障子の向こうに時代が立つ
のちに吉田稔麿と呼ばれる子は,幼いころ,栄太郎という名で呼ばれていた.
萩の町は,海に近いわりに,夜になると水の気配よりも土の匂いが濃くなる.山が町を抱え込み,古い家々が道を狭め,日が落ちると,人の声まで低く沈んだ.
栄太郎は,その沈み方をよく知っている子どもだった.
夕餉のあと,大人たちが声を潜める.
父が黙る.
母が,聞こえぬほど小さく息をつく.
子どもに分かる話ではない,と大人は思っている.けれど,子どもは言葉の意味より先に,声の重さを覚える.何かが家の外で起きている.それはまだ戸口を叩いてはいないが,いずれ必ず入ってくる.
栄太郎は,そういうことだけは分かった.
「世が変わる」
ある晩,誰かがそう言った.
世,というものが何なのか,栄太郎には分からなかった.
萩の町のことか.
長州のことか.
それとも,地図の上でしか見たことのない江戸や京のことか.
けれどその言葉は,ひどく大きなもののように思えた.大きすぎて,家の中には収まりきらない.柱や梁に引っかかり,障子の紙を内側から押している.
その夜から,栄太郎は障子の向こうを気にするようになった.
何かがいる,と思うことがあった.
人ではない.獣でもない.
影というほど形はなく,風というほど軽くもない.
ただ,夜が深くなると,家の外に何かが立つ.じっとこちらを見ている.
怖くはあった.
だが,怖いだけではなかった.
栄太郎は布団の中で目を開けたまま,それを待つことがあった.庭木の葉が擦れる音.遠くで犬が吠える声.柱の奥で,家そのものが小さく身じろぎする音.そういうものを一つ一つ聞き分けながら,今夜も来るだろうか,と思った.
ある晩,それは本当に来た.
月のない夜だった.
部屋の中は暗く,けれど障子だけが,水に浸した紙のようにぼうっと白かった.
栄太郎は目を覚ました.
はじめから眠ってなどいなかったのかもしれない.ただ,気づいたときには目を開けていた.胸の奥が妙に静かで,自分の息の音だけが大きく聞こえた.
障子の向こうに,誰かが立っている.
そう思った.
影は動かなかった.
名を呼ぶ声もしなかった.
それなのに,栄太郎には,自分が呼ばれているのだと分かった.
こちらへ来い.
そう言われた気がした.
萩の小さな家に眠っているな.
母の手の届くところにいるな.
もっと遠くを見ろ.
もっと暗いところまで来い.
栄太郎は,そっと布団を抜け出した.
畳は冷たかった.足の裏から,夜そのものが体に入ってくるようだった.彼は障子の前まで歩いた.途中で床板が鳴るかと思ったが,何も鳴らなかった.家中が息を止めているようだった.
手を伸ばす.
障子の桟に指が触れた.
そのとき,背後から声がした.
「栄太郎」
母の声だった.
栄太郎は振り向いた.
母は布団の上に身を起こしていた.暗がりの中で,その顔は白く見えた.叱っている顔ではなかった.怯えている顔でもなかった.ただ,何かを知っている人の顔だった.
「どこへ行くのです」
栄太郎は答えられなかった.
どこへ,と言われても分からない.
外へ,と言うには近すぎた.
遠くへ,と言うにはまだ何も知らなかった.
ただ,呼ばれたのだ.
夜の底から.
まだ見たことのない道から.
いつか自分がそこへ行かねばならない場所から.
母はしばらく栄太郎を見ていた.それから,静かに立ち上がった.足音を立てずに近づき,栄太郎の肩に手を置いた.
温かかった.
その温かさに触れて,栄太郎は初めて,自分の体がひどく冷えていることに気づいた.
母は障子を見なかった.
外に何がいるのか,確かめようともしなかった.
ただ,栄太郎を布団へ戻した.掛け布を肩まで引き上げ,額に手を置いた.
「まだ,行かなくてよいのです」
その言葉を,栄太郎は長く覚えていた.
まだ,ということは,いつかは行くのだろうか.
行かなくてよい,ということは,本当は行く場所があるのだろうか.
尋ねようとしたが,母はもう何も言わなかった.
障子の向こうの気配は,消えていた.
翌朝,庭には何の跡もなかった.
泥もない.
足跡もない.
枝が折れた様子もない.
ただ,朝の光だけが,少し違っていた.
栄太郎は庭に立ち,白く乾いた地面を見ていた.昨夜あそこに何かがいた,と誰かに言えば,夢だと言われるだろう.子どもの思い違いだと笑われるだろう.
だから,誰にも言わなかった.
それから何年も経って,栄太郎は学ぶことになる.
人は何のために生きるのか.
国とは何か.
道とは何か.
命を惜しむことと,命を用いることは,同じではないのだということを.
さらに何年も経って,彼は吉田稔麿と呼ばれるようになる.
多くの若者たちと同じように,時代の熱に身を投じることになる.
京の夜を歩き,刀の気配を知り,声を潜めて未来を語ることになる.
けれど,そのすべてはまだ先の話だった.
このときの栄太郎は,まだ小さな子どもだった.
母の手の温かさを知っていて,夜の冷たさも知っていて,障子の向こうに立つものの名を知らなかった.
名を知らないものは,怖い.
だが,名を知ったあとでも,それはやはり怖いのだと,彼はまだ知らなかった.
それは化け物ではなかった.
幽霊でもなかった.
たぶん,時代というものだった.
時代はいつも,大人の顔をしては来ない.
ときには声もなく,足跡も残さず,眠っている子どもの家の前に立つ.
そして,障子一枚の向こうから,その子の名を呼ぶ.




