第1話 定年後からのやり直し
■プロローグ
――斑鳩孝一(二十二歳)は、人生に一度“死んだ”男だ。
……正確には六十歳で一度死に、今は「やり直し」として若返っている。
彼が最期に見た光景は、電車のホームに沈む夕焼けでも、家族の顔でもなかった。
倒れたオフィスビルの床、散乱した書類、そして点滅し続ける未読メールの通知。
「……ああ、また、仕事か……」
それが斑鳩孝一の最後の言葉だった。
ブラックIT企業に三十八年間勤め、
平日9時〜21時勤務、片道二時間の通勤。
土曜は休日出勤、日曜は寝落ちするように眠るだけ。
昇給は無く、残業代は申請すら許されない。
それでも「生活のため」に働くしかなかった。
定年を迎えた時には、身体も心もすでに壊れていた。
そして――定年後十五日目。
元職場の幻覚を見ながら
男は静かに、過労で命を落とした。
◇ ◇ ◇
真っ白な空間。
光とも闇ともつかぬ。概念すら曖昧な場所に、孝一は立っていた。
(……ここは、どこだ? まだ“仕事”の夢でも見てるのか……?)
「やぁ、斑鳩孝一。ずいぶん、働いたね」
背後から声がした。
振り向くと、“人の形をした何か”がいた。
男女の区別も、年齢も、輪郭さえ曖昧。
ただ、優しさと哀しさが同居した瞳だけがはっきりしている。
「君は、働きすぎて死んだ。
この世界ではよくあることだが……私は、たまたま君を観ていた」
「観て……?」
「神、みたいなものだと思ってもらえれば良いよ。
君が倒れる直前の一週間、私はずっと君の人生を眺めていた」
神のような存在は、静かに笑う。
「定年後の半月で死ぬために、あれほど働いてきたわけじゃないだろう?」
孝一の胸の奥が、じわりと痛んだ。
……そうだ。
若い頃の自分は、こんな人生を望んでいなかった。
本を読みたかった。
旅をしたかった。
恋もしたかった。
ゲームを作る夢も捨てていた。
ただ“忙しい”だけの日々に、すべてを奪われていた。
「斑鳩孝一。君に……もう一度、生きる機会を与えよう」
神のような存在の指先がふわりと光を放つ。
「過去の自分に戻す。精神面も年齢も
22歳の頃から、君は再び人生をやり直せる」
「……俺に、そんな権利が……?」
「あるとも。君はよく戦った。そして、十分に苦しんだ」
存在は、微笑むというより祈るように言った。
「だから――今度こそ、好きに生きなさい」
光が孝一の全身を包む。
(もう一度……? 本当に、やり直せるのか……?)
――そして世界が跳ねた。
■第1話 「22歳の朝」
まぶしい朝日がカーテンの隙間から差し込む。
スマホの画面には「20XX年 4月14日」の文字。
斑鳩孝一は、跳ね起きた。
「……!? 手が……軽い……」
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは――
かつて忘れかけていた、二十二歳の自分。
しっかりとした黒髪。
疲労の刻まれていない眼。
猫背ぎみの姿勢でさえ、まだ若さを感じさせる。
「本当に……戻ってる……」
夢でも幻覚でもない。
身体の奥に“若さ”が満ちてくる実感がある。
そして心の奥底からじわりと湧き上がる。
(もうあの地獄みたいな会社に行かなくていい……!
いや、これから行かないといけないけど……でも、未来は変えられる!)
スマホの画面をスクロールすると、メッセージアプリに
ブラック企業の先輩からの圧の強い連絡がずらりと並んでいる。
「……よし。まずは最初の選択肢だな」
孝一は息を吸い、スマホの電源を切った。
静寂が部屋を包む。
(今度こそ、俺は……俺の人生を生きる)
その瞬間――
彼の“やり直し人生”が幕を開けた。




