第七章
教会の大きな扉をベルナたちと一緒に押し開けると、さっきまでの豪雨が嘘のように空はすっかり晴れ渡っていた。
地面には深い水たまりが残り、つい先ほどまでの激しい雨を物語っている。
だが、その空には――美しい虹が大きく弧を描いていた。
「はあ……」
思わず長い息を吐き出す。
ついさっきまで命の危険すら感じるほどの状況だったのに、ベルナとアトゥムス姉妹の力だけで、こんなにも簡単に沈静化してしまった。
いや、もちろん“実感がない”なんて言っている場合じゃない。
もし同じ災害がまた起きて、あの二人の神力が及ばなかったら――この土地の人々は再び危険にさらされる。
だからこそ、油断せず備えることこそが大事だ。
俺は決めた。暇がある時は、この世界にも防災の知識を広めていこう。
俺は日本人だ。災害への備えなら、俺の故郷は世界一と言っていい。
なら、その知識を必要な人に届けられるのなら――こんなにやりがいのあることはない。
それに、今の俺には大切な仲間がいる。
左右の腕にしがみついてくるベルナとヒラリィ。
二人とも、俺が視線を向けると同時に、柔らかく微笑み返してくれた。
……そうだ。
これも、俺がこの世界に来た理由の一つなのかもしれない。
“何もしなければ、何も変わらない。”
だが、一歩踏み出せば、どんなに小さくても誰かの未来を変えられる。
その善意や思いやりは連鎖して、いずれ大きな変化につながる――いわゆるバタフライエフェクトってやつだ。
なのに、現代の映画や小説はどうして“悪い未来へ変化する”パターンばかり描くのだろう?
良い方向にだって変わるはずなのに。
新しい職場に入った時、最初に笑顔と助け合いを見せた人が、同じように周りから好意を返される――そんな単純で当たり前のことだ。
神殿でベルナと別れ、俺とヒラリィは冒険者ギルドへ戻った。
今日は俺の“入職初日”だ。
どれだけ事件が起きようと、仕事を疎かにはできない。
……とはいえ、その事件のおかげでギルドは見事なまでにガラガラだった。
「ここは国境近くの小国ですから、登録している冒険者も百人いないんですよ」
ヒラリィが俺に説明する。
「みんな一週間に一度来るか来ないかで……だから、主な仕事は依頼の受理と計算がメインなんです」
彼女はそろばんのような計算道具を取り出し、俺に帳簿のつけ方を教え始めた。
帳簿を受け取って中身を見た瞬間、俺は思わず首を傾げた。
「……日本とほとんど変わらないな」
そう、内容も形式も、俺が日本で慣れ親しんだものと大差がない。
帳簿なんてどの文明でも必要なものだ。
電算化しただけで本質は同じ。
書式だって、何百年、何千年と続く経験則の結晶だ。
文明が違っても、人間は同じ――
目が二つ、口が一つ、手は二本、指は十本。
だから似た形に落ち着くのは当然なのだ。
イギリスはフィッシュ&チップス、アメリカはフライドチキンとステーキ。
日本は焼肉、天ぷら、とんかつ。
文明レベルが似ていれば、味覚も似る。
同じようなソースを作り、同じように美味しさを求める。
なのに――
ネットには無意味な対立を煽る連中が溢れている。
そんな共通点すら見ようとしない。
……ちょっと話が重くなったな。
おかげで、俺はたった一日、いや半日でギルドの仕事をほぼ理解できた。
もちろん、ヒラリィが丁寧に教えてくれたのが大きい。
彼女は俺の隣で何をするにも一度説明し、次に実演し、最後に俺にやらせる。
できるまで優しく見守ってくれた。
日本の前の職場でも、似たように優しい先輩はいた。
……しかし、その人は重圧に耐えきれず辞めてしまった。
今思えば、俺が会社を辞めた理由の一つかもしれない。
ギルドの仕事は思った以上に軽い。
ヒラリィと二人で進めれば、二時間足らずで終わってしまうほどだ。
「さすが旦那さんですっ!」
ヒラリィが目を輝かせて褒めてくる。
「わたし一人じゃ今日中に終わらなかったですよ〜! お父さんもいないし……旦那さんはお父さんよりずっとすごいですっ!」
いや、そんなに褒められるほどのことはしていないのだが……
この世界はある意味、働きやすいのかもしれない。
「ヒラリィちゃんと一緒だから、やる気が出るんだよ」
そう言うと、ヒラリィはぱっと顔を赤くした。
「……じゃあ、ごほうびに――ちゅー、してあげますっ」
言い終わる前に、彼女は俺の頬にそっと唇を寄せてきた。
……彼女は本当に、甘えん坊だ。
まるで恋人みたいに距離が近い。
いや、彼女から来てくれるなら――俺としては、嬉しい以外の何ものでもない。
「……コホン。」
入口の方から聞こえた咳払いが、俺とヒラリィの甘い空気を一瞬で吹き飛ばした。
言うまでもない――ギルド長であり、ヒラリィの養父であるオッサンだ。
ついさっき、俺にあんな強気なセリフを吐いたばかりなのに。
その当人に、自分の娘といちゃついているところを“真正面から”見られるなんて……
恥ずかしいどころの話ではない。
俺は、殴られる覚悟すらもう完了していた。
……だが。
オッサンは真っ赤な顔で俺の前にずいっと近づいてきて、
「こ、こういうことするときは……ちゃんと鍵を閉めてからにしろよ……!」
まるで人生経験豊富な親父みたいなことを言ってきた。
え、何この急な方向転換……!?
「お前だって、また俺や他のヤツに見られたくはないだろうが!」
さらに追い討ちの一言。
「それと……ベルナちゃんと一緒に、当分はヒラリィの部屋を使っていいからな。
宿に泊まるよりよっぽど金は浮くぞ?」
つるつるの頭をかきながら続ける。
「金はそんなに持ってないが……この町に家が欲しいってんなら、頭金くらいは出してやれる。
……ヒラリィの嫁入り道具だと思ってくれ。
どうか、この子を……頼む……」
最後のほう、オッサンの声は震えていた。
泣きそうな顔すらしている。
「……パパ、ありがとう」
ヒラリィがそっと微笑む。
もちろん、オッサンの気持ちはありがたい。
だが、俺の胸の奥はチクリと痛んだ。
――俺の良心が、これをそのまま受け取ることを許さなかった。
日本・東京での俺は、未来が見えず“仕方なく”ニートになり、親に頼らざるを得なかった。
40万円の給料でも、飲まず食わずで30年貯めなきゃ小さな一戸建ても買えない。
それどころか、ここ数年は食べ物がどんどん値上がり、米も野菜も肉も卵も、ほぼ倍になった。
そんな状況で家を買えるはずがない。
東京の人間が賃貸を選ぶのは、
“買えないから”でしかない。
だけど、この異世界はどうだ。
食事も教育も医療も、ほとんど無料で提供される。
家を買うにしても、数年必死に働けば届く。
戦時中ですら、住民の生活が最優先。
俺のちょっとした意見ですら真剣に受け止めてもらえる。
――こんな世界が希望をくれないはずがない。
日本では官邸にも、大学にも、アメリカの研究機関にも、俺は文章や意見を出した。
だが返事は……ほぼゼロ。
石に投げた小石みたいに、何も返ってこなかった。
科学や学問が発展したはずの現代で、
むしろ独占は昔よりひどくなり、
大学は“考える人間”ではなく
“企業に都合のいい従順な機械”を量産する場所になっている。
そんな世界――
俺には、古代よりよほど絶望的に見えた。
だからこそ、俺はオッサンの申し出を受けるわけにはいかない。
男として。
そして、この世界で生きる一人の人間として。
俺はヒラリィの手を取り、彼女は微笑んで静かに頷いてくれた。
そして――
オッサンへ深く頭を下げる。
「ヒラリィを――必ず幸せにします」
腹の底から声を出す。
「だからこそ……俺は、自分の力で目標を叶えたいんです。
こういうところまで頼ってしまったら……ヒラリィに胸を張れません」
その瞬間、オッサンはしばらく黙ったあと、静かに頷いた。
「……わかった。
だが困ったときは、せめて一声かけろよ。
ヒラリィの部屋は、お前らが家を買えるまで好きに使え」
本当に、寛大な人だ。
アメリカでは、18歳になったら家を追い出す家庭も多い。
日本やアジアからすれば考えられない文化だ。
でもそれは――
“社会が若者にとって十分に安全で、十分に希望があったからこそ”
成立していたのだ。
家がなくなる不安も、仕事を失う恐怖もなく、
若者が自力で生きていける前提があった。
対して今の日本はどうだ?
三十年前に一発逆転した人々が、
今はひたすら自分の利益だけを守り、
業界を独占し、
若者を“思考しない労働機械”に育て上げる。
――若者の希望を奪う存在。
それこそが“真の老害”だ。
俺にとって、
それがこの世界にはない。
だからこそ――
俺はここで、自分の力で未来を掴む。
自恩神聖皇国。
教皇のもとに、各地から同じ内容の報告が届いていた。
――敵国へ送り込んだ合成獣が、軒並み消息を絶った。
特製の勇者戦装を身にまとった高橋玲奈は、冷ややかな目で教皇と官僚たちのやり取りを眺めていた。
この世界に「勇者」として召喚され、数日が経つ。
しかし、彼女はまだ一度も“魔物が人類を脅かす場面”を見ていない。
むしろ、侵略しているのは自恩神聖皇国のほうだった。
掲げる大義は立派に聞こえる。
だが、やっていることは一方的な武力による制圧――。
(……これが“正しい道”なの?)
胸の奥に、前世で感じ続けた違和感が再びよみがえる。
両親が、弟が、自分に押し付けてきた“理想”と“義務”。
あれと同じ臭いが、この国には漂っていた。
「……その国々が、ただ“まだ理解できないだけ”という可能性は?
技術の進歩がもたらす力を、知らないだけかもしれません」
玲奈は勇気を振り絞って口を開いた。
「ですから……武力で直接ねじ伏せるやり方は、少し行き過ぎでは?」
幼い外見の教皇はゆっくりと玲奈へ視線を向ける。
横にいた大臣が怒鳴った。
「無礼者!
勇者ごときが教皇様の方針に口出しとは、身の程を知れ!
貴様は“落ちこぼれの世界”から拾われた幸運者にすぎん!」
だが教皇は片手を上げ、大臣を制した。
幼い声で、しかし年齢不相応の冷たい笑みを浮かべながら言う。
「進歩を拒む者は、愚者のまま滅びるだけ。
もっとも“効率が良い”のは、強い武力。
強大な兵器こそ、国家の真の安定を生むのよ」
彼女は玲奈の肩に手を置いた。
「あなたの世界でも、そう言われているでしょう?
最強の国が“どうやって”最強になったのか――ね」
玲奈は返す言葉を失った。
幼い顔に浮かぶ、あまりにも歪んだ笑みが怖かった。
「……下がりなさい。考える時間を与えるわ」
玲奈が退室し扉が閉まると、教皇はすぐ表情を戻し報告書に目を落とす。
「――つまり。
合成獣が全滅し、私たちが仕掛けた水害魔法も“突然”止まったと?」
先ほど暴れていた大臣が、汗を拭いながら震える声で答える。
「は、はい……。
特に最初に消えた個体は、正体不明の二人の冒険者に倒されたとの報告が……。
金髪の白服の女と、子供のように力のない黒髪の男。
たった一撃で、我が国の兵器を大気圏外まで吹き飛ばしたとか……神のような……」
言い終わる前に、教皇の蹴りが大臣の顔面をとらえた。
「ふざけないで。“神”なんていないわ」
冷酷な声。
「いるとしても、それは強力な魔法か未知の科学を装った“ただの人間”。
私たちの使命は、それを暴き、粉砕することよ」
教皇は冷たく睨みつけた。
「それに……“神”と口にしただけで、教廷への大罪だと忘れたの?」
大臣は青ざめ、地面に額をこすりつけ謝罪を繰り返す。
教皇が手を振ると、衛兵が彼を引きずって連れ去った。
教皇は視線を、もう一人の男へ向ける。
この国を支える天才科学者――合成獣を生み出したホーキン博士。
博士は恭しく一礼し、片眼鏡を押し上げてノートを開く。
「調査の結果、いくつかの地域で“生体物質の分子運動が、未知の力場によって撹乱される現象”が確認されました。
これは、あの愚かな国々が信仰する“偽神”と同じ種類の現象です」
さらに続ける。
「勇者召喚儀式でも、この力場を利用できます。
我々はすでに実験に成功しており、魔力と光の反射によって紫色の光を放ち、他国へ行くはずだった勇者を強制的に召喚しました。
あの勇者は……まあ、頭はあまり良くないようですが。
この技術を兵器にも応用できれば――」
「要点だけ言いなさい」
教皇の声は冷たかった。
「は、はい……我々なら三か月以内に“改良型兵器”の量産が可能です。
偽神の力場に一切干渉されない兵器が……!」
「二か月よ」
「……は、はい! 全力で前倒しします!」
博士が退出し、大聖堂の扉が閉まる。
ホーキン博士は研究所へ戻ると、それまでの恭順が嘘のように机を蹴り飛ばし、怒声を上げた。
「……くそッ、あのガキが!」
その怒りの矛先は、壁際で怯える奴隷の少年たちへ向けられる。
彼は奴隷の子供たちの衣服を乱暴に引き裂く、奴隷の少年たちの腕を乱暴に掴み、道具のように扱いながら怒鳴り散らす。
博士は怒りに満ちた声で吐き捨てた。
「男女平等だと? 女が男に劣らないだと?
あの教皇の地位だって、あの“ロリコンでマザコンの狂った親父”が早死にしたおかげで転がり込んだだけだろう!」
そう叫びながら、博士は怯える奴隷の少年たちの顔を乱暴に掴み、無遠慮に撫で回して侮辱を与える。
少年たちは怯え、必死に声を押し殺している。
「全く……“あいつら”より、この子たちのほうがよほど扱いやすいじゃないか」
博士は部屋の隅へ視線を向けた。
そこには、つい先ほど教皇に罷免されたばかりの大臣がいた。
彼もまた博士と同じように、弱者を痛めつけることで欲望を満たす歪んだ性質を持っていた。
「博士のおっしゃる通りです。
博士の発明がなければ、あの小娘がどれほど威張れるというのか。
この国の偉大さはすべて博士と研究班の天才たちのおかげ……!」
二人の醜悪な笑い声が部屋中に響き渡る。
その裏で、少年たちの必死の悲鳴が小さく漏れた。
だが、この研究所の壁は厚く、強力な遮音魔法が施されている。
扉の外に立つ兵士たちには、その声は一切届かない。
もちろん――
この国の少女教皇の耳にも。
天界──。
アトゥムスは、埃まみれになった衣を脱ぎ、静かに湯へ身を沈めた。
長く張りつめていた緊張が、肩からゆっくりとほどけていく。
今回、彼女は神力を使ってあの世界の暴雨と洪水の災害を押しとどめ、さらに自ら複数箇所へ転移して、あの忌まわしい“動物の死骸を素材にした合成兵器”を根こそぎ消し飛ばしてきた。
その負担は大きく、長年蓄えてきた信仰力の大半を使い果たしてしまったほどだ。
神々の力は人々の信仰から生まれる。
そして神とは、本来“人類の繁栄を守り、正しい道へ導く者”である。
それはとても単純な、互いに支え合う循環だった。
秋の女神アトゥムスも、その法則を一生貫くつもりでいた。
しかし今は、姉ベルナ不在のため、彼女が代わりに“善良な魂の転生管理”まで引き受けねばならない。
叔父は「冥界と地獄を司る神に任せてもいい」と言ってくれたが、
アトゥムスにとってそれは――
善き生を終えた人々への最大の無礼だった。
だから彼女はその提案を断った。
湯に浸かったまま、疲れ切った足をそっと揉みながら、彼女は思い出す。
あのとき、父に選ばれ、ベルナのもとから連れ去られた少年──
渡辺直人のことを。
実は、あの“神像からの転送での再会”が初めてではない。
二十年以上前、アトゥムスが母の役目を一部引き継ぎ、恋愛事を司り始めた頃のこと。
重大な失敗をして父母から叱責され、家を飛び出した彼女は、気晴らしも兼ねて地球、日本の東京へと向かった。
そして、十思公園で偶然出会ったのだ。
いじめられているはずなのに、まるで気にしていない少年──渡辺直人に。
『さっきの子、あなたの食べ物を奪っていったでしょう?
どうしてそんなに簡単に渡してしまうの?』
彼女の問いに、直人は笑って答えた。
『あの子のお父さん、会社が倒産して収入がなくなったんだ。
しかも両親は最近離婚して、あの子はお母さんと二人暮らし。
たぶん……ずっと、これが食べたかったんだよ』
十歳にも満たない少年が、困ったように、でも誇らしげに微笑んだ。
『ぼくには、また買ってくれる親がいる。でもあの子には……今は難しいだろうなって。
だからこれは、ぼくにしかできないことだと思ったんだ』
アトゥムスは呆然とした。
『あなた……考え方が、人と違うわね』
『ママもそう言うよ。でもぼくも昔は泣いたことがあるんだ。
なんでみんな、そんなに自分勝手なのって』
直人は恥ずかしそうに笑う。
『でも気づいたんだ。
人は“分け合う喜び”を知らないだけなんだって。
みんなで食べればもっと楽しい、みんなで笑えばもっと幸せ。
だから三人寄れば文殊の知恵って言うでしょう?
知恵も幸せも、きっと分け合えば広がるんだ』
アトゥムスはそっと彼の頭を撫でた。
『あなた……天才ね』
『えっ? そんなことないよ。
みんな本当は分かってるんだと思う。ただ、ちょっと考えつかないだけなんだよ』
そう言って鼻をこすりながら続ける。
『それに、ぼくは“秋の女神”みたいなお姉さんも好きだよ。
綺麗で……笑うと焼き芋みたいに甘くてさ。
見てると秋の美味しいものを思い出すんだ』
アトゥムスは思わず吹き出した。
『私を……焼き芋に例えるの? この食いしん坊さん』
『だって、お姉さんは甘そうだから。
さっきまで困ってた顔してたのに、今はすごく綺麗に笑ってる。
だからぼくも笑っていたいんだ。
笑顔を分ければ、みんな楽しくなる。
美味しいものって、誰かと分けるのが一番だよね?
もし悩みがあるなら……甘いものを食べて元気になろ?』
そう言って、小さな胸をどんと叩いた。
『ぼくね、ずっと願ってるんだ。
いつか“女神さま”と結婚できますようにって。
だって女神さまは、みんなを幸せにする存在でしょ?
そんな人が一番素敵なんだと思う』
──その言葉が、どれほど彼女を救ったか。
アトゥムスは目を閉じ、湯に沈む。
彼がどんな風に幼い自分から離れたのか、もう覚えていない。
ただ、その瞬間、天界へ戻り、父と母に頭を下げたことだけは鮮明だ。
その時、初めて気づいたのだ。
姉ベルナが“なぜあれほど努力していたか”を。
以前のアトゥムスは、姉を愚かだと思っていた。
神なのに、どうしてそこまで人間に寄り添うのかと。
だが今なら分かる。
喜びを分かち合い、そして誰かから分けてもらうこと。
それこそが“世界に幸福を満たす原理”なのだと。
ベルナと直人が惹かれ合うのも当然だった。
たとえベルナに心を読む力がなくても、
二人はきっと同じ景色を見ている。
神でも欠点はある。
大切なのは、それを認め、乗り越えること。
そして分かち合い、語り合う勇気。
「……だから、私も頑張らなきゃ」
アトゥムスは湯から立ち上がり、腕を伸ばした。
成熟した美しい体が、湯気の中で淡く輝く。
かつて可愛い丸いほっぺをした少年だった渡辺直人は、
今では社会に揉まれた大人の顔つきをしていた。
だが――
彼の瞳だけは変わっていなかった。
まっすぐで、強く、優しい光。
その光に触れた瞬間、アトゥムスが彼へ駆け寄ってしまった理由がはっきりした。
喜びと懐かしさ、ほんの少しの恐れ。
だから彼の視線を真正面から受け止められず、
怒られた瞬間に思わず謝ってしまった。
本当は、あの時の全ての気持ちを伝えたい。
けれど、どうすれば良いのか分からない。
“伝えること”の最初の一歩が一番難しいと、
彼自身が教えてくれたのに。
「……やっぱり、あの人は神様より凄いよ」
アトゥムスは小さく笑い、湯から出た。
渡辺直人が持つ、
“神を越える勇気”が、
また彼女を前へ進ませるのだった。




