「君を愛することはない」と言われたので、横領の証拠を提出して公爵様に嫁ぎます
「エルナ・フォン・ベルク! 貴様との婚約は、今この場で破棄させてもらう!」
王宮の大広間。数百の燭台が煌めくその中心で、ヒステリックな絶叫が響き渡った。
優雅に流れていた弦楽四重奏が、不協和音を立てて停止する。
ダンスを楽しんでいた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように道を開け、そこにぽっかりと円形の空間が出来上がった。
その中心に立っているのは、顔を真っ赤にして指を突きつける男――私の婚約者であるロイ・アルバン子爵。
そして、彼の腕にこれ見よがしに絡みつき、勝ち誇った笑みを浮かべているのは、私の義理の妹であるミナだった。
「……ロイ様。今の言葉、もう一度お願いできますか?」
私は、手にした扇で口元を隠し、極めて冷静に問い返した。
動揺? 悲嘆?
いいえ。私がその時、必死に噛み殺していたのは――『安堵』による笑みだった。
(やっと……やっと言ってくれた!)
長かった。本当に長かった。
この瞬間を、私は半年も前から待ち望んでいたのだ。
「ふん、何度でも言ってやる! 君のような地味で、可愛げがなく、書類と数字のことしか頭にない冷血女など、愛することはないと言ったんだ!」
「そうですわ、お姉様。ロイ様は、真実の愛に目覚められたのです。身を引いてくださいな」
ミナが甘ったるい声で追撃する。
周囲の貴族たちからは、ヒソヒソと遠慮のない囁きが漏れ聞こえてきた。
「ああ、またか。アルバン子爵も愚かなことを」
「でも、あのエルナ嬢でしょう? 確かに優秀だけれど、華がないというか……」
「『氷の能面』なんてあだ名があるくらいだからな」
好き勝手な評価だこと。
けれど、私は傷つかない。彼らが知っているのは「アルバン子爵家の有能な金庫番」としての私だけ。私の本当の計画など、誰も知らないのだから。
私はゆっくりと扇を閉じた。パチリ、という乾いた音が、静まり返った広間に響く。
「承りました」
「……は?」
私の即答に、ロイが間の抜けた声を上げた。
彼は期待していたのだろう。私が泣き崩れ、足元に縋り付き、「どうか捨てないで」と懇願する姿を。そうして私のプライドを粉々に砕くことで、自身の矮小な自尊心を満たしたかったのだ。
残念ながら、その筋書きは三文芝居以下だ。
「私の瑕疵による破棄ではなく、ロイ様のご都合による一方的な破棄。……相違ございませんね?」
「あ、ああ! そうだ! 俺はミナを選んだ! お前のような女、願い下げだ!」
言質は取った。
周囲には、王族を含む数百人の証人。
逃げ道は、完全に塞がれた。
「――結構です。では、これでお別れですね」
私は、夜会用に仕立てたクラッチバッグを開いた。
中から取り出したのは、ハンカチでも香水でもない。
黒革で綴じられた、一冊の分厚い『帳簿』だった。
◆
時を戻そう。
私がロイ・アルバン子爵と婚約したのは、三年前のことだ。
没落寸前だった伯爵家の娘である私と、金はあるが実務能力皆無の成金子爵家である彼。典型的な政略結婚だった。
ロイは、典型的な「親の七光り」だった。
領地経営には一切興味を示さず、毎晩のように夜会や賭博場に入り浸る。
一方で、私は必死だった。婚約者としての責務を果たすため、傾きかけたアルバン子爵領の経営再建に乗り出したのだ。
『エルナ、これサインしておいて』
『エルナ、計算が合わないんだ。やっといて』
『エルナ、金が足りない。なんとかしろ』
彼は私を婚約者ではなく、便利な「事務処理係」として扱った。
私は文句も言わず働いた。朝から晩まで書類と格闘し、無駄な経費を削り、特産品の販路を開拓し、三年かけて領地の収益を倍増させた。
すべては、結婚後の安定した生活のため――そう思っていた。
半年前、あの「裏帳簿」を見つけるまでは。
ある深夜のことだ。
執務室でうたた寝をしてしまった私は、ふと目を覚まし、ロイの机の下に落ちていた一冊のファイルを拾い上げた。
何気なく開いたその中身に、私は血の気が引くのを感じた。
『王都カジノへの送金記録』
『ミナへの宝石購入費(※領地修繕費名目で計上)』
『違法薬物の購入履歴』
横領だ。
それも、私が必死で生み出した利益を、彼が裏で食い潰していたのだ。しかも、あろうことか私の義妹であるミナと共謀して。
(……許せない)
怒りで手が震えた。
けれど、私はそこで彼を問い詰めなかった。
問い詰めたところで、彼はシラを切るか、私を解雇して証拠を隠滅するだけだ。
だから私は、笑った。
能面の下で、冷たい復讐の炎を燃やしながら。
半年間、私はさらに従順な婚約者を演じ続けた。
彼が横領しやすいよう、あえて隙のある書類を作り、その裏で彼自身の筆跡による「承認サイン」を確実に集め続けた。
罠を張り、彼が自分から首を突っ込むのを待ち、逃げられない証拠を積み上げた。
そして今日。
彼が私を断罪するために用意したこの最高の舞台で、私は彼に引導を渡す。
◆
現在に戻る。
私が取り出した帳簿を見て、ロイの顔色がさっと変わった。
彼には見覚えがあるはずだ。自分が散々不正に使ってきた、あの帳簿なのだから。
「な、なんだそれは。夜会にそんな無粋なものを持ち込んで……」
「お忘れですか? 先月、あなたが『確認も面倒だ、サインしておけ』と言って私に投げつけた、領地の決算報告書です」
「そ、それがどうした!」
「ええ。ですがこれ、表向きの帳簿の下に、もう一つ別の記録が挟まれていたのです。……ロイ様、ご自分の筆跡くらいはお分かりになりますよね?」
私は帳簿を開き、パラパラとめくる。
そこには、赤いインクで記された不審な金の流れと、その横に殴り書きされたロイのサインが踊っていた。
「横領、ならびに背任行為の証拠。……これ、今日の夜会で国王陛下に直接提出しようと思っていたのですが、婚約者という立場が邪魔をして躊躇っておりました」
私はにっこりと、令嬢として完璧な微笑みを浮かべた。
「ですが、今たった今、私は他人になりました。守秘義務も義理も消えましたので、心置きなく『告発』させていただきます」
会場がどよめいた。
貴族たちの視線が、嘲笑から軽蔑へと変わり、ロイに突き刺さる。
「なっ……!? で、デタラメだ! そんなもの、お前が捏造したに決まっている!」
「捏造? ここに挟んであるのは、王都中央銀行の刻印が入った送金証明書ですが?」
「う……ッ!?」
「それに、こちらのページ。ミナさんが身につけているそのエメラルドのネックレス。……『堤防改修費』として計上された予算と、金額がぴったり一致するのは偶然でしょうか?」
私が指差すと、ミナが悲鳴を上げて首元を押さえた。
「い、嫌ぁ! 違うの、これはロイ様がプレゼントしてくれるって……!」
「ええ、領民の命を守るための予算を横領して買ったプレゼントですね。素晴らしい愛ですこと」
私の冷ややかな指摘に、ミナは青ざめて後ずさる。
もはや言い逃れは不可能だった。
「き、貴様……ッ!」
追い詰められたロイの顔が、怒りで歪む。
彼は獣のような唸り声を上げ、私に向かって突進してきた。
「返せ! 寄越せ! そのふざけた紙切れを!!」
暴力。
言葉で勝てない人間が最後に選ぶ、最も愚かな手段。
私は逃げなかった。逃げる必要がないことを知っていたからだ。
ロイの手が私の喉元に迫る――その寸前。
「――そこまでだ」
絶対零度の声が、広場を制圧した。
私の目の前に、黒い軍服を纏った長身の影が割り込む。
鋼のような腕がロイの手首を掴み上げ、まるで枯れ枝のように軽々とひねり上げた。
「ぐあああっ!?」
「騒々しい。王の御前であるぞ、下郎」
その男が現れた瞬間、広場の空気が凍りついた。
夜の闇を溶かしたような黒髪。
見る者すべてを射抜く、氷のごとき蒼穹の瞳。
この国で、国王陛下以上に恐れられ、そして敬われている男。
宰相、リュカ・ヴァン・デル・ハール公爵閣下だった。
「り、リュカ公爵……!? な、なぜあなたが」
「我が国の法務を預かる者として、今の会話は聞き捨てならなかったものでな」
リュカ様は、私を一瞥もしない。ただ冷徹に、ゴミを見るような目でロイを見下ろしている。
その迫力に、ロイは腰を抜かして床に這いつくばった。
「ち、違うんです! これは痴話喧嘩で……その女が嘘を!」
「嘘かどうかは、我が国の監査局が判断する。……連れて行け」
リュカ様が指を鳴らすと、影のように控えていた近衛兵たちが雪崩れ込んできた。
抵抗する間もなく、ロイとミナは拘束される。
「は、離せ! 俺は子爵だぞ!」
「お姉様! 助けて、お姉様ぁぁ!」
二人の叫び声が、大広間の扉の向こうへと消えていく。
あっけない幕切れだった。
再び静寂が戻る。
私は小さく息を吐き、乱れた前髪を直した。そして、目の前の背中に向かって淑女の礼をとる。
「……公爵閣下。ご助力、感謝いたします」
私の言葉に、リュカ様がゆっくりと振り返った。
近くで見ると、息を呑むほど美しい。彫刻のような顔立ちに、冷ややかな瞳。
けれど、私と目が合った瞬間――その瞳から、すうっと冷気が消えた気がした。
「怪我は?」
「え?」
「あの愚か者の手が、君に触れなかったかと聞いている」
低く、甘い響きを含んだ声。
先ほどまでの絶対零度が嘘のようだ。
「は、はい。おかげさまで」
「そうか。……ならば、よし」
リュカ様は突然、私の手から帳簿をスッと抜き取った。
そして次の瞬間、信じられないことが起きた。
公爵様の長い腕が、私の腰に回されたのだ。
「ひゃっ!?」
「失礼」
世界が反転する。
気がつけば、私はリュカ様の腕の中に抱き上げられていた。いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。
公衆の面前で。
あの、他人に触れることを何より嫌う『氷の公爵』に。
「こ、こうしゃ、く、さま!?」
「じっとしていろ。……君は今、気分が悪い」
「え?」
「あれほどの騒ぎだ。か弱き令嬢がショックで倒れるのは当然だろう?」
か弱き令嬢? 私が?
裏帳簿を武器に元婚約者を追い詰めた女が?
反論しようと口を開きかけた私の唇を、リュカ様の人差し指がそっと塞いだ。
「それに、君は言ったな。『君を愛することはない』という言葉を言質として取った、と」
「は、はい……」
「ならば、その空いた席に私が座っても文句はないはずだ」
思考が停止した。
リュカ様が何を言っているのか、理解が追いつかない。
彼は、呆然とする私を抱えたまま、バルコニーにいる国王陛下に向かって軽く一礼した。
陛下は、まるで面白い見世物でも見るかのように、ニヤニヤと手を振っている。……まさか、これも仕込み?
「本日の主役は退場した。……これより、このエルナ嬢は私が保護する」
リュカ様は堂々と宣言し、スタスタと大広間を歩き出した。
貴族たちが、海が割れるように道を開ける。
数多の視線が突き刺さる中、私はリュカ様の胸に顔を埋めるしかなかった。
耳元で、彼自身の心臓が、早鐘のように高鳴っているのが聞こえたから。
◆
王宮の外に停められていたのは、公爵家の紋章が入った豪奢な馬車だった。
リュカ様は私を丁寧に座席に降ろすと、向かい側ではなく、なぜか隣に座った。
「……あの、リュカ様?」
「すまない。もう少し、このままでいさせてくれ」
彼は私の手を握りしめ、その甲に額を押し当てた。
震えている。
あの『氷の公爵』が、小刻みに震えているのだ。
「怖かった」
「え?」
「あの男が君に手を上げた瞬間、……理性が飛びそうになった。もう少し到着が遅れていたら、私はあの場で奴を斬っていたかもしれない」
その言葉に込められた熱量に、私は言葉を失う。
リュカ様とは、夜会で数回言葉を交わした程度の間柄だと思っていた。
私が領地の経営についてマニアックな話をしても、彼だけは面白がって聞いてくれた。それだけの関係だと。
「いつから……?」
「三年前だ」
彼は顔を上げ、青い瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「君が初めて夜会に来た日だ。壁の花になりながらも、他の令嬢のように着飾ることもせず、領地の穀物相場のメモを熱心に読んでいた君を見て……一目で惹かれた」
「そ、そんなところを!?」
「美しかったんだ。自分の力で立ち、守るべきもののために戦う君の姿が」
リュカ様の手が、私の頬に触れる。その指先は驚くほど熱い。
「だが、君には婚約者がいた。横恋慕など貴族の風上にも置けないと、私は感情を押し殺した。……遠くから見守ることしかできなかった」
だから、彼は『氷の公爵』と呼ばれていたのか。
誰にも心を許さず、誰も寄せ付けず。
その裏で、ずっと私を見ていてくれたなんて。
「半年前、監査局の調査でアルバン子爵の不正を知った時、私は歓喜したよ。不謹慎だが、これで君をあいつから奪える、と」
彼は自嘲気味に笑い、それから真剣な表情に戻った。
「エルナ。私は、君の有能さが欲しいわけじゃない。君という存在そのものが欲しい」
「リュカ様……」
「あの男が言った『愛することはない』という言葉。私が一生をかけて否定しよう。……君が嫌だと言っても、もう離すつもりはない」
それは、実質的なプロポーズだった。
拒否権のない、けれど世界で一番甘い命令。
私の目から、不覚にも涙がこぼれ落ちた。
ずっと気を張っていた。
誰にも頼らず、一人で戦わなければと、鎧を着込んでいた。
でも、もういいのだ。
「……横領の証拠よりも、ずっと重い契約書になりそうですね」
「ああ。期限は生涯。解約は不可だ」
リュカ様が、涙をキスで拭う。
そして、私たちの唇が重なった。
馬車の窓の外、遠ざかる王宮の灯りが滲んで見える。
無能な元婚約者は破滅し、私は国一番の権力者に捕まってしまった。
これから始まるのは、書類との格闘ではなく、この独占欲の強い公爵様との甘い攻防戦の日々。
それも悪くない――そう思いながら、私は彼の方へとしがみついた。
今夜だけは、「計算」を忘れて、この熱に溺れてもいいかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「スカッとした!」「公爵様かっこいい!」と思って頂けましたら、
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