第九章
ギルドの営業が終わり、冒険者たちも帰って静かになった頃。
俺は袋からあの報奨金を取り出し、ベールナに渡そうとした。
しかし、彼女はやさしく首を振って止めた。
「そのお金は……アトゥムスが、私たちに託してくれたものだと思って。
前にも、彼女があなたに“示唆”していたでしょう?
それに、あなたなら──きっとこのお金を、もっと意味のある形に変えられるから。」
そう言って、ベールナはそっと袋を俺の手に戻してきた。
「じゃあ、一緒に金額を確認してみようか?」
彼女の言葉に頷き、袋を開く。
中に入っていた羊皮紙には、荘厳な筆跡でこう書かれていた。
『エローディア王国に多大な貢献を成し、天災を退け、合成獣を討伐した英雄へ
報奨として──白金貨1枚、金貨50枚を授ける。
エローディア王国 代理摂政:王子 クウィン・エローディア』
どうやら、この報奨金は王子本人からの下賜らしい。
思い返せば、以前あの親衛隊の男が知らせに来てくれたが──きっと彼が王子に報告してくれたのだろう。
この国の親衛隊も、外来の俺に対して驚くほど高圧的ではなく、むしろ丁寧だった。
この点は、本当に素晴らしいと思う。
……正直に言えば。
日本の役所の職員もみんな親切だが、
俺がかつて訪れたロシアや中国では、外国人どころか自国民にすら、
信じられないほど横柄で冷たい態度を取る行政員が大半だった。
あれでは「国が民のためにある」なんてとても思えない。
高圧と権威、そして恐怖しか生まれないだろう。
しかし問題は──この大金をどう使うかだ。
アトゥムス女神からの贈り物だと思う以上、軽々しく扱うことはできない。
もちろん、心のどこかでは
「豪邸を買いたい」「使用人を雇いたい」「奴隷を買いたい」
なんて甘い誘惑もある。
人間に怠惰の心はつきものだ。
だが──
そんなことをしても、金なんていつか必ず尽きる。
それでは俺の未来に対する無責任であるだけでなく、
ベールナたちの信頼を裏切る行為にもなる。
◇ 商人になる? そんなの絶対にあり得ない。
異世界転生系のラノベをいくら読んでも、
情報差と技術差を利用して転売屋になる主人公ばかり。
だがあれは本質的に──
侵略者と何が違う?
“自分が嫌っている行為”を、異世界なら平気でやる。
そんなの、己の倫理観の放棄でしかない。
商人の本質は 利益の移動と市場の希釈 であり、
価値の創造ではない。
古代の交易者たちが尊敬されていたのは、
彼らが“商売人だから”ではない。
文化を伝え、技術を運び、人類をつないだ旅の学者だったからだ。
日本こそ、その恩恵を最も受けている国だ。
食文化、伝統、ものづくり──
すべては「学び、吸収し、改良し続けた歴史」に支えられてきた。
剣でも、防具でも、漫画でも、車でも、
日本が誇るのは 職人(工)と農の力 であって
「商才」ではない。
ドイツが二度の大戦後も復活したのも、
アメリカが世界一になったのも──
根幹にあるのは
工業と農業という“価値創造”の力だ。
アメリカは今も世界最大の食料輸出国であり、
第二次世界大戦以前から工業力は世界最強だった。
国内に十分に行き渡った“余剰”を輸出しただけで、
覇権を築いたのである。
◇ 日本の失敗は、まさにその逆。
自国民が必要とする食料すら足りないのに輸出し、
工場の生産力が足りないのに飢餓マーケティングでごまかす。
そんな企業は、人のための企業ではなく──
人類社会の害虫だ。
俺がかつて働いていた“大手企業”を辞め、
ニートになったのもそのためだ。
あんな場所で働き続けたら、
俺自身が“奴らの共犯者”になってしまう。
だからこそ、この国の王子がアトゥムスへ贈ったこの報奨金を──
俺は必ず、この世界の人々に還元する。
一切の汚れた商売はしない。
俺がこの世界へ持ち込める“本物の価値”は、
知識、理解、基礎技術、文化の発展。
それだけだ。
人が学ぶとき、
“丸暗記した知識”は三代で消える。
だが、“理解して得た叡智”は数千年残る。
哲学も経験則も処世術も、
受け継がれてきたのは
理解が伴っていたからだ。
千里の道も一歩から。
まずは不足を見つけ、
基礎を整え、
順番に積み上げる。
急がば回れ。
走る前に歩けなければ、何一つ身につかない。
カール・ベンツの自動車が普及しなかったのも、
ナポレオンが求めたガラス瓶の缶詰が広まらなかったのも、
“仕組み”を理解し、“改善”し、“大衆化”した者が不在だったからだ。
T型フォードが世界を変え、
ペーター・デュランドの鉄製缶が広まったのは、
理解と改善があったからである。
学者が結果だけを教えても意味がない。
理解を広め、全人類のために研究しなければ、
学者はただの “権力の奴隷” だ。
「だからこそ、このお金の使い道は――まず、この町の基礎インフラを整えることなんだ。利便性を高め、同時に洪水のような自然災害を防ぎ、さらには国境の街として外敵を防ぐ役割にもなる。
そして俺は日本人として、胸を張ってこう結論づけられる――“水道・排水設備・運河を中心とした水利システムの整備”こそが、今この街にとってもっとも長期的改善につながる最良の一手だって。」
金額としては、当然すべてを賄えるわけじゃない。
こうした大規模な土木工事は、短期間で住民が劇的な変化を実感できるものでもない。
けれど――
一度やれば、未来を変える。
利便をもたらし、人々の暮らしを永遠に支える仕組みになる。
俺の元いた世界では、人類が何千年もかけて積み重ねてきたことそのものだ。
これが俺の計画であり、今できる最善策だと確信している。
ベローナは安心したように頷き、優しく微笑んだ。
「……やっぱりあなたはすごい。これで完全に分かったわ。どうして父様――創世神様が、数億の人類の中から“あなた”を選んだのか。」
隣のヘラリアは「水道? 排水? 運河?」とまだ理解が追いついていない様子。
そこでベローナは、姉らしい丁寧さで説明し始めた。
「ねぇ、ヘラリア。数日前に起きたあの豪雨と洪水――表面上は“天災”だけど、裏を返せば“自然の資源”でもあるの。
もし上手く利用できれば、船で物資を運ぶ水路になるし、川沿いに水車を設置すれば、粉挽きや製糸、布の編み上げなどの動力源になる。
農地の灌漑、生活用水の確保……そして、最後に集まった水系は“敵軍の侵入を阻む天然の防壁”にもなるのよ。」
そこでベローナはちらりと俺の方を見て、ふわりと微笑んだ。
「――これを思いつくなんて、やっぱりあなたね。」
ヘラリアの瞳も星のように輝いていた。
……本当にそんなたいした話だろうか?
日本では昔から「禍福はあざなえる縄のごとし」と言う。
物事には必ず両面があり、その本質を見抜くかどうかが重要だ。
アインシュタインの相対論も、本来は“物理”に限った話じゃない。
すべての出来事に表と裏、因果と流れがある。
理解し、観察し、本質を見抜けば、誰にだってこういう発想はできるはずだ。
俺は、おっさん――ハドソンさんに計画を説明し、袋の中の金もすべてこの事業に使うつもりだと伝えた。
「……小僧、お前のことは最初、本当に見誤っていたようだ。」
ハドソンさんは、驚愕と感心の入り混じった目で俺を見つめた。
「お前の提案は、俺が今まで会ってきた誰よりも先を見ていて、価値がある。
もし望むなら、王子――クイン様へ推薦してやるぞ。この国の宰相だって務まる器だ。
水路の建設については、今すぐ周辺の村々に通達して実行させる。洪水対策になり、将来自エン皇国の侵攻を遅らせる盾にもなる。
……これは、本当に、素晴らしい提案だ。」
そう言って、ハドソンさんは金袋を俺に押し返した。
「お前の“提案力”だけで十分動ける。
これは元々、ここの住民全員のための話だからな。」
……それはそうだが、資金があれば進行速度も安全性も段違いに上がる。
そして俺にはもう分かっている。
自エン皇国は必ずこの地へ侵攻してくる。
時間はもう残されていない。
水路整備は膨大な労力と資金が必要になる。
だからこそ、俺は金袋をハドソンさんにぐいっと押しつけた。
ハドソンさんはしばらく黙り、
――やがて、まるで自分の子どもの成長を見届けた父親のような顔をした。
その表情は、ほんの少しだけ懐かしかった。
俺が大学を卒業した日のことを思い出す。
式に来てくれた両親が、同じ目をしていた。
ああ……本当に、久しぶりに見た。
ギルドでハドソンさんとヘラリアに別れを告げ、
ベローナと二人きりで 宿へ向かって歩き出した。
街道沿いの店を見ながら歩いていると、
ふと一軒の靴屋の前で足を止めた。
「え? 私にくれる最初のプレゼント……靴なの?
そんなことしたら、私があなたの元から離れていっちゃうかもしれないよ?
……靴を贈ると“遠くへ行く”って言い伝え、知らないの?」
ベローナがくすっと笑いながら言う。
日本でもよく聞くジンクスだ。
「分かってる。でも……結婚って、相手の自由を縛るものじゃないだろ?」
彼女の裸足を見やりながらそう答える。
「それに、メリージェーンは足の甲のストラップに“守護”の意味があるんだ。
俺が一番好きな靴でもある。」
ヘラリアがいないぶん、
ベローナの表情もどこか柔らかく、二人の時間は静かで穏やかだった。
手を繋いで店に入り、似合いそうなアイボリー色の低めのメリージェーンを選ぶ。
俺はベローナを椅子に座らせ、膝をついて丁寧に靴を履かせた。
……その間、つい何度か故意に足を撫でてしまい、
結果ベローナは顔を真っ赤に染めてしまった。
履かせ終えると、彼女はぷいっと足を上げて俺の膝を軽く蹴る。
その瞬間――俺は気づいた。
ベローナのお腹が、ほんのり丸みを帯びていることに。
「父様から授かった“睨むだけで妊娠”のスキル……
たぶん胎児の成長速度も普通よりずっと速くなってしまうの……」
ベローナは申し訳なさそうに、
でもどこか嬉しさを隠しきれない、不思議な表情でそう呟いた。
その瞬間、胸の奥で何かがそっと触れた気がした。
――そうだ、俺はもうすぐ「父親」になる。
それは同時に、逃げられない責任を負うということでもある。
これまで何度も覚悟はしてきたはずなのに、いざ現実が目の前に現れると、どうしても怖さと戸惑いが胸を占めた。
本当に、自分の子どもが安心して眠れる場所を用意できているのか?
俺とベルナはまだ旅館暮らしで、生活もほとんど彼女の給料に頼っている。
これまで俺が言ってきた立派な言葉も、今となっては全部、表面だけの虚しい台詞に感じられた。
自分の子どもに“家”すら与えられない俺が、何を語る資格があるというのか。
支払いを済ませ、靴を履いたベルナと腕を組みながら旅館へ戻る途中――
彼女がそっと言った。
「そんなに思いつめないで。私はあなたに、無理な不安なんて抱いてほしくないの。
お腹が大きくなってもお給料はちゃんと出るし……もし旅館に居づらくなったら、ヒラリィちゃんにお願いしてギルドに泊めてもらってもいいわ。なんとかなるものよ。」
本来なら俺が言うべき言葉を、ベルナが優しく先に口にする。
さっきおっさんに袋のお金を全部渡したばかりなのに、今度は自分の生活を心配しなきゃいけないなんて――情けない。
そうだ。
人前でどれだけ正しく見えても、家族すら守れない人間に、他人を救う資格なんてあるわけがない。
国だの未来だの語るなんて、笑われても仕方ない。
するとベルナが、俺の心の声を聞いたように否定してきた。
「そんなことない。あなたは本物の英雄よ。
私をあなたに会わせてくれた父さまにも、そしてあなたを育ててくれたご両親にも、私は感謝したいくらい。
あなたの正義、優しさ、温かさ、責任感……全部あなたの周囲の人が育ててくれたものなんだもの。」
「あなたは優秀よ。この世界の誰よりも。
そして――優秀な人は必ず孤独なの。」
「あなたは誰より多くを見て、誰より深く考えられる人。
その心が、私には分かる。だからこそ私はいつだって、あなたの後ろで支えるわ。」
その笑みは、まるで心を癒やす光そのもののようだった。
「これからも、一緒に未来へ歩いていきましょう。」
彼女はそっと眉を下げ、半分閉じた瞳で微笑む。
「今夜……一緒に寝てもいい?」
小さく横目で言い、頬をうっすら赤く染める。
「赤ちゃんが生まれて“お母さん”になってから……いつまでも少女のままじゃいたくないの。」
旅館の女将さんに温かく見守られながら部屋に入り、
衣服を脱ぎ、生まれたままの姿をさらす。
俺はそっと、彼女のふくらみ始めたお腹に触れた。
――そこにはもうすぐ生まれてくる命と、確かな希望が宿っていた。
布団にもぐると、ベルナが照れながら身を寄せてくる。
その夜、俺は二十数年守ってきた“童心”を静かに卒業した。
そして気づく。
ベルナという女神は、俺の妻であり――
これから生まれる子の母親なのだと。
荒れ果てた戦場で、女勇者は皇国から授けられた勇者の剣を抜き放った。
その正面に立つのは、アトゥムスと名乗る女神。
「……あの皇国の部隊と、合成獣を壊したのは……あなただよね?
この世界にいる“偽物の神様”。」
レナは、夕陽に照らされて一部だけピンクがかった銀髪をなびかせるアトゥムスをじっと見つめながら、探るように問いかける。
「正確に言えば――あなたが元々いた世界も、私たちが管理しています。
あなたを迎えに行ったのは私の姉です。
ただ、私たちの力がこの世界の干渉を受けてしまって、結果として、あなたは本来とは違う場所に転生してしまったのです。」
アトゥムスは静かに言葉を紡ぐ。その表情は渡辺直人と一緒にいるときとはまるで違い、無数の命を見てきた神だけが持つ、万物への憐憫と神性を帯びていた。
「……あたしを召喚したジーン皇国の教皇様は、
『この世界に神なんて存在しない。そんなものは全部でっちあげだ』って言ってたよ。
それに、うちのジーン皇国の目的は、本来は“科学の力”でこの大陸を変えて、人々の暮らしを良くすることだって。」
レナはそう言いながらも、簡単には斬りかからない。
少し離れた場所では、皇国の指揮官がジーン皇国で新しく開発された拡声器を通して、怒鳴るように命令を飛ばしていた。
「勇者レナ! ぐずぐずするな、さっさと斬れ!!」
それでもレナは動かない。
目の前の女神を観察するように視線を向け続けている。
「……自分でも見てきたはずでしょう?」
アトゥムスは少しだけ声色を冷たくして、現実を突きつけるように言った。
「本当に“世界を良くする”のが目的なら、
どうして戦争に頼るのですか? どうして侵略という手段を選ぶのですか?
皇国の技術が本当に人々の生活を良くしているのなら――
どうしてあの国の人々は、あれほどまでに顔色が悪く、俯いてため息ばかりついているのです?」
アトゥムスがこの世界に留まり続けているのは、心配だからだ。
大部分の神力を手放した姉ベルナのことも、
そして、公園で初めて出会ったあの青年――渡辺直人のことも。
だからこそ、直人がエロディア王国の辺境の町で水利事業を呼びかけ始めたとき、
アトゥムスはこっそりと自分の神の力を使って地形を変えた。
川筋を通しやすくし、運河が通るべきルートを整え、
本来なら数年はかかる工事を、ほんの数週間で終わらせてしまったのだ。
もちろん、直人に気づかれないように、
あくまで以前の暴雨と洪水で土地が削られた“結果”であるかのように偽装して。
今はまだ河道の両岸を人の手で少しずつ固めていくだけでいい。
そう見えるように、慎重に調整した。
その過程で、自恩皇国の軍が間もなく侵攻してくる気配を感じ取り、
アトゥムスは一人で戦場に飛来し、自分の力だけでこの戦争を止めようとしていた――
そこで、元々はまったく別の世界へ転生させるはずだった勇者・高橋レナと出会ってしまったのだ。
「……言ってることに、筋は通ってるように聞こえる。
でもさ、本当に神様なら……どうして一人で軍隊を止めに来てるの?
もっと他に、やり方があるんじゃないの?
それとも、自恩皇国の言ってることが間違ってるの?」
レナはすぐには答えを決めつけず、今まで聞かされてきたことと、目の前の女神の言葉とを比べるように、静かに問い返す。
彼女はこの世界に来る前の世界でも、
「無産階級の独裁」を掲げる思想の話を耳にしたことがあった。
それは一見「弱者のため」の顔をしながら、その実、別の形の支配であるようにも思えた。
アトゥムスは、そこで一瞬言葉に詰まる。
――どう説明すればいいのか分からなかった。
レナの元いた地球でその思想を掲げてきた組織も、
数え切れないほどの悪行を重ねてきたこと。
そして、その歴史の多くが、都合よく塗り替えられていること。
本当はすべて話したい。
ただ、その重さを今ここでレナ一人に背負わせるべきなのか、迷いがあった。
(……それに、本当なら神はどの世界にも直接干渉すべきじゃない。
お父様も、お母様も、叔父様も、何度もそう教えてくれた。
だけど――神にも“贔屓”はある。
一度、あの人を好きになってしまった以上……私は、もう最初の一歩を踏み出してしまった)
「招き入れるのは容易だが、追い出すのは難しい」。
この世界にも、そして彼女たちの元いた世界にも似た言葉がある。
漢字の世界でも「請神容易送神難」と書く言い回しだ。
アトゥムスの意識がほんのわずかに逸れた、その一瞬――
勇者レナの身体が動いた。
いや、正確には、剣そのものが、彼女の身体を操っているかのように。
刃先が、一直線にアトゥムスへと突き出される。
「っ……!」
予想外の事態だった。
その剣は、神が身を守るための障壁を易々と貫通したのだ。
アトゥムスは即座に反応したものの、肩口を深く刺し貫かれてしまう。
――これは、神をも殺しうる剣。
その事実を、アトゥムスははっきりと理解した。
レナの瞳は焦点を失い、完全に“洗脳された兵器”のようになっている。
アトゥムスはこの隙に勇者を連れ去ろうと考えたが、その瞬間――
レナの周囲に、巨大な影がいくつも現れた。
以前アトゥムスが完全に消し去ったはずの合成巨獣。
だが今度のそれは、明らかに様子が違っていた。
素材にされているのは、人間の肉体。
それも――子どもたちの身体だった。
子どもたちはまだ生きている。
だが、その意識は今のレナよりもさらに深く抉られ、
心には“獣の殺意と、喰らうことへの渇き”しか残っていない。
アトゥムスはその姿を見て、この子どもたちが以前、
自恩皇国の狂気の博士ホーキンによって虐げられていた奴隷たちであることを悟る。
気づけば、頬を伝って涙が零れ落ちていた。
(……今の彼らにとって、いちばんの救いは“解放”なのかもしれない。
けれど――)
――神である以上、子どもに刃を向けることはできない。
たとえ彼らが、もはや元の姿には戻れないほど改造されてしまっていたとしても。
どれほど獣としての本能しか残されていなかったとしても。
神に課された鉄律は、決して曲げることを許さない。
アトゥムスは、勇者レナを連れていくという選択を捨てざるを得なかった。
(……ごめんなさい。
レナも、この子たちも。
でも――今は一刻も早く、ベルナと……あの人に伝えないと。
あの人なら、きっと何とかしてくれる)
悔しさと後悔を胸に抱えながら、アトゥムスは翼を広げ、空へと飛び立っていった。
*
アトゥムスが飛び去ったあと、勇者レナはようやく自我を取り戻した。
剣先にこびりつく血が視界に入る。
それは、先ほど自分が突き刺した“神”の血に違いない。
(……神様……なのに。
どうして、人間と同じ血を流してるの……?
教皇様は、あの“神”は偽物で、魔法で作られた存在だって言ってた。
でも――さっきの言葉……どうして、こんなに胸に残ってるの……?)
答えの出ない疑問を抱えたまま、
レナは周囲に立ち込める合成獣の腐臭に耐えながら、皇国軍の指揮官のもとへ戻る。
だが、戻るなり――
バシンッ!
乾いた音とともに、頬に平手打ちが飛んできた。
「次に軍令に背いたら……そのときは、こんなもので済むと思うな。」
そう吐き捨てると、指揮官はレナから顔を背けて去っていく。
レナは、自分の頬にそっと手を当てた。
勇者となった自分からすれば、あんな平手打ち程度のダメージはほとんどないはずだ。
それでも――胸の奥が、痛んだ。
(……お父さん……)
彼女は、元の世界ではエリート官僚一族に生まれた娘だった。
幼い頃から「期待」という名の圧力を浴びせられ続け、
両親の過剰なまでの管理と干渉に押し潰され、
最後には、自殺という形で自分の人生に幕を下ろした女高校生。
弟が一人いた。
弟のために、彼女は多くを背負い込んできた。
そのときの父の表情と、今、目の前で平手打ちを放った指揮官の顔が、重なって見えた。
この異世界に来てからも、彼女の日々はほとんど変わっていない。
元の世界では、毎朝早く起きて勉強し、食事をして、また勉強し、
夜遅くまで机に向かい、そのまま眠る――その繰り返し。
この世界に来てからは、それがそのまま、
朝早く起きて剣の訓練をし、食事をして、また剣を振り、
倒れるように眠る――
という生活に置き換わっただけだった。
ただ、ここ一ヶ月ほどで唯一変わったのは、
彼女が軍に編入され、この国を攻める主力として前線に立たされるようになったこと。
そして――今日が、その“初陣”だった。




