第二章
異世界の夕暮れって、ほんとに東京とはまったく違う。
人が多そうな町の大通りを歩いてきたのに、すれ違う人影ひとつない。
もし周りの家の灯りがちらほら見えなかったら、完全に無人のゴーストタウンかと思ったよ。
……まあ、こういうのも悪くない。なんか田舎っぽくて、やっぱりここは異世界なんだなって感じだ。
――で、なんで俺はまたベルナに服の襟をつかまれたまま、こんなふうに引きずられてんの?
このままだと首、折れそうなんだけど。
うわ、冷たいっ……って思った瞬間、尻にドスンと衝撃。気づいたら地面に放り出されてた。
目の前にあったのは、見たこともない文字が書かれた三階建ての建物。
中世のゲームとかに出てくる宿屋、まさにそんな感じだ。
「やっと着いたね、旅館! これでゆっくり休める~!」
ベルナはまるで小学生が初めてテストで満点取ったみたいな顔で、思いきり伸びをしている。
その顔見たら、さすがに文句も言いづらい。
本当は「もう少し優しく扱ってくれよ、この暴力黒化女神!」って言うつもりだったんだけど。
……やっぱり女神はすげぇ。あんな乱暴な動作しても可愛いとか、反則だろ。
「ねぇ、あんた。このニート。どうせ普段は誰とも話せない陰キャでしょ? ほら、せっかくだし行ってきなさいよ。」
おいおい言ったな!? ニートに陰キャって、どストレートに刺さるやつ!!
俺の逆鱗ポイントを正確に狙ってくるとか、もはや才能だろ。
しかもこの女神、これまで何回俺の頬ひっぱたいたと思ってんだ。
右頬、まだヒリヒリしてるっつーの!
「腹黒女神がそんなに偉いのかよ!」
思わずぼやくと、ベルナのこめかみに青筋がピキッ。
やば、これ、殴る気だ!
伸ばしてきた手を反射的に掴む。
ふん、暴力女神の行動パターンぐらい、もう読めてんだよ。
この体はデブでも、頭の回転は早いんだ。俺は真実にたどり着いた――そう、真相はひとつ!
「な、なにする気よ、この陰キャニート!」
顔真っ赤。……いや、ちょっと頬が紅潮してて、なんか期待してるようにも見えるんだけど!?
「ハッ、見た目だけは高貴そうでも、中身は石炭より黒い腹黒女神が何を言うか! 裸足で歩き回ってんじゃねぇよ!」
俺はベルナの両腕を後ろに回して押さえつけた。
女でも、力じゃ俺のほうが上だ。
「夜だぞ。叫んでも誰も助けに来ねぇからな?」
――って、口に出してから気づく。
完全に変態みたいなセリフじゃねぇか俺!?
それでもベルナは顔を真っ赤にして、首をそらして、ぎゅっと目を閉じた。
その白くて細い首が、ゆっくり俺のほうに近づいてくる。
……いやいや、ちょっと待て。これ、どういう展開?
このまま……いける? とか思った瞬間――
ゴンッ!!
頭に鈍い衝撃。世界がぐらりと傾いた。
「うるさいねぇ! 夜中に路上でイチャイチャしてんじゃないよ、この変態夫婦!!」
怒鳴り声とともに立っていたのは、鉄鍋を持ったおばさん。
たぶん今の、それで俺の後頭部をぶっ叩いたんだな……。
「すみませんっ! 本当にすみません~~っ!!」
ベルナは慌てて深々と頭を下げる。
まるで校則違反で教師に見つかった女子高生みたいだ。
そんな姿をぼんやり見てた俺の視界は――暗転。
……やっぱ後頭部って殴られると、ほんとに気絶するんだな。
「ちょっと! ねぇ、あんた! 血が出てるじゃない!」
最後に聞こえたのは、ベルナの焦った声だった。
目を覚ますと、俺は机に突っ伏したまま寝ていたらしい。
目の前の席には、さっき俺をフライパンで殴ったあのおばさんが座っていて、気まずそうな笑みを浮かべていた。
「……目、覚めた?」
隣ではベルナが俺の額にそっと手を当てて、優しく言う。
そして指を二本立てて見せてきた。
「これは何本?」
「二本。」思わず答える。
「じゃあ、これは?」四本に変える。
「四。どうかした?」
「じゃあ、私は誰でしょう?」
ベルナが両手で俺の顔を包んで、ぐいっと覗き込んでくる。
近い。近すぎる。吐息が頬にかかる。
さすが女神、近距離で見ても本当に可愛い。
――こんな人が母親になったら、きっとあの垂れた目尻と微笑で子どもを包み込むんだろうな。
顔が一気に熱くなる。「ベ、ベルナ……」
ちょっと照れながら名前を呼ぶと、
「ふむ、正常ね。」
ベルナはそう言って、俺の手を両手で包み、自分の胸の上に乗せた。
……いや、その姿勢、反則だろ。ドキドキが止まらないんですけど。
「当たり前だろ……俺をバカにすんなよ。ニートでも、愛のためなら戦うんだぞ。」
「はいはい、ちょっと! 人前でイチャつくなって!」
おばさんが苦笑い混じりに突っ込んでくる。
え、ちょっと待って? 俺たち、そういう関係じゃないから!
この人は女神で、俺はただの凡人だぞ!?
「やれやれ、さっきアンタが倒れたとき、この子すっごく心配してたのよ?
かすり傷なのに、慌てて大騒ぎしてさ。」
おばさんは勝手に納得したように頷いている。
……完全にカップル扱いされてるな。
「そ、そんなわけないでしょ!」
横を見ると、ベルナの耳が真っ赤になっていた。
「アンタがもし死んだり重傷でも負ったりしたら、私の職歴に傷がつくだけ! それだけよ!」
顔を真っ赤にして、俺の顔を両手でぐいっと近づけてくる。
距離が……近い! 鼻先が触れそう! しかも、いい匂いするし!
「ふふっ、思ったより弱いのね。子どもでももう少しタフよ?」
おばさんは肩をすくめながら笑った。……なんか誤解されてる気しかしない。
「もう夜も遅いし、あんたら泊まるんでしょ? さっきのことのお詫びに、今夜はタダでいいわ。
二人の世界を邪魔しないようにするからね。」
おばさんは手際よく立ち上がると、ドアの外へ出ていった。
「ちなみに、この宿は防音ばっちりだから、何しても外には聞こえないわよ~♪」
ドアをバタンと閉めていくおばさんの声が廊下に響く。
……いや、誤解、深すぎるだろ!!
あらためて部屋を見回すと、ここはどうやら旅館の一室らしい。
広さはざっと五坪くらい。
ダブルベッドが一つ、四角い机と椅子が二脚、あとは木製の棚だけ。
かなり質素だ。
カプセルホテルのほうがまだ快適そうだが、まあ寝られればいいか。
「ねえ。」
ベルナが俺の服の裾をつまんで、小さな声で呼んだ。
立ち上がった彼女は俺より頭一つ分くらい低くて、見上げるようにこちらを見るその仕草が、やけに胸にくる。
上目遣いで瞳の下に少しだけ白い部分が見える――これ、俺の好きなギャルゲーでいう“王道の甘え顔”じゃないか。
「俺、机で突っ伏して寝るから。ベルナはベッド使っていいよ。女神様だし。」
照れ隠しにそう言って顔を背けた。
正直、このベッドは俺の家の布団より硬そうだし、女神が寝られるのかちょっと心配だ。
「……一緒に寝よ。」
ベルナが何か小さくつぶやいたけど、聞き取れなかった。
椅子を机の横に動かして、うん、これで一晩は何とかなる――そう思った矢先、
「だから、一緒にベッドで寝ようって言ってるの!」
……え、今の本気? いやいや、女神だぞ!? それは俺のほうが罰当たる!
「べ、別に変な意味じゃないわよ! 私は人々に幸福を与えるのが役目。
人間を苦しませるなんて、神として失格なの!」
顔を真っ赤にして言い訳するベルナ。
「もちろん、変なことしたら即地獄に叩き落とすけどね。」
拳を軽く振り上げるその姿に、俺は条件反射でごくりと唾を飲んだ。
……そういえば、初日にベルナが吹っ飛ばしたあの巨大モンスター、星になったっけ。
部屋の気温はだいたい二十度前後。
ちょうどいい。
ベッドのシーツは毛付きの草で編まれていて、見た目は硬そうなのに、寝てみるとふわっとして驚くほど心地いい。
俺の家の布団には及ばないけど、まあ悪くない。
あっちには抱き枕(等身大・二次元美少女ver)もあるけどな……。
「ねぇ、起きてる?」
ベルナの小さな声が暗闇から聞こえた。
蚊の鳴くような声。……まさか照れてる? いや、女神だしな。
最終的に、俺たちは同じベッドに横になった。
ただし、“お互いに触れないこと”が絶対条件だ。
「起きてるよ。」
「明日から、この世界で生きていくんでしょ? 何か考えてる?」
あいまいな質問。
正直、俺も考えなんてなかった。
ヨーロッパ旅行どころか、もう地球から別次元に来てるわけだし。
言葉が通じるのは奇跡だろう。多分、日本語が自動翻訳されてるんだ。
スキルも役立たずって判定されてるしな……。
日本に戻ったところで、痴漢容疑で即逮捕だろうし。
(豚カツ定食食わされる未来までは想像してるけど、警察署で食うのは絶対にまずいはずだ。)
「俺、ちょっと頑張ってみようと思う。
計算とか商売とか、そういう頭使う仕事を探してみるよ。」
「いい考えね。応援してるわ。」
ベルナの声は本当に優しくて、初めて出会ったときと同じ響きをしていた。
その声が、なぜか俺が死ぬ前にプレイしてたギャルゲーの、赤ん坊を抱いたヒロインの声と重なって聞こえる。
夢でも見てるのか、現実が溶けてるのか。
「私ね……神様のくせに、この先どうすればいいか全然分かんないの。」
ベルナは小さくため息をついて、弱々しく笑った。
「父上――主神に反抗した勢いで、ここまで来ちゃっただけ。
後悔……ってほどじゃないけど、少しはね。」
――少し、って言う人は大体かなり後悔してる。
ギャルゲーのテンプレそのまんまだ。
でも、こういう女の子は現実にもいる。俺はなんとなく分かってた。
「昔からお母様にも言われてたの。
“あなたはいつも考える前に動く子ね”って。
私、ほんとに女神に向いてないのかも。」
その顔を見た瞬間、俺は思った。
ああ、この人、完璧じゃないんだ――ちゃんと迷ってる。
「大丈夫。ベルナはすごいよ。」
そう言って顔を向けると、彼女は横向きで俺を見ていた。
少し悲しそうな表情。
でも、その青い瞳は暗闇でも光を放っていた。
「俺だけじゃない。君が祝福した魂たちも、きっと心から感謝してる。
あの祈る姿、俺はちゃんと見てたんだ。」
女神としてのベルナは完璧だった。
でも今、隣にいる彼女は人間味があって、ますます魅力的に見えた。
三十年近く女の子と縁のない俺にとって、こんな夜を過ごせるなんて奇跡みたいなもんだ。
眼鏡を外してるから視界はぼやけてるけど、その分、息づかいまで鮮明に感じられる。
「ありがとう、渡辺さん。
本当に優しいのね。……さっきのこと、ごめんなさい。」
そう言って微笑んだ彼女は、まるで聖母みたいだった。
――ああ、負けた。完全に癒された。
これからはもう少し、この女神に優しくしよう。
「それに、眼鏡外した渡辺さんって、けっこう――」
“かっこいい”って言いかけたのか、ベルナは途中でハッとして、
「み、見ないで!」
俺の顔を手で押しのけ、くるりと背中を向けた。
その瞬間ようやく気づいた。
俺のスキル――“眼鏡を外すと自動発動する”あの使えない能力。
まさか、女神にまで効くのか? いや、そんなはず……。
そう思いながら俺も背を向けて、壁のほうを向いた。
なんだか今日は本当に疲れた。
そして、すぐに意識が沈んでいった――。
目を覚ますと、窓から差し込む朝日が頬をあたためていた。
カーテンのない簡素な木枠のガラス窓――ああ、ここが異世界に来て丸一日経った場所だって、ようやく思い出す。
伸びをしようと腕を動かしたら、もう片方の腕がじんじん痺れてまったく感覚がない。
……何かが俺の片側にのしかかってる?
ふっと息を吸うと、鼻と口いっぱいに広がるのは、アボカドに蜂蜜ミルクが混ざったみたいな甘い香り。
あれ、これ俺の世界のボディソープの匂いに似てるな。
横を見る。
金髪の美少女――女神さまが、抱き枕みたいに俺の上に乗っかって寝ていた。
これが……女の子の匂い……?
神よ、ありがとう。いや主神さま、ありがとう。
童貞として二十数年、人の手すら握ったことがないのに、いま美少女が俺の上で安らかに寝息を立てている。
日本だったら間違いなく通報案件だろ、これ。
――とはいえ、ノータッチで済むわけがない。
今のベルナの服は白と青のやわらかい生地で、ほぼパジャマ。
腕も脚もほどよく出ていて、襟元の隙間からは、女性特有の曲線がチラ……。最高か。
今、この瞬間に、少しだけ触れたなら――俺の人生、悔いなし。
葛藤の末、そっと手を伸ばす。
すべすべで、体温は手の甲より少し高い。
ただ腕に触れただけなのに、この中毒性は何だ。やばい、クセになる。
ちらっとベルナの顔を確認。まだすやすや寝ている。
よし、次は……太もも。
名残惜しく腕から手を離し、狙いを定める。
――本来なら過膝ソックスとスカートの境目、いわゆる“絶対領域”。
(ベルナはオーバーニーも短いスカートも履いてないけど、そこは心の“座標”だ。)
膝裏まであるスカートの下へ手を滑り込ませ、上へ。
だいたいこの辺が目標エリア……よし、触れる。
……なにこれ。
布の隔たりがない、肌と肌。
CMで見る“赤ちゃん肌”ってこういうこと? いや、それ以上だ。
女神の太ももは、赤子の頬よりもつるつるでもっちりかもしれない。
満たされた。いや、満たされすぎて、人生の目的ひとつ達成した気分だ。
主神さまに感謝。
もう一度、そっと撫でる。
――動かしすぎたか?
ベルナが伸びをして、俺の手が触れている脚がピクッと反応。
つられて彼女の顔が少し上に寄って、俺の鼻先に触れそうな距離に。
この距離なら、眼鏡なしでもくっきり見える。
寝顔は、Twitterで見た“眠れる姫君”の神イラストそのもの――いや、それ以上だ。
本物の金髪は朝日に照らされて、絵のベタ塗りとは違う“生の金色”。
まつ毛も眉も金色で、長くてくるんとカールしていて、流行りの付けまつ毛とは別物。
ちいさな鼻、薄いピンクの素の唇。
耳にピアス穴も傷もない、無垢な肌――完璧。これが天然の美。
……ダメだ、落ち着け俺。相手は女神だぞ。
そう自分に言い聞かせた瞬間、
――青い水晶みたいな瞳が、こちらを見ていた。
起きてた!?
「えっと……女神さま?」
おそるおそる声をかける。
いまの体勢、ベルナは俺の肩と腕の上にうつ伏せで、片側を完全にホールド。
痺れてるけど……正直、最高でした。太ももの手触りも、最高でした。
しばらく待つが、返事はない。
恐る恐るもう一度顔をのぞくと、目は閉じられ、規則正しい寝息。――気のせいか。
心臓に悪いわ。
さっきの“戦果”を得た手をいったん引き上げる。
触れていた指先から、ほのかに甘い匂いがする気がして、ちょっと幸せ。
……でも、太ももだけで満足できるかって? 無理だな。
次の目標は――お腹。
(胸? そこは“次の作戦区域”に指定済みだ。)
女神の小腹。生涯一度でいい、触れられたら昇天もの。
さっきの太ももルートから、ワンモーションで下裾に侵入。
ワンピースっぽい服だから、このルートが最短だ。
俺はベルナの顔から目を離さない。
心と腕は完全連動。
……って、あれ? さっきから微妙に身体が震えてる? 耳たぶ、赤い?
気のせいだ。考えるな。触れられる時に触れる、それが正義。
――指先がお腹に届こうとした、まさにその瞬間。
俺の腹にも、何かがクリティカルヒット。
呼吸が止まり、視界がスッと白く飛んで――意識が落ちた。
* * *
そのあと、ベルナと一緒に部屋を出た。
昨日のあのおばさんはもう一階の厨房で忙しそうにしていて、レジには四十歳くらいの渋いおじさんが立っている。
……うん、腹がやたら痛い。
まるで誰かに思い切りやられたみたいに。
でも――昨夜、そしてさっき何があったのか、なぜか記憶がまるっと飛んでいるのだった。




