第六章
雨の中を教会へ入ったとき、ベールナはすでに入口で待っていた。
先に来た神父さんは奥の長椅子に横になっていて、びしょ濡れだった服もすっかり乾いている。――たぶんベールナの魔法だろう。
さすがは優しい女神さま、空気を読む力が俺なんかよりずっと上だ。
子供の頃、俺はよく母親に「気が利かない!」と叱られたものだ。
今のベールナも、きっと俺が言いたいことを分かっている。
というか、彼女も俺の心を読めるのだから当然だ。
けれどベールナはただ首を振り、そっと背伸びして顔を近づけてきた。
……近い、近いって。
息がかかるほどの距離で、俺の顔が一気に熱くなる。
向こうのベールナも同じで、顔どころか耳まで真っ赤だ。
え、な、なにを――?
そう思った瞬間、彼女はそのままの体勢を保ったまま、何かを待つように目を閉じた。
横にいたヒラリィちゃんが、俺の服の裾をちょんちょんと引っ張り、
小声で耳元に囁く。
「ベールナお姉ちゃん、旦那さんにキスしてほしいんだよ」
え、そ、そうなのか? でも、それはちょっと……。
どうしようか迷っていると、腹に軽い衝撃――ベールナの拳がめり込んだ。
温厚な女神さま、時々暴力的です。
「ち、違うわよ!」
頬を真っ赤にしたまま小さく言い訳して、くるっと背を向ける。
「旦那さん、もっと積極的にならなきゃ」
ヒラリィちゃんは横でにやにやしながら煽ってくる。
おい、なんかこの子、急に悪い方向に成長してないか?
だが今はそんな場合じゃない。
洪水のこと、数えきれない人たちの命がかかっている。
「頼む、力を貸してくれ!」
俺はベールナの後ろからそっと手を握った。
「分かってるわ。でも、私にも限界があるの」
彼女は小さく呟くと、「仕方ないわね」と決意したように頷いた。
そして俺とヒラリィちゃんの手を取って、教会の奥、神像の前まで歩いていく。
「アトゥムス。
私は隣のヒラリィと共に、この渡辺直人という男に嫁ぎます。」
ベールナは神像に向かってそう宣言し、
そのまま顔を上げると、真っ赤な頬のまま俺の唇にキスをした。
「こ、これは儀式よ! この世界の儀式だからっ!」
軽く唇を離すと、彼女は息を荒げながら必死に言い訳した。
「あなたも、この神像の前で同じことをして」
そう言って、ヒラリィちゃんの背を軽く押す。
ヒラリィちゃんもベールナに倣って背伸びし、俺の唇にキスをした。
しかも目を閉じずに、舌まで入れてきた。
……こ、これは、えっちすぎる。
「ちょっと、ストップ! このエロ兎!」
数秒経っても離れない俺たちに、ベールナが声を上げ、
ヒラリィちゃんの頭をぺしっと叩いた。
しかしヒラリィちゃんはけろっと笑って、
口の端についた唾をぺろりと舐める。
その仕草がまた妙に色っぽくて、
昨日まで「純粋な水色うさぎ」だった彼女が、
急に大人の女みたいに見えた。
「儀式は完了したわ。
これでアトゥムス――私の妹が、この声を聞くはず」
ベールナはそう説明した。
彼女の妹は“愛と結婚を司る女神”、そして豊穣と大地を治める力を持っているという。
俺が振り返ると、神像が淡い橙色の光を放ち始めていた。
秋の女神にふさわしい、あたたかな色だ。
……でも、あれ?
前に見たとき、この神像は確かに微笑んでいたのに、
今は真面目な表情に変わっている。
「聞こえてるわよ、お姉ちゃん!」
軽やかで艶っぽい声が響いた。
その声は俺の想像していたよりもずっと大人びていて、
ベールナよりも落ち着いたトーン。
けれど、どこか悪戯っぽくて、
まるで少しエッチな“大人のお姉さん”みたいな声だった。
そう――まさに俺が昔やってたギャルゲーでよくいた、
“おっぱいがデカイお姉さん系ヒロイン”そのもの。
なんなら某後宮アニメの“完璧な義妹キャラ”にそっくりな声だ。
そんなことを思っていたら、足元に激痛が走った。
横を見ると、ベールナの額に青筋が浮かび、
裸足のまま俺の足を全力で踏みつけていた。
スニーカー越しでも感じる鋭い痛み――まるでハイヒールで踏まれたみたいだ。
「アンタ、なに考えてんのよ!」
その笑顔は怖すぎて、幽霊でも見たような気分になる。
紫色のオーラが見えるのは気のせいじゃない。
「あなたならできるでしょ。
ずっとこっちを覗いてたの、バレてるんだからね!」
ベールナが神像に叫ぶと、石像の表情が途端にしゅんとしぼんだ。
……本当に表情変わるんだ、これ。
前に見た時の“にやけ顔”はやっぱり気のせいじゃなかったのか。
「だってぇ、パパったら何も言わずに、
私の大好きなお姉ちゃんを嫁に出すんだもん」
橙の光が中心に集まり、人の形を成していく。
光が消えると、そこに立っていたのは――。
目の前に広がるのは、白く眩しい胸の谷間。
両腕を俺の首に回し、足で腰を挟み込むように抱きついてくる女性。
「ちょ、ちょっと! 離れなさい!」
ベールナが怒鳴り、彼女の頭を容赦なく殴った。
「いったぁ〜い!」
可愛らしい悲鳴を上げて、ようやく俺から離れる。
目の前の少女を改めて見る。
桃と金の間のような淡い灰ピンクの髪。
毛先をゆるく結んだローポニー。
それが清楚でありながら、どこか家庭的な優しさを漂わせていた。
その表情はどこかで見たような――そう、あの創世神大人とまったく同じ。
悪戯っぽく、でも愛嬌のある笑顔。
彼女は上目づかいで俺を見上げ、
少し潤んだ瞳で下まぶたに白目を見せる。
――まさに、ギャルゲーで“可愛い系ヒロイン”がする表情そのものだ。
……ベールナの妹、ちょっと怖いな。
何を考えてるのか全然読めない。
いや、それどころか、俺の心を完全に読んでそうだ。
そして再び俺の首に腕を回し、耳元にふっと息を吹きかけてきた。
――顔が一瞬で真っ赤になるのを感じた。
「ベールナお姉ちゃんって、実は隠れドMなツンデレなんだよ〜!」
アトゥムスはそう言いながら、慣れた動きでベールナの二発目の拳を軽々とかわし、ぺろっと舌を出した。
……その表情、どこかで見たことあると思ったら、まさにあの創世神さまの“あざとポーズ”と一緒だ。
さすが実の姉妹。いや、創世神さまがそれをやると正直ちょっとムカつく感じになるんだよな……。
(す、すみません創世神さま、今のは悪気じゃありません! ただ、ベールナに殴られた時の記憶が蘇っただけで……!)
「あなたが……アトゥムス女神さま、ですか?」
横でヒラリィちゃんが、おずおずと声をかけた。
ナイス、ヒラリィ! よくぞこの空気を変えてくれた!
「そうよ、私がアトゥムス」
彼女は毛先を結んだローポニーを指でくるりと触れ、
ついでに胸をぐいっと持ち上げて強調した。
そのまま片腕を胸の下に当てて支え、もう片方の手で頬を軽く押さえる――
……それ、完全に“男心を狙い撃ちするポーズ”じゃないか!
オタクの間では“母性系ヒロインの定番ムーブ”と呼ばれるあれだ。
やばい、俺、つい見惚れてたかもしれない。
ベールナは焦ったように、俺とアトゥムスの間にずいっと割り込んできた。
……いや、身長差のせいで隙間から普通に見えてるんだけど。
ごめん、ベールナ。ただ興味があっただけなんだ。変な意味じゃない。
確かにアトゥムスは色っぽくて魅力的だけど、
俺みたいなニートには、ああいう“恋愛経験MAXタイプ”は正直恐怖だ。
いろんな意味で、全部持っていかれそうだから。
(頼む、ヒラリィちゃん、そろそろ話を正しい方向に戻してくれ……!)
「アトゥムス様、どうかこの洪水と豪雨をお止めください!
ジオン帝国が魔法で天災を操って……!」
ヒラリィちゃんは涙声で訴える。
ああ、やっぱり俺のヒラリィちゃんはまだ純粋だ。
「まあまあ、それならもう解決済みよ〜」
アトゥムスが軽く笑いながら指を鳴らした。
「ほら、外を見てみなさい」
言われて窓の外を見ると、雨はすでに止み、青空が広がっていた。
「それにね、本来なら雨の管理はお姉ちゃんの仕事でしょ〜?」
そう言ってベールナに突っ込む。
……なるほど。
確かに“ベールナ(Verna)”はラテン語で“春”。
風や雨を司るのは理にかなっている。
一方の“アトゥムス(Autumnus)”は“秋”を意味し、
豊穣と結婚を司る女神――なるほど、完璧な対比だ。
「最初はただ、直人くんの監視だけするつもりだったの。
だからこの世界に降りる時、天候の神力は全部あなたに任せたのよ……」
ベールナが小さくため息をつく。
……今、ベールナが初めて俺の名前を呼んだ。
嬉しい。けど、なんか妙に照れくさい。
「まったく、妹に負担ばかりかける悪いお姉ちゃんねぇ」
アトゥムスが呆れたようにため息をつく。
待って、それ違う。明らかにいま姉をいじって遊んでるよな!?
この女神、絶対に性格悪い。
神様というより、小悪魔そのものだ。
俺のニート歴30年のカンが言ってる。こういうタイプの女は危険だ。
「ずっと楽しみにしてたのよ。
お姉ちゃんがこの世界で結婚式を挙げるって聞いて。
だからずっとここで待ってたのに、照れて全然来ないんだもん」
アトゥムスはぷくっと頬をふくらませる。
「私はこの世界の“婚姻届”を司る神だからね。
パパから“お姉ちゃんが祝福を受けて結婚できる”って聞いた時、
本当に嬉しかったのよ?
どんな男の人がお姉ちゃんに選ばれるのか、ワクワクしてたんだから」
そう言って、彼女はまたしても手足の動きが怪しくなり、
ベールナの横をすり抜けて俺の胸元に指で円を描き始めた。
「ひゃっ……」
横でヒラリィちゃんが顔を真っ赤にして、両手で目を覆いながら、
指の隙間からこっそり覗いている。
……うん、これは確かに殺傷力が高すぎる。
この動き、完全にアウトだ。
「この発情サルがぁぁ!」
ベールナの肘が俺の腹にクリーンヒット。
アトゥムスはちゃっかり俺の後ろに回り込んでいて、
結果的に俺だけが被害を受けた。
マジで吐くかと思った。
だが一言だけ言わせてほしい――この女神、小悪魔すぎる。
とはいえ、俺にも策はあった。
頭が熱くなって、ふと思いついたんだ。
――背後からベールナを抱きしめれば、
アトゥムスがこれ以上ちょっかいを出せなくなる。
そう考えて、俺は後ろからベールナを抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、なにするのよっ!」
思考を読めるはずなのに、意外そうな反応。
首筋から耳まで真っ赤になってるのが見える。
それでも彼女は抵抗せず、そのまま俺の胸に身を預けてきた。
ふわりと香る、懐かしくて落ち着く匂い。
「ふふっ、義兄さん、意外と大胆ね」
背後からアトゥムスの囁き声。
「もう、からかわないであげるわ」
そう言われてようやくベールナを放した。
彼女の背中が、どこか寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
でも、気を抜いたのが失敗だった。
次の瞬間、背中にふわっと柔らかい感触。
アトゥムスの胸が、俺の背中にぴたりと当たっている。
なぜ、なぜこうなる……!?
彼女はまるで猫のようにすり寄ってきて、
初対面とは思えないほど距離が近い。
――この女神、どう考えても積極的すぎる。
俺はメガネをくいっと上げた。
少なくともメガネさえかけていれば、俺のあのスキルは他人には発動しない。
ベールナとヒラリィちゃんには、うっかり「睨んだら妊娠」を使ってしまった。
だからこそ、これからは本当に気をつけないといけない。
背中に、柔らかくて温かい感触が伝わった。
アトゥムスの豊かな胸が、ためらいもなく俺の背に押しつけられている。
息を詰めた瞬間、耳元にまた甘い吐息。
「ねぇ、私にもそのスキル、使ってみてよ。……私も、あなたの子を宿してみたいの」
その囁きは、熱を帯びた風のように鼓膜を撫でた。
思考が一瞬、真っ白になる。……それは、俺の一線を越えた。
俺は両手で彼女をそっと、しかしはっきりと押し離す。
「たとえ女神さまでも、女の子なんだ。自分を大切にするべきだ」
男女のけじめはある。しかも俺は彼女の“義兄”だ。
俺の妻はベールナとヒラリィちゃんだ。
ここで流されるようなことをしたら、世の優柔不断で“優しいふり”をするハーレム主人公と何が違う?
俺の目には、口先だけで責任を取らない男は、優しさじゃなく“無責任”にしか見えない。
そういうのが、俺は一番嫌いだ。
アトゥムスは驚いたように目を大きく見開き、
さっきまでの小悪魔っぽさが嘘みたいに消えた。
そしてもじもじとベールナの前までとぼとぼ歩いていき――
「ごめんなさい。さっきのは、あなたを試していただけなの」
そう言って、俺たちにぺこりと頭を下げた。
「小さい頃から、ずっと“お兄ちゃん”が欲しかったの。
だから、ずっと楽しみにしてたんだ。お姉ちゃんがどんな人と結ばれるのか」
彼女は視線を落として床を見つめる。
今度の表情は、作り物じゃない――そう思えた。
「……じゃあ、俺は合格ってことかな?」
小さく尋ねると、彼女は無邪気な笑顔をぱっと咲かせた。
「なんでパパが、自分の決めた規則まで破ってでも、あなたを選んだのか――
なんとなく、分かった気がする」
アトゥムスは指先で毛先のローポニーをくるくるといじる。
正直、彼女は“多くのニートが夢見る理想の女性像”をいくつも兼ね備えている。
仕草も、視線も、言葉の温度も、心の急所を正確に射抜いてくる。
彼女はくるりとこちらに体を向け直し、
両手をぎゅっと握って胸の前で腕に挟み、また小悪魔みたいな表情で俺を見る。
――たぶん、これがこの女神の“清楚で反則”な地金なんだろう。
「それじゃ、今後なにかあったら、どの私の神像でもいいから近くで呼びかけて。
全部、聞こえるから」
アトゥムスはもう一度、横向きにすっとお辞儀をした。
角度が絶妙で、また無意識に谷間が目に入ってしまう。
ベールナと似た厚手のローブなのに、わざわざ襟元を大きく開けている――どう考えても確信犯だ。
……次は、できればこの“えっちな女神”の助けを借りずに済むといいんだが。
彼女が再び橙色の光へとほどけ、消えていくのを見届けて、
俺はようやく大きく息を吐いた。
ああ、こういう女神――将来の“小姑さま”とのやり取りは、いろんな意味で本当に骨が折れる。
その時、長椅子に横になっていた神父さんが目を覚ました。
窓の外の雨が止んでいるのに気づくと、驚きの声を上げ、
俺とベールナの前まで駆け寄ってくる。
「さすが女神の御使いさま! 降雨を止め、多くの命をお救いくださった!」
大げさなくらいに、俺たちへ感謝の祈りを捧げるのだった。
◆
一方その頃、天界の大広間――アトゥムスの部屋。
彼女は真っ赤になった顔をベッドに突っ伏し、枕で頭を抱え込んでいた。
脳裏には、さっきの渡辺直人との記憶が、何度も何度も再生される。
初対面で見せたあの驚き。
彼が体勢を崩してこちらに倒れ込んできた時の、困ったような照れ顔。
自己紹介の時の、あの自然な微笑み。
そして最後、彼がはっきりと自分を押しのけた、あの凛とした言葉。
――どれもこれも、地球から集めた恋愛マンガで
アトゥムスが一番好きな“理想の男性像”そのものだった。
だからこそ、彼女は最初から、
“お兄ちゃんと結ばれる妹ヒロイン”のように、
恥じらいを置いて彼の胸に飛び込んだのだ。
「もし最初に出会った女神が私だったら……
最初から私が、彼を異世界へ導けていたら、よかったのに」
天界の“天井”――果てのない青空を見上げながら、彼女は転がる。
「……ううん、違う」
首を振る。
「ベールナお姉ちゃんは、もう彼の妻。
そして彼は、名実ともに“私のお兄ちゃん”。――それでいい。最高じゃない」
アトゥムスはころころと笑いながら転げ回る。
「パパのやつ、表向きはいつも私とお姉ちゃんに面倒事ばっかり押しつけてくるけど、
結局、毎回感謝する羽目になるんだから」
ドアの外には、同じようににやにや笑う創世神と、
渋い顔の中年の男神が立っていた。
「ほらな、渡辺直人の魅力は、きっと彼女たちと交わると思っていた」
「兄上、そうだとしても――少々、軽率が過ぎますよ」
男神が不満げに言う。
「まあまあ。お前がベールナたちを本当の娘のように思ってるのは分かってる。
だがな、直人は、性格が“お前と私を足して二で割った”みたいな子だ。
だからこそ、未来を託したいんだよ」
創世神は髭を撫で、さらに上機嫌に笑う。
男神は頭を抱え、ため息をつく。
「……いいでしょう。
だが、この小僧が俺の可愛いベールナを裏切るような真似をしたら――ただでは済まさん」
男神がどん、と足を踏み鳴らすと、天界の床に細かな亀裂が走った。
創世神が片手を上げてすぐに修復し、呵々大笑して去ろうとする――が、
ふとアトゥムスの部屋の扉をちらりと見やる。
「おい、さっきの会話、アトゥムスに聞かれてないだろうな?」
男神は呆れ顔で、ひょいひょいと創世神の背を押して歩いていく。
最後にアトゥムスの部屋の方へ、柔らかな笑みを向けた。
「……まずは、外孫のことを考えるべきか」
二人の年嵩の神は、目を合わせて微笑み合った。




