第6話 「再生」~まだ描かれていない線の上で~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく
打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。
それでも——線を描く理由は、まだここにある。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
朝の空気は、ぬるい水のように部屋の中を這っていた。最近はお盆を過ぎても秋の気配を感じる事は無い。
スタジオの窓は静かに閉じられている。外では誰かの自転車が遠ざかり、鳴き終えるタイミングを忘れた蝉の声が聞こえる。
文潮社での再起をチームの皆と決意した翌日、キズナは、机の上に置かれた一枚の封筒を見つめていた。
指先にはまだ、その紙のざらつきが残っている。祖母の清香から、九州で直接手渡された封書――その重さを、数日が経った今も彼女は手放せずにいた。
「……あの時、なんて言ったっけ……」
ぽつりと呟いて、キズナは封筒の端にそっと触れる。
手紙を渡されたあの日。清香の眼差しは、真っ直ぐで、やさしくて――でも、どこか遠くにいた。
祖母の指からこの封筒が離れた瞬間、なにかが自分の中に落ちてきた気がした。それが責任か、希望か、まだ名前がつけられないまま、彼女の胸の奥で静かに疼いている。
封を開けてはならない、と言われたわけではなかった。
けれど、キズナはただ、祖母の想いを“託されたもの”として守っていた。届けるべき相手――協会会長・笹崎花子。
目を閉じると、封筒の紙の匂いが鼻をかすめる。和紙のような繊維の香りと、そこに宿る祖母の時間の手触り。便箋を折った線が、細く確かに残る。
かすかに手のひらが温もりを思い出す。キズナはその封筒を、そっと胸元に引き寄せた。
机の上では、スケッチブックが白いまま横たわっている。描こうとして描けなかった線。その余白が、今はひどくまぶしい。
しばらく、何も考えずに座っていた。
秒針の音だけが部屋を満たし、微かな空調の風が髪を揺らす。
――これは始まりなの。
その言葉だけが、キズナの中に残った。
決意というより、祈りに近い。
スマートフォンを手に取り、震える親指で番号を入力する。
鳴る音が、やけに遠く感じた。胸の奥に溜まっていたものが、次第に輪郭を持ち始める。
『……はい、日本科学漫画協会、会長室でございます』
低く澄んだ声。受話器の向こうに、緊張が立ちのぼる。
キズナは小さく息を吸い、名乗った。
そして、言葉を紡ぐ。
「戸隠キズナと申します。会長宛に祖母……荻野清香からの手紙を、お預かりしています」
一拍の沈黙。
『……荻野清香先生からの……? かしこまりました。少々お待ちください』
静かなやりとりの中で、確かに空気が変わった。
やがて、正式な面談の許可が降りた。通常であれば、一会員個人、ましてや謹慎中の身が会長と直接会うなどあり得ない。それでも――これは、清香の名前によって開かれた扉だった。
キズナは受話器を置き、改めて封筒を見つめた。
まだ、開けられていないその封筒。
そこに込められた想いは、自分が読むものではない。けれど――届けることで、線が繋がっていく気がした。
*
数日後、キズナは地下鉄半蔵門線と銀座線を乗り継ぎ、虎ノ門駅で下りた。協会本部ビルまでは少し距離があるが、毎日自宅とスタジオ間の3キロ程を往復するキズナには散歩程の距離も無い。
レトロなロビーの脇にある巨大な鉄腕アトムのフィギュアを横目に見ながら、受付に来意を告げる。
しばし後、エレベーターで20階まで案内され、通された協会本部の会長室は、都市のざわめきから遠く切り離されたように静かだった。
厚いカーペットに音は吸われ、応接の窓は重厚なカーテンに半ば覆われている。室内は柔らかな間接光に包まれ、空気はやや乾いていた。古い書棚から香るインクと革表紙の匂いが、どこか昔の学校のようでもあり、思い出に触れる図書館のようでもあった。
*
戸隠キズナは、緊張の糸を張ったまま、椅子の縁に腰を下ろしていた。
膝の上に乗せた封筒を両手で包み込むようにして持つ。祖母から預かった手紙。手触りは朝と変わらないはずなのに、今は少し重く感じた。
向かいの席には、日本科学漫画協会会長――笹崎花子が静かに座っていた。
年齢不詳の佇まい。柔らかい白髪が丁寧にまとめられ、細身の眼鏡がその表情の奥を隠す。服装は飾り気のない深紫のワンピースで、背筋は伸び、手の指先まで意識が通っているような所作だった。
「……お久しぶりね、戸隠キズナさん」
「……こちらこそ、お時間いただきありがとうございます」
簡単な挨拶のあと、しばらく沈黙が落ちた。時計の針がわずかに音を立てる。
キズナは深く頭を下げると、封筒を両手で差し出した。
「祖母・荻野清香から、会長宛にお預かりした手紙です。中身は……私は読んでいません」
花子は静かにうなずいた。封筒を受け取る指は驚くほど軽やかで、しかし震えすらない。
そのまま視線を落とし、ゆっくりと封を開ける。
紙が擦れる音が、部屋の空気を切った。
一枚、二枚。便箋が取り出され、読み進められていく。キズナは息を殺し、ただその様子を見守った。
しばらくして、花子の眼鏡の奥が揺れた。
頬に光るものが伝うのを、キズナははっきりと見た。それは涙と呼ぶにはあまりに静かで、滴るのでも零れるのでもなく――そこに、ただ在るもののようだった。
読み終えた花子は、便箋を膝の上にそっと置いた。
そして視線を上げ、キズナと目を合わせる。そこに怒りはなく、悲しみでもなく、ただ深い深い湖のような静けさがあった。
「……ずいぶんと、変わらない筆跡ね。あの人らしい」
その呟きに、キズナはうなずくことも、返事をすることもできなかった。
花子の声には、懐かしさと、痛みと、尊敬と――何より、別れを知る者の響きがあった。
再び静寂が降りる。外の世界の気配は一切感じられない。
ここには二人だけがいて、そして、一通の手紙がある。
花子は、ゆっくりと息を吐いた。その息は、まるで手紙の最後の句読点のように静かだった。その瞳には柔らかな光と、硬い意志の両方が宿っていた。
「……理事会を、開きましょう」
それだけを告げて、花子は再び手紙に目を落とした。
それは命令ではなく、決意だった。あるいは、あるべき未来への線引き。
キズナは無言のまま、深く頭を下げた。
まぶたの裏に、祖母の背中と、手紙の重みが浮かんでいた。
*
その会議室は、異様なほど静かだった。
依然夏の日差しが差す、九月最初の平日。
都心の一角にある協会本部ビルの最上階。重い扉を隔てた理事会室には、遮音された気密な空気が滞留していた。高窓から入る光は白く乾いていて、机上に並んだ水差しさえ緊張に濁って見えた。
理事席には六人が既に着席していた。
科学技術担当の谷保五郎博士、政策・秩序担当の漫画家日月武蔵理事、広報・渉外担当の元官報記者・桐嶋岳理事、教育・訓練担当アニメ畑から転じた柚木典久理事、そして政府官僚から天下った二名――元防衛装備庁の朝倉、元文科省の森山。
谷保博士を除けば、協会内保守派=秘匿派と呼んでも良いかも知れないが……に属する人物であった。
星野トシロウはその席に少し遅れて入る。担当分野の無い無任所の理事である。一種祭り上げられたその立場に苦悩も有ったが、創作と戦闘を線で結び続ける事の意義を背負い、その地位にあり続けている。
入室時一瞬博士と視線が交差したが、お互いに声はかけずにそのまま着席した。
理事はあと二名。
扉が開き、背は低いがガッシリした身体付きの中年男性が入ってきた。
漫画家武内トオル。
掛ける描線眼鏡が、依然戦闘の現場に立つ戦士でもある事を示していた。
任所は倫理・認可部門であり描線眼鏡・ペンの使用認可の権限を持つが、あくまで理事会の掌握の元での事であり、キズナのケースの様に理事会に計られる場合その限りでは無い。
最後に協会会長・笹崎花子が中央の席に座し臨時理事会は始まった。
*
「……それでは、議題に入りましょう」
花子の一言を合図に、会議は始まった。
冒頭、星野が立ち上がる。彼女の声は落ち着きながらも熱を孕んでいた。
「私は眼鏡の所有制度を見直すべきだと考えます。個々の創作者が自身の道具として責任を持つべきです。“貸与”という形態は、過去の事故に対する保守的反応に過ぎません」
谷保がそれを受けるように補足した。
「責任と管理を一元化するのではなく、現場の柔軟性を認める制度設計が必要です。再発防止策も技術的に講じられます。協会がすべてを囲い込む体制は、現実との乖離を深めるだけです」
対する保守派。まず声を上げたのは柚木だった。
「その“現実”の中で、若年の訓練不足者が魔と接触し、結果的に多くの混乱を招いたのです。戸隠キズナという個人に、すべてを背負わせる気はありません。ですが――」
彼は一拍置き、日月の方へ視線を向けた。
「教育の視点から言わせていただくなら、たとえ情熱が本物でも、訓練を経なければ、その刃は誰かを傷つけます。現場は信頼ではなく、手順で動くべきです」
日月がにやりと笑い、立ち上がった。
「つまりは、再犯の可能性があるというわけだ。まして、聞いた話だが文潮社と新連載? 戸隠キズナ自身がそこまで計算しての事かは知らないが……」
ジロリと星野に視線を回した後に続ける、
「商業誌に戻る算段までつけていたとはな……立派な再起計画だ」
声は静かだが、明らかに攻撃的だった。
「“眼鏡”という国民的技術の信用を守ることこそが、我々理事の責務だ。彼女の行動は、協会と政府、ひいては日本の信頼に泥を塗るものだと言わざるを得ない」
だが、そこで花子が口を開いた。
「――日月理事」
その声は澄んでいた。だが、空気を裂くような力があった。
「彼女が過ちを犯したことは否定しません。しかし、今もなお前線で“描いて”いる。多くの市民を守るために。あなた方の言う“協会”とは、机上の規則のことですか? それとも、現場で命を賭ける者たちのことですか?」
星野が、短く息を吐いた。
谷保はゆっくりとうなずき、武内は無言で書記用タブレットに記録を残す。
花子は続ける。
「私は――ある旧友の言葉を思い出しました。正義とは、己の行いに誇りを持てることだと。その視点に立てば、戸隠キズナという若者は、なお前を向こうとしています。ならば、大人がそれを支えるべきではないでしょうか」
沈黙。
誰もが、花子の「旧友」が誰かを察していた。
投票が行われた。
保守派:五票。
改革派:三票。
そして、会長権限は二票の重みを持ち、それは改革派の側に投じられた……
「拮抗とみなされます。議長裁定権を行使します」
花子の言葉が、扉を開いた。
――戸隠キズナの戦闘ライセンス、再交付を認める。
ただし、妥協案も提示された。
・描線眼鏡は従来通り協会の貸与物扱いとする。
・活動再開にあたり、一定期間の監視下および研修合宿への参加を義務とする。
静かに会議が閉じられる。
だが、その場を包む空気は、確かに変わっていた。
*
チャイムの音が鳴ったのは、午後三時を少し回った頃だった。
静まり返ったスタジオ。陽の光はすでに西に傾き始め、カーテンの隙間から差し込む光が机の角を鋭く照らしている。キズナは鉛筆を置き、立ち上がった。足音がフローリングを打ち、玄関までの数歩がやけに長く感じられた。
ドアを開けると、制服姿の配達員が無言で段ボールを差し出してきた。
白い封緘ラベル。見慣れたロゴと文字。
送付元:日本科学漫画協会 資材管理課。
サインを済ませ、箱を抱える。中身は小さくても、重さは確かだった。
静かな部屋の中央に段ボールを置き、ゆっくりと開封する。正月に最初に届いた時はキレイで古風な風呂敷に包まれていたが、今日は緩衝材の奥にすぐそのケースがあった。フタを開け一番上に載っているそれを手に取った。
彼女の描線眼鏡――、戻ってきた。
祖母の眼鏡を外し丁寧に眼鏡ケースにしまい混んでから、キズナは息を吸って、静かに彼女自身の眼鏡をかけた。
眼に入るひかりと影は祖母の眼鏡とさして変わりない。だが目元のスイッチをオンにすると、レンズの内側が光を帯び、UIが浮かび上がった。
ACCESS CODE:SYNC
USER:KIZUNA TOGAKUSHI
STATUS:ACTIVE
LAST ERROR:MEMORY BLOCKED
一瞬、淡いノイズが視界を走った。ピリッとした痺れのような違和感。過去の余韻が、まだこの眼鏡には残っているのかもしれない。
――けれど、戻ってきた。それだけで、世界は少しだけ違って
見える。
ノックもなしに、ドアが開いたのはその直後だった。
「うお、マジで戻ってきたのか、それ」
最初に顔を出したのはケンだった。
手にはコンビニ袋、いつものように塩飴を含んだ菓子と飲み物をぶら下げている。彼はキズナの顔と眼鏡を交互に見て、にやりと笑った。
「おかえり――じゃねぇな。おかえりなのは、そっちか」
その“そっち”には、眼鏡と、ペンが含まれていた。
アツも顔を見せる。
「眼鏡もペンも戻ってきたんだ……」
感慨深げに立ち尽くす。
続いてランとマナセ、間を置かずサキが現れた。ランは目を丸くして段ボールの中身をのぞき込む。
「梱包味気ないよね。最初に見た時は……おせち料理みたいだったのに……」
整った所作で玄関の靴を揃えて入室してきたサキは、
「そもそも正月じゃないんですから」
と冷静に返しながらも、久しぶりに対面した描線眼鏡を手に取って懐かしそうに見つめる。
それを見てマナセも穏やかに微笑む。
最後に、サチハが戸の影からそっと顔を出す。
「……キズナさん……よかった……」
彼女の声は小さく、でもその笑顔は、まっすぐだった。
キズナは短く頷き、何も言わずに笑い返した。
スタジオに人が集まり、空気が少しずつ暖かくなる。
いつもの配置にペンが収まり、眼鏡はその手に戻る。
線はまだ描かれていないけれど――それを描ける者たちは、ここにいる。
机に戻ったキズナは、深く息を吐いた。
視界の端に、小さく光が走る。システムが再起動を終えたのだ。
ふと、HMDに新たな行が浮かぶ。
ACCESS PROTOCOL:DRAWLINE / INITIATE.
CANVAS READY.
GOOD LUCK, KIZUNA.
彼女はその言葉を見つめながら、ゆっくりと手を伸ばした。
ペンは、まだ重い。けれど、その重さを、自分はもう知っている。
*
静かだった。
皆も帰り夜の帳が降りたスタジオは、街の喧騒から切り離されたように、静かに時間を沈めていた。照明は最低限、机のスタンドライトだけが光を落とす。黄白色の光に照らされて、木目の机が柔らかく浮かび上がっていた。
キズナは、そこに座っていた。
描線眼鏡をかけ、手にはペン。もう何時間も前から、その体勢のままだった。
何かを描こうとするたび、どこかで手が止まった。
イメージはある。構図も、人物も、セリフも浮かんでいる。けれど、それを線に変えるだけの力が――今の自分に、あるのかどうか。
指がかすかに震えた。
胸の奥で、祖母の声がした気がした。
「描くことを、恐れてはいけないよ」
その声が、柔らかく、しかし芯のある響きで自分の背を押してくる。
花子会長の静かなまなざし。仲間たちの笑顔。武器のように重たく、それでも戻ってきた眼鏡とペン。
全部が、今、この瞬間に繋がっている。
描けるのか――そう問いかけたくなる弱さは、まだどこかにある。
でも。
キズナは深く息を吸い、目を閉じた。
描くんだ。今度こそ。
眼鏡のレンズに、システムの起動プロトコルが浮かび上がる。
ACCESS PROTOCOL:DRAWLINE / INITIATE.
CANVAS READY.
GOOD LUCK, KIZUNA.
画面の奥に、仮想のキャンバスが広がる。
そこはまだ真っ白だ。何も描かれていない、可能性だけが漂う場所。
その中心に、自分の“線”を引く。その覚悟を問われている。
スッ、と最初の線が走る。乾いた音はしなかった。ただ一筋の意思が、白紙の上に落ちた。
まだ全てを取り戻したわけじゃない。
でも、始まった。もう一度、ここから。
描線眼鏡の内側に、微かなアラートが点滅する。
“STATUS:ACTIVE”。
“LINK READY”。
キズナは笑った。
「……うん、私も、まだ――描ける」
その声は誰にも届かなくても、線には届く。
夜はまだ長い。締切も、試練も、きっとまた訪れる。
だけど、今はそれでいい。
線が繋ぐ未来を信じて、ただ、一歩を描けばいい。
キズナが祖母・清香から預かった一通の手紙を巡り、協会との再接続を果たす“静かなる転機”が描かれます。物語はバトルやアクションから距離を取りますが、理事会という政治の場での戦いが描かれます。
これで第2部第1章は完結。“再生”を果たし眼鏡とペンを手に戻したキズナたちの物語は、ここから新たなステージへ進みます。
次回からは、新章「合宿」編に突入。舞台は富士の山麓・本栖湖畔。新たな仲間との出会いと訓練、そして想いの交錯が描かれます。どうぞご期待ください!




