決定的な一手を打った。


「だから、この観測には、対照実験が必要なの」


「……対照実験?」


「そう。加納凪咲という現象に魅了され、肯定的なバイアスがかかっている可能性のある観測者。それが、私」


 つかさは、自分を指し示した。

 そして、その指先を、ゆっくりと蒼太へと向ける。


「そして、彼女を『カルトの教祖』と断じ、徹底的に懐疑的な視点をもつ観測者。それが、あなたよ、結城蒼太」


 つかさは、蒼太の反論そのものを、自らの実験計画の最も重要な要素として、その論理体系に組み込んでみせた。


「あなたが私を監視し、私のバイアスを指摘しなさい。私はあなたの懐疑論を検証する。この『アセンション研究会』は、信仰の場じゃない。あなたと私で、互いを監視し合う、相互検証の実験室よ」


 蒼太は、息を呑んだ。


 彼女を論破し、その目を覚まさせるはずだった。

 だが、気づけば自分自身が、彼女の冷徹な実験計画に、最も重要な「サンプル」として取り込まれてしまっていた。

 断ることは、科学的探究の放棄を意味する。

 彼のプライドが、それを許さなかった。


 蒼太は、口角を上げ、はっきりと言った。


「いいや。情報物理学応用研究会だ」

お読みいただきありがとうございます!

【全22話 執筆済み 毎日2話投稿予定】

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