幽霊の恩返し
まただ、と健一はうんざりした。隣の須崎の奴だ。とにかく厄介な隣人である。うるさいのだ。爆音で、テレビをつけているようだ。こちらの部屋まで丸聞こえである。壁の薄いアパートである。聞こえてくるのは、向こうも分かっているはずだ。でも、お構いなしである。所謂、騒音迷惑というものである。仕方なく、健一は、また例の耳栓を流しの棚の引き出しから取り出して、嵌める。これで防ぐしかない。
健一が、このアパートに越してきて、もう数年になるが、隣に若い須崎が越してきて以来、気の休まることがない。とにかく、好き放題の男なのだ。まずは、この騒音だ。それから、ゴミ捨ての問題がある。ゴミをきちんとゴミ収集所へ持って行けばいいものを、何やら面倒なのか、扉の横に置いておく。隣は、健一の部屋だから、邪魔で仕方ない。あとは、知り合いらしき連中とのどんちゃん騒ぎである。これも連日連夜騒がしい。夜もろくに眠れたものじゃない。何かの飲み会らしいが、うるさいこと、この上ない。
反対側の隣室は、空き部屋だから、どうやら2階の被害者は健一だけらしい。
この数ヶ月前に、一度、直接文句を言いに隣の須崎を訪問したことがある。所謂、意を決しての抗議である。
しかし、扉を開いて出て来たのは、坊主頭の厳つい顔の若いヤクザ風の男で、健一の言葉も意見も意に介さない。俺の家だ、俺の勝手だ、の一点張りである。これには、健一も参った。おまけに、暴力団と絡んでいるのか、覚醒剤でもやっているのか、妙に顔つきが怪しく、呂律が回っていない。恐い。恐ろしくなって、健一は早々に辞退して帰宅した。
という次第で、今日も、健一は細々と肩身の狭い思いをしながら、日々の暮らしを送っていた。
通っているのは、自動車の金属部品の製造工場だ。旋盤でネジを製造する簡単な作業だが、工場ゆえに危険は伴う。前にも、同僚の男がひとり、機械に手を挟まれて、手首を飛ばしている。危険この上ないのだ。しかし、自宅での被害を考えると、ここはある意味で緊急避難場所である。心安らぐのである。健一は、こっそりと、眠気覚ましのミントガムを噛みながら、仕事に励む。それに職場の愉しみもある。それは、同僚の久美子だ。若くて可愛い女の子だ。密かに健一は思いを寄せているが、向こうもまんざらではないらしい。よくお茶を入れてくれて、この前は、映画のチケットを2枚差し出してきて、一緒に行きませんかと来た。正直、嬉しい。これからが楽しみだ。
そんなこんなで、今日も気の重い帰宅をする。コンビニで安い唐揚げ弁当と値引きシールの貼ったお茶のボトルを買い、重い足取りで、アパートの階段を上る。
耳栓をすると、騒音を忘れて夕飯に集中する。食い終えて、こちらも負けずと、音量を上げてテレビを眺め、暇な時間を潰す。良いなあ、綾瀬はるかちゃん。可愛いなあ、美人だよなあ。
「そんなに綺麗?彼女?」
急に、そんな声が聞こえてきて、健一は驚いた。振り向いたが、部屋には誰もいない。大体が、6畳一間だから、人の隠れる場所なんてない。いったい、何だ。誰だよ。おかしいな、空耳かよ。まあ、いいか。
とりあえず、布団を敷いて寝ることにする。しかし、なかなか寝つけない。何やら身体が重苦しい。おかしい。と思って、ふと、部屋の暗闇の中を見上げると、自分の寝ている布団の上に、ひとりの若い女性が、ボンヤリと白く光って座っている。
「あ、あのう?」
と、自分でも不思議なくらい冷静だ。すると、その女は、悪いと想ったのか、ヒョイと身を移して、彼の枕元に座り直して、正座すると、
「恐れ入ります。こんな夜更けにお邪魔しまして申し訳ございません」
と、丁寧に頭を下げた。
「あっ、あっ、あの、幽霊さんなので?」
「はい、巷では、そう呼ばれている者でございまして」
あまり、恐怖感はない。彼女が、礼儀正しいからか。
「なぜ、ここに出たんです?」
と、健一まで謙虚になる。
「実は、あたくし、前にこの部屋に住んでいた者なのですが、突然の病に倒れまして、そのまま................」
やおら、健一まで起き上がると、神妙に腕を組んで、
「で、成仏できないと?」
「ええ、残してきた旦那のことが気がかりで......................」
「ご主人、再婚は?」
「うちの旦那、内気でして、とてもとても、そんなこと。それさえ、何とかなって、彼が幸せになってくれればと、あたしも浮かばれずに」
「うーむ、そうですか。あのう、失礼ですが、お名前は?」
「生前は、桑田実咲恵と申しまして」
眠くなってきた。幽霊は眠らないのだろう。こっちは、堪らん。
「ともかく、眠らせてくれませんか?どうも、眠くて」
「これは失礼しました。あたしもお話しできて、気が済みましたわ。では」
と、実咲恵は、サラッとかき消すように白い姿を闇の中からかき消した。
翌朝、まだ隣の騒音は聞こえてこない。やれやれ、昨夜飲み疲れて眠っているのか、どうかは分からない。眠い目を擦って、健一は朝のゴミ出しに出る。案の定、扉のそばは、ゴミ袋の山である。すべて須崎のゴミだ。仕方ない。と、諦めて、自分のゴミと一緒に隣のゴミも捨てに行く。所謂、博愛精神である。
今日も出勤だ。頑張らねば。
歯磨き、洗顔の次は、朝食だ。例の実咲恵さんも、夜間しか姿は見せないようだ。まあ、うるさくなくていい。トーストとコーヒーとハムエッグの簡単なメニューで食事を済ませる。腕時計を見る。午前8時20分過ぎだ。そろそろ出よう。
健一は、出来るだけ明るい顔をして、アパートを出た。明るい顔をしていれば、心も明るくなる。そんなことを、ものの本で読んだ記憶がある。気分は明るい方がいい。今日も、久美子ちゃん、来るかな、楽しみだな。電車を乗り継いで、工場到着である。
朝は、皆でラジオ体操の時間である。健康管理と、事故防止の意味がある。気をつけねば。
作業に取りかかる。仕事とはいっても、ほとんど部品のネジを削ったり、磨いたりは、機械任せである。自分は差し替えるだけだ。とはいうものの世話はやける。長時間となると疲れてくる。
「お疲れさま!麦茶どうぞ!」
と、久美子が冷えた麦茶のコップを持ってきてくれる。嬉しい。ゴクリと喉ごす。潤う感じだ。
隣には、同僚の佐久間さんがいる。彼は、僕よりは年齢的にも会社的にもずっと先輩である。佐久間俊二さんである。その俊二さんが、11時の休憩になると、煙草を吸おうという。ふたりで、裏庭の喫煙所に行く。
「どうだ?やっぱり止められんか、煙草?」
と、いきなりに尋ねられた。
「そうですね、止める気がないからかも」
「俺もな?」
と、キャメルを吹かす。安煙草だ。俊二さんは、吸い殻を水の入れたドラム缶に放り込むと、
「俺、そろそろ再婚考えてんだよ、前に別れた妻とも、もう2年だろう。どう思う、岡村?」
「僕、結婚の経験ないっすからね。あんま、いいアドバイスないっすよ、でも、人生の再スタートじゃないですか、こりゃ、どこかでお祝いしないと」
「いいよ、そんなの。入籍したら、あとは内々で簡単に式を済ませようと思ってんだ。今はそんなの、流行りだろ?」
「略式婚ですか?奥さん、美人でしょ?」
「何言ってんだよ。褒めても、何も出んぞ」
裏庭は広いが、所々、草の生えた庭の空き地の中央に置いたドラム缶が、やけに大きく見える。デカい。
そう言えば、あの実咲恵さんも、ご主人が再婚出来ずに悩んでたな、ううむ、悩むパズルだ。これは。
お昼は、近くの給食センターから宅配される仕出し弁当である。まあまあの味に舌鼓を打ち、昼休みの時間は、また俊二さんとスモーキングタイムである。裏庭へ。
「何かさ、生き甲斐っていうかさ、心満たされることってあるか?」
と、俊二さんが尋ねてきた。それで、
「生き甲斐ですか?参ったな、考えたこともないや?」
と、答えると、俊二さんは悲しげに、
「だよな、若いっていいよな。でも、俺くらいの年になるとなあ」
と、言って、しんみりとした様子だった。僕は、メビウスの煙草の吸い殻をドラム缶に放り込んだ。
午後は、またいつものネジ作りである。機械とタイミングを合わせるのが大変だ。うまく調子に乗れば、リズムが良くなる。そして、久美子ちゃんがお茶を運ぶタイミングが抜群だ。その旨い麦茶を飲んで、仕事に励む。ことのほか、仕事が進む。あっという間に帰宅時刻が来て、休みの日曜日は、久美子ちゃんとデートだ。ウキウキしながら、帰宅する。
しかしである。帰宅すると、いつもの地獄が健一を待っていた。
扉を閉めると、隣から爆音である。夕食のカツ丼と山菜そばも堪ったものじゃない。うるさくてしょうがない。しかし大声を上げて抵抗しても無駄なことは、前に試しているから、分かってる。諦めて、こっちも、ステレオの音量を上げて対抗する。しかし、何か虚しいような気がする。夕食をそこそこに終えて、趣味のペーパークラフトに取りかかる。今は、箱根城である。頑張って作業台に向かうのだが、隣の騒音と自分のステレオの音量で収拾がつかない。1時間ほど粘ったが、箱根城の屋根瓦で結局諦めて、寝転がりテレビを見る。眺めても、あまり面白くない。
「何だか、つまらなそうな顔してるわね?」
「ああ、いたの?」
「あたしも暇だから」
見ると、流しの隣の壁に、ちんまりと、白い影の実咲恵が座っている。でも、彼女、幽霊とはいえ、何だか気になる。
「君が成仏できない理由って何だっけ?」
「だから、あたしの旦那。今でも好きだから未練あるわよ。でも、あたし、もう幽霊でしょ?だから、せめて彼に幸せになって欲しいっていう嫁心なの、分かる?」
「うん、分かる気もする。じゃあ、旦那が再婚してもいいの?君、今でも好きなんだろ?」
「好きだから再婚して欲しい訳。あたしは、もう潔く身を引く覚悟よ」
「すげえな、そういう事か、......................、うん、分かった。ここは、心優しき僕が、一肌脱ぐよ。彼を再婚させればいいんだろ?」
「嬉しい!でも、無理でしょ、そんなの?」
「ふーん、でさ、彼の名前と住所、教えてくれる?」
「桑田啓介、住所はねえ、ええっと、世田谷区、........................」
「分かった。ありがとう。じゃあ、僕が何とかしてみるよ、任せて」
「何とお礼を言えばいいのか、どうも、どうもありがとうございます」
「それは、彼の一件が済んでから。考えてみるよ、じっくりと」
すると、実咲恵は気が済んだのか、パンとかき消すように白い姿を消した。
翌日は、土曜日で工場は休日だ。どうやら、耳栓をしたまま眠ったらしい。外して、丁寧に布団をたたみ、押し入れに入れる。そして、洗顔と歯磨き、ヒゲ剃りである。それが済んだら、朝食だ。今朝は、気分転換に外で喰うか?
健一は、財布を持ってひとりアパートを出る。近くの公園の隣にコンビニがある。
朝の清々しい空気を吸いながら、店でカツのサンドイッチと、梅と鮭のお握りとコーラ缶を買い、児童公園の青いベンチに腰かけて、朝食を取る。外で食うと、うまいものだ。思わずハミングまで出てくる。そして、食後の一服である。煙草のメビウスを1本抜いて、火をつける。ふうとひと息。
旨い。至福の一服である。
スマホが鳴った。誰かな?画面を見る。大きく「福原久美子」とある。何だ、久美子ちゃんか?
「おはよう!どうしたの?」
「ああ、健ちゃん、明日の映画のチケット、あたし、渡したっけ?」
「うん、大事に鞄に持ってるよ。どうかしたの?」
「ああ、良かった。あたし、てっきりなくしちゃったのかと思って今までオロオロしてたの。渡してたのか、良かった」
「明日の午後1時に、新宿駅ね。例の自販機の前で待ってる」
「オッケー。じゃあね、また明日」
「バイバイ」
呑気だな、それにしても。
またしばらくして、スマホが鳴る。どうして現実って、こう塊り魂持ってんのかな?不思議で仕方ない。スマホには、「佐久間俊二」とある。次は、俊二さんか?
「はい、岡村です。何か?」
「おう、健一か、朝飯喰ったか?」
「今食べましたよ。それよりも、聞きたいんですけど、俊二さん、再婚は、お見合いですか、それとも恋愛?へへっ?」
「何言ってんだよ、まあ見合いってとこかな?今流行りの婚活センターってとこで、彼女と知り合ったんだ。それ以来ずっとおつき合いしてさ、もう1年近いんだ。向こうもバツイチでさ、案外と話合うんだぜ、俺たち」
「ふーん、それで何の用件です?この電話」
「そう、つれないこと言うなよ、たまに俺も人の声が聞きたくなることあるの、付き合えよ?」
「僕、今日は忙しいんです。またにして下さい」
「分かった、分かった。相手を変えるよ。じゃあな」
スマホを切る。俊二さんに言ったことは本当だ。今日は忙しい。何せ、幽霊の実咲恵との約束がある。朝飯を喰ったら、さあ行動開始である。朝飯の屑ゴミを、近くの金網のゴミ入れに入れると、公園をあとにする。自宅へ直行だ。
アパートの畳に寝そべって、スマホのマップを開く。そして、実咲恵さんから聞いたご主人の桑田啓介の住所検索。なるほど、なるほど。彼女の旦那ってのは、ここに住んでるのか?分かった。ならば、あとは、当たって砕けろだ。行くしかない。そう考えて、一応、変装用にと、黒いサングラスと、ニット帽を被って、外出する。
この格好でも別に怪しまれないようだ。案外と、他人って、他の人を見てないもんなんだな、とか勝手に思う。駅から電車に乗り込み、世田谷駅で降りる。そこからは、スマホでナビして貰う。マップからいくと、どうやら団地住まいらしい。それで、アルファベットだの何号室だのと彼女、言ってたのか。近くのコンビニで、菓子パンと飲み物を買っておいて、ここからは、刑事になった気分である。団地の1階が、目当ての部屋だったから、近くの土手に座って、啓介さんの扉を睨みながら、「張り込み」である。
しかし、出てこないものである。2時間以上は待ったと思う。ようやく、彼が一度顔を出した。優しい感じの小柄な中年男である。こいつかよ、実咲恵さんが、ぞっこんって男は。まあまあ、感じのいい男ではある。彼は、壁の共同ポストを覗くと、また姿を引っ込めた。それにしてもどうする?どうやって、彼に再婚させるか?
とか何とか考えていると、扉が開き、パリッとしたジャケット着の啓介が、散歩か、お昼でも食べに行くのか、出ていくらしい。もしも車ならマズいな、と思っていると、啓介がテクテクと舗道を歩き出した。良かった。それで、健一も尾行中の刑事よろしく、ヒタヒタと跡をついていく。やがて、啓介は、駅前のセンター街を抜けて、電車に乗る。健一は、とりあえず比較的高額の普通切符を買って準備し、あとに続いて改札口を通る。どこ行くんだろう?健一は気が気でない。と思っていると、3つ目の駅で降りたから、慌てて飛び降りるようにあとに続く。啓介は、後ろから見ていると、マイホームパパって感じの人だな、と健一は思う。歩き方も、そつがなく、目立たない。何だか実咲恵さんの気持ちが分かってきたような気がする。とか考えていると、啓介は、駅前の街角の小さな喫茶店に入っていく。入り方が妙に慣れている雰囲気がある。これは、店の常連だなと、健一は直感した。それに、啓介の店の入り方が、とても、いそいそしている雰囲気もあった。この店に、何かのお目当てでもあるのだろうか?よし、これは入って探る値打ちがありそうだ。
喫茶店「ボナンザ」の店内は、明るくて、窓辺にたくさんの観葉植物が置いて飾ってある。何十鉢あるのだろうか?音楽も、陽気なボサノバが、かかっていてムード感があった。目当ての啓介は、ジャケットの埃を払いながら、カウンター席に座る。男を決めた感じだ。そして、何気なく奥のカウンター席に座った健一は、抜け目なく隣の啓介を窺う。するとである。啓介の視線が、常にカウンターの奥にいる喫茶店のマダムの女性に注がれていることに、健一は気づいた。ははあ、と健一は悟った。マダムの女性は、40代前後の割と美貌の女性である。ロングの巻き毛を軽くなびかせて、コーヒー豆の破砕に余念がない。注文を聞いたウェイトレスの言葉によれば、このマダム、名前を百合子というらしい。その百合子をである、啓介はジッと見守るような視線で熱く見つめている。これは捨てておけない。どうやら、啓介の意中の人がここにいたようだ。
しかし、実咲恵の言うとおり、啓介は控えめな性格らしい。好きな女性が目の前にいても何もせず、ジッと見守って楽しんでいる。それでいいのだろうか?たぶん、休日になると、今日のようにこの店に現れて、カウンター席に座り、ジッと百合子さんを見つめて、時を過ごす。そう考えていると、だんだんと健一は腹が立ってきた。何だか煮え切らない啓介の態度に関してである。
何とかしてやる。そう決意して、健一は、一番安直な手を使うことにした。そして、そのタイミングを待った。
やがて、やって来た。
啓介は、気楽にコーヒーを飲もうと、カップを持ち上げた。そして、憧れの百合子さんは、彼の前に立っている。今だ。
健一は立ち上がると、トイレへ行くふりをして、わざと啓介の腕にガツンと衝突すると、さっさと逃げた。
それからは見ものであった。
健一の背後で、
「ごめんなさい。うっかり、こぼしてしまって。濡れましたね、ドレス?」
「いえいえ、いいんですのよ、こんなドレス。それよりも、そのジャケット、大丈夫かしら?」
と聞こえる。いい具合だ。あと、会話が続けばいいんだが。そう思いながら、トイレに入る。しかし、別に尿意を催したわけでもない。仕方なく、しばらく間を稼いでから、トイレを出た。
「そうですの?あら、世田谷区にお住まいですの?まあ、あたしもそうですのよ、こちらで店をやってますけどね」
「ええ、でも、寂しいものですよ、やもめ暮らしはね。妻をこの前に亡くしましてね。趣味や生活で、何とか暮らしてますがね?」
「あら、あたしも。もう夫を亡くして長くなりますわ。警察官を勤めてましてね、それも名誉の殉職ですのよ」
「ほう、というと?」
健一は、席に戻りながら、密かにほくそ笑んだ。これでいい。どうやら、話すきっかけにはなったようだ。あとは、ふたりに任せるか?そう考えて、健一は、代金を払って、「ボナンザ」を出た。
もう帰ろう。腕時計を見る。午後の2時過ぎだ。お昼でも喰って帰るか?それで、駅前そばの店で、天ぷらそばと、梅おむすびを買って立ち食いする。なかなかにいけた。電車で帰宅する。どうも、いいことをすると、気分がいいものだ。気分よく鼻歌を歌って帰宅していく。
帰宅すると、また騒音である。テレビの音がデカい。もう、最近では感覚が麻痺してきている。もう、どうでもいいや。帰り際に、駅前のスーパーで、ハンバーグ弁当の特大及び野菜サラダセットと、缶コーヒーを買っておいたから、早めの夕食にする。食い終わったら、あとは、趣味のペーパークラフトである。箱根城もあとひと息である。楽しんで作製する。コンビニでミントガムを買っておいたから、それを噛む。何でも噛む行為は、脳の活性化に繋がり、目覚ましにも良いそうだ。本当かどうか知らないが、良い感じもするので、噛んでおく。もう午後の8時を過ぎたが、実咲恵さんが出る気配がない。どうやら、今はご主人の啓介さんにご執心らしい。こっちに出る余裕はないようだ。
それが、半月ほど続いた。
その間も、相変わらずの騒音地獄だが、趣味のペーパークラフトとイヤホンでのテレビ鑑賞で何とか凌いだ。
ある夜である。
健一が、寝転がってテレビを眺めていると、向かいの壁際に、突然、白い影の実咲恵さんが現れると、丁寧に頭を下げて、
「全部、見ておりました。なかなかのお手前、お見事でございました。この度は、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
「というと、啓介さん、うまくいきそうなんですね?」
「ええ、妬けるくらい、仲が良いことで。この前も、ふたりで京都まで三日ほど旅行してきたわよ、もう婚約間近よね、もと嫁の直感。まあいいわ、せいせいする。これであたしも成仏できそうよ」
「ならいい。僕も安眠できる」
「でさ、何がいい?今度のお礼?」
「お礼?」
「幽霊だって、恩返しくらいするわよ、で、何にする?」
「お礼かあ?さあて」
と健一は、首を捻って、
「そうそう、隣のうるさい奴、迷惑してるんだ。君で、何とかならない?」
「じゃあ、今から、思いきり恐ろしく化けて出てあげようかしら、お隣に?きっとビビるわよ?」
「頼むよ、迷惑してんだ、力貸してよ?」
「じゃあ、行ってくる。恐怖の心霊体験って奴よね、ビックリさせようっと」
白い影がかき消えた。しばらくして、隣室から騒音に混じって、男の悲鳴が聞こえてきた。強烈な悲鳴である。それからバタバタと物音がして、それきり騒音が消えて、隣室が静かになった。気味悪いくらいである。何だか気になる。
「このぶんじゃ、あと2、3回も出れば、持って一週間ね。彼、怖がって出ていくわよ、このアパート」
彼女の予言は、的中した。須崎は、まるで逃げ出すかのような勢いで、5日後に、このアパートを越していった。出ていくときの須崎の顔つきは悲惨であった。まるで、この世のものではなかった。どんなことがあったのか知らないが?
「お世話になりました。本当にありがとうございました。それでは」
そう言って、実咲恵は成仏していった...................。
驚くことに、空いた隣室に久美子がやって来た。僕から、そのことを聞くと、不動産会社に問い合わせたらしい。勿論、幽霊の件は内緒だが。
「はい、リンゴとオレンジ。もっと果物取らなきゃ駄目だよ。これは、引っ越しの記念に」
そう言って、隣室の久美子は、健一に果物の袋を手渡した。瑞々しい果物である。新鮮だ。
スモーキングタイムである。またいつものように、俊二さんと談笑する。工場の裏庭といえ、立派な喫煙コーナーである。
「先週、入籍したよ。もう、戸籍上は、夫婦なんだがな。俺たち、もう歳だろう、今さら結婚式って感じもするしさ」
「とりあえず、おめでとうございます。末永く、お幸せに」
「ありがとう。また時間できたら、うちへ呼ぶよ。家内にも紹介したいし?」
「楽しみにしていますよ、でもいいなあ、結婚生活か?」
すると、俊二さんが、苦い顔つきで、
「そう、楽しいことばかりでもないがな」
と言い捨てて、煙草のキャメルの吸い殻をドラム缶に投げ込んだ。
「じゃあ、仕事、行きますか?」
と、健一も、吸い殻を投げ入れると、工場へと向かう。
やがて、工場の中へと消えていくふたりの男の背中が、だんだんと小さくなっていった.................。




