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歴史

障子の向こうに時代が立つ

作者: くるみ
掲載日:2026/05/06

のちに吉田稔麿と呼ばれる子は,幼いころ,栄太郎という名で呼ばれていた.


萩の町は,海に近いわりに,夜になると水の気配よりも土の匂いが濃くなる.山が町を抱え込み,古い家々が道を狭め,日が落ちると,人の声まで低く沈んだ.


栄太郎は,その沈み方をよく知っている子どもだった.


夕餉のあと,大人たちが声を潜める.

父が黙る.

母が,聞こえぬほど小さく息をつく.


子どもに分かる話ではない,と大人は思っている.けれど,子どもは言葉の意味より先に,声の重さを覚える.何かが家の外で起きている.それはまだ戸口を叩いてはいないが,いずれ必ず入ってくる.


栄太郎は,そういうことだけは分かった.


「世が変わる」


ある晩,誰かがそう言った.


世,というものが何なのか,栄太郎には分からなかった.

萩の町のことか.

長州のことか.

それとも,地図の上でしか見たことのない江戸や京のことか.


けれどその言葉は,ひどく大きなもののように思えた.大きすぎて,家の中には収まりきらない.柱や梁に引っかかり,障子の紙を内側から押している.


その夜から,栄太郎は障子の向こうを気にするようになった.


何かがいる,と思うことがあった.


人ではない.獣でもない.

影というほど形はなく,風というほど軽くもない.

ただ,夜が深くなると,家の外に何かが立つ.じっとこちらを見ている.


怖くはあった.


だが,怖いだけではなかった.


栄太郎は布団の中で目を開けたまま,それを待つことがあった.庭木の葉が擦れる音.遠くで犬が吠える声.柱の奥で,家そのものが小さく身じろぎする音.そういうものを一つ一つ聞き分けながら,今夜も来るだろうか,と思った.


ある晩,それは本当に来た.


月のない夜だった.

部屋の中は暗く,けれど障子だけが,水に浸した紙のようにぼうっと白かった.


栄太郎は目を覚ました.


はじめから眠ってなどいなかったのかもしれない.ただ,気づいたときには目を開けていた.胸の奥が妙に静かで,自分の息の音だけが大きく聞こえた.


障子の向こうに,誰かが立っている.


そう思った.


影は動かなかった.

名を呼ぶ声もしなかった.

それなのに,栄太郎には,自分が呼ばれているのだと分かった.


こちらへ来い.


そう言われた気がした.


萩の小さな家に眠っているな.

母の手の届くところにいるな.

もっと遠くを見ろ.

もっと暗いところまで来い.


栄太郎は,そっと布団を抜け出した.


畳は冷たかった.足の裏から,夜そのものが体に入ってくるようだった.彼は障子の前まで歩いた.途中で床板が鳴るかと思ったが,何も鳴らなかった.家中が息を止めているようだった.


手を伸ばす.


障子の桟に指が触れた.


そのとき,背後から声がした.


「栄太郎」


母の声だった.


栄太郎は振り向いた.


母は布団の上に身を起こしていた.暗がりの中で,その顔は白く見えた.叱っている顔ではなかった.怯えている顔でもなかった.ただ,何かを知っている人の顔だった.


「どこへ行くのです」


栄太郎は答えられなかった.


どこへ,と言われても分からない.

外へ,と言うには近すぎた.

遠くへ,と言うにはまだ何も知らなかった.


ただ,呼ばれたのだ.


夜の底から.

まだ見たことのない道から.

いつか自分がそこへ行かねばならない場所から.


母はしばらく栄太郎を見ていた.それから,静かに立ち上がった.足音を立てずに近づき,栄太郎の肩に手を置いた.


温かかった.


その温かさに触れて,栄太郎は初めて,自分の体がひどく冷えていることに気づいた.


母は障子を見なかった.

外に何がいるのか,確かめようともしなかった.


ただ,栄太郎を布団へ戻した.掛け布を肩まで引き上げ,額に手を置いた.


「まだ,行かなくてよいのです」


その言葉を,栄太郎は長く覚えていた.


まだ,ということは,いつかは行くのだろうか.

行かなくてよい,ということは,本当は行く場所があるのだろうか.


尋ねようとしたが,母はもう何も言わなかった.


障子の向こうの気配は,消えていた.


翌朝,庭には何の跡もなかった.

泥もない.

足跡もない.

枝が折れた様子もない.


ただ,朝の光だけが,少し違っていた.


栄太郎は庭に立ち,白く乾いた地面を見ていた.昨夜あそこに何かがいた,と誰かに言えば,夢だと言われるだろう.子どもの思い違いだと笑われるだろう.


だから,誰にも言わなかった.


それから何年も経って,栄太郎は学ぶことになる.

人は何のために生きるのか.

国とは何か.

道とは何か.

命を惜しむことと,命を用いることは,同じではないのだということを.


さらに何年も経って,彼は吉田稔麿と呼ばれるようになる.

多くの若者たちと同じように,時代の熱に身を投じることになる.

京の夜を歩き,刀の気配を知り,声を潜めて未来を語ることになる.


けれど,そのすべてはまだ先の話だった.


このときの栄太郎は,まだ小さな子どもだった.

母の手の温かさを知っていて,夜の冷たさも知っていて,障子の向こうに立つものの名を知らなかった.


名を知らないものは,怖い.


だが,名を知ったあとでも,それはやはり怖いのだと,彼はまだ知らなかった.


それは化け物ではなかった.

幽霊でもなかった.


たぶん,時代というものだった.


時代はいつも,大人の顔をしては来ない.

ときには声もなく,足跡も残さず,眠っている子どもの家の前に立つ.


そして,障子一枚の向こうから,その子の名を呼ぶ.

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