第5話 「編集」~叫びから再起する物語~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。
それでも——線を描く理由は、まだここにある。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
朝の光が斜めに射し込む、ガラス張りの会議室。
ある出版社の第三編集局──新設されたこの部署には、まだどこか仮設めいた空気が漂っていた。
ホワイトボードには漫画雑誌「コミックバンゴ」の仮レイアウトが貼り出され、資料の山が無造作に積まれたテーブルを囲むように数人の編集者たちが腰を下ろしていた。
中央席で身体をやや斜に構え、無精髭を撫でるのは春原泰蔵。白髪混じりの口元が動くたび、重たげな空気が部屋全体を支配していく。
「……創刊まで、あと一ヶ月半。我々が提示できる“目玉”はあるのか?」
抑えた声に誰もが視線を向ける中、編集者のひとり、瑞沢ムロが立ち上がった。手元のスライドリモコンを操作すると、壁のスクリーンに一枚の資料が映し出される。
「あります。週刊コスモスで打ち切られたあの作品──戸隠キズナ先生の『眼鏡の女の子』。その続編です」
スクリーンには仮のタイトルロゴと、未公開のネームとおぼしきラフ画像が映し出されていた。
一瞬の沈黙のあと、編集者たちの間に微かなざわめきが広がる。中には驚きと警戒をにじませる者もいた。
会議室の隅、上席らしき場所に腰を下ろした年配の男が、低く唸るように口を開いた。
「……スキャンダルの火種じゃないか? “ウチ”の記事が起点になったんだろう。再炎上のリスクは高い」
だが春原は、それすら計算に入れていたように、唇の端を吊り上げる。
「だからこそ“効く”んですよ。“ウチ”が叩いた。なら“ウチ”が拾い上げれば、世間の目は一周回ってくる。これは話題になる」
「……炎上商法ってやつか?」
「いや、“話題作り”です。仕掛けは強いほうがいい。だが──」
春原は間を置いて、瑞沢を一瞥した。「戸隠先生ひとりでは不安が残る。再出発には信頼できる伴走者が必要だ。今、彼女のそばに──」
その瞬間、誰かがぽつりと呟いた。
「エリック・フクハラ……だろ?」
場が静まりかえる。
「文理系どっちも博士号持ちで、十ヶ国語操るって噂の編集者。集談館を辞めたらしいけど、今は戸隠先生と行動を共にしてるって……」
都市伝説めいた人物評が飛び交う。
ざらついた空気の中、編集者たちの目に映るのは、“作品”だけではない。“編集者”そのものの価値すら話題になる、文潮社ならではの企画の匂い。
春原は黙って頷いた。
そして、次の一手を見据えるように、静かに手帳を閉じた。
*
気温はまだ高いが、夕陽が傾くと夏の日射しがやや低く差し込むようになってきたスタジオの窓際。
コーヒーメーカーのポンプが一度軽く唸り、香ばしい湯気を部屋の空気に混ぜ込んでいく。白いカップから立ちのぼる香りは、どこか緊張をほぐす儀式のようでもあった。
戸口が開く。
旅の疲れをまとった戸隠キズナが、一歩、そしてもう一歩と部屋に入ってくる。手首を軽く回し、背筋をぐっと伸ばした彼女の瞳には、まだどこか“本物の戦士”との邂逅の余韻が残っていた。
「……ただいま」
その声に、部屋の空気が小さく動く。
ペンタブのペン先を持ち上げていた湧口マナセが、ぽつりと呟いた。
「あ、帰ってきた」
館山ランが、ふいに振り返る。髪をかきあげながら、気負いのない調子で問いかける。
「どうだった? 九州? おばあさまにも会ってきたんだよね?」
キズナは笑わずに、
「おばあちゃん……だけじゃなかったんだけど」
と答えた。
ソファに座っていたサチハは、そのやりとりを見つめながら、どこか神妙な面持ちで背筋を正している。アツは何か言いかけたが、言葉にならないまま視線を宙に彷徨わせ、おずおずと席に着いた。
そのとき。
フクハラがゆっくりと立ち上がり、手元のクリアファイルから数枚の資料を取り出す。角が揃えられたその紙束を、テーブルの上に丁寧に配っていく。
「――この話、正式に決まったよ」
一呼吸の間を置いて、彼は続けた。
「僕は『コミックバンゴ』の編集に就く。聞いたことがない雑誌だと思うけど、新創刊されるんだ……文潮社から」
沈黙。
音もなく、スタジオの空気が変わる。
誰もが、その一語に反応していた。
“文潮”――あのスキャンダルを暴いた張本人にして、週刊誌界の狂犬とも言われる存在。チームの数人は一瞬、手元の資料を見つめたまま視線を上げられずにいた。
最初に口を開いたのは、盛沼サキだった。冷えた声が、部屋の空気を切り裂くように響く。
「……“週刊文潮”の?」
フクハラは静かに頷く。
その眼差しには、どこか覚悟めいたものが宿っていた。
「そう、“あの”文潮だ。みんなの不信感も理解してる。……SNSでは、批判や抗議の声も出てくるかもしれない。結果的に、スキャンダルを機に“週刊コスモス”から移籍する形になるからね」
サチハが、びくりと肩を揺らす。
コーヒーの香りが、急に遠ざかっていくようだった。
「だけど、一線級の雑誌に短期で復帰できるチャンスは、文潮社にしかない。前にも話したけど、他の大手出版社は科学漫画協会の顔色を伺ってる。今も水面下では様子見が続いてるんだ」
フクハラの声には、静かな説得力があった。
「文潮社は、漫画雑誌を長く続けられたことがない。……つまり、協会とのしがらみがない。その分、自由に描けるんだ。ジャーナリズムとスキャンダリズムの狭間にいる会社だけど、忖度はしない。政府にも大手芸能事務所にも、もちろん協会にもね」
ケンが、にやりと笑った。
「おもしろそうじゃん。カオスの中で描く漫画……燃えるな」
マナセは、黙ってうなずいた。
その眼差しは、どこか遠くを見つめているようでもあった。
「今回のプロジェクトリーダーは春原泰蔵さん。“週刊文潮”の名物編集長だった人だよ。若い頃に漫画雑誌を潰した経験があって、そのリベンジだって燃えてる。『コミックバンゴ』の編集長は瑞沢ムロさん。僕の大学の先輩で、信頼できる人物だ」
そして、最後にフクハラは資料の束に手を添えた。 その指先が、わずかに震えているようにも見えた。
「――創刊号の表紙と巻頭が、確約された。僕たちの作品が、文潮社の挑戦の象徴になる」
重い沈黙が、再び落ちる。
だが。
キズナはゆっくりと、手元の資料に視線を落とし、息を整えるように深く吸い込んだ。
「……やるしかないでしょ。ワタシたちの物語は、まだ終わってないんだから」
*
しばらくして文潮社より『コミックバンゴ』創刊と『眼鏡の女の子』の連載再開との告知があった……
──A:SNSの反応──
青白い画面に、歓声と揶揄が入り混じった文字列が次々流れていく。
> 名無し読者@夜更かし組 00:44
え、あの作家、文潮と組むの? 一周廻って草
こんなんまんま、売名の出来レースじゃん
>中堅アシ@元業界人 00:46
文潮×戸隠って、最悪の掛け算では?
スキャンダル雑誌とスキャンダル作家、お似合いっちゃお似合いだけど。
>通りすがりの炎上観測者 00:49
いやいやいや、あれだけ叩かれたのに戻るの!?
羽田事故で亡くなった人の家族の気持ち考えた?
>名無し@名前は消されました 00:51
文潮ってあれだろ、週刊文潮の文潮?
漫画雑誌前も出して速攻潰れたろ……どうせまたすぐ潰れるわ。
>名無し読者@空白ページの亡霊 01:02
高校卒業する時から友達とずっと読んでた!
続編待ってたけど本当に出るの?
大きな不信不満と、僅かな期待。
夜が更けるほどにタイムラインは、小さな火花が一斉に散るようにざわめいていた。
*
──B:カフェでのキズナとケン──
夕暮れの幹線道路沿いのカフェ。カップの湯気に揺れる二人の表情。
「……やっぱ、無理あるかな」キズナがつぶやく。
ケンは笑ってストローを回す。「“あの時の続き”を待ってる奴、必ずいるよ」
キズナは視線を伏せ、かすかに笑った。「そうだよね……きっと誰かの心に届いているよね」
──C:文潮社・フクハラと春原──
『from:週刊文潮編集長=古谷刻
to :第三編集局長=春原泰蔵
cc :コミックバンゴ編集長=瑞沢ムロ,エリック・フクハラ
件名:週刊文潮今後の方針と野田記者の取材について
お疲れさまです。週文では今後も科学漫画協会と防衛庁・施設庁との癒着、特にYAHO関連を継続取材させますが、以後一切戸隠先生絡みの言及は厳禁と、担当デスクと野田三郎記者に注意喚起しました。ご安心ください』
リニューアルされた会議室だが、壁に貼られたゲラの匂いと、タバコの残り香は未だに漂っている。
メールにチラリと目を点した春原は、分厚い資料を机に叩きつける。
「で、戻ってきた感想は?」
フクハラは目を細め、静かに答える。
「喉が焼けるほどの渇きです」
春原が笑った。
「なら飲め、火薬入りのこの商業誌をな」
短いやり取りの中に、爆発前の熱気がこもっていた。
──D:夜のスタジオ──
窓の外に夜景が滲む。
キズナは机に広げたラフの隅に、新しい衣装の“眼鏡の女の子”を描き足していた。
ペン先が一瞬止まり、心の中でつぶやく。
――待たせたね。描くよ、今度こそ。
蛍光灯の下、その線はまだ震えていたが、確かに未来へ向かって伸びていた。
*
夕暮れの光がスタジオのガラスを鈍く染めていた。 ホワイトボードの前に立つフクハラの声が、静かに、しかしはっきりと響く。
「さて――というわけで、僕達は商業誌という戦場に“帰ってきた”わけだが」
テーブルを囲む面々の反応はさまざまだ。
ケンは腕を組んでにやけ顔。マナセは少年のように目を輝かせており、ランは椅子の背もたれにもたれかかりながらも、どこか落ち着きがない。サキは冷静な表情で腕を組みつつも、口を開きたげに目を細めていた。
「文潮って、やっぱり“炎上マガジン”って評判ですよ?」ランが言うと、
「大丈夫なんですかね……」と、マナセが少し不安げに呟く。
サキが視線をフクハラに投げながら補足する。
「文潮を看板に掲げるわけじゃない。新雑誌『コミックバンゴ』。編集部も別物よ」
「……でも、ブランドがあるぶん、余計に目立つよね」キズナがぽつりとこぼす。
フクハラは口の端を少しだけ上げた。
「だからこそだ。下手に静かにやるより、逆に派手にぶつけて風向きを変える」
そう言って、ホワイトボードにマーカーでタイトルを書く。
『眼鏡の女の子』第1話(新連載)――その文字が、今にも走り出しそうな勢いで白面に刻まれた。
「とはいえ、炎上は事実。過去の印象を塗り替える一発目が必要だ。今回は“破壊と再生”をテーマにいこう。読者の既視感を、線でぶち壊す」
キズナが黙って何枚かの紙をテーブルに並べる。手描きのプロットだ
「……一話完結形式にして、“前作とは違う”って思わせたい」
「でも、“線を引く”って行為は、必ず入れる」
「そして最後に“笑ってる”のは、彼女」
それだけを言うと、キズナは黙り、あとは皆に託すように視線を落とす。
そのとき、端に座っていたサチハが、おずおずと手を挙げた。
「……またあの時の感覚が戻ってきてて、正直怖いです……でも、描かせてください。背景でも、なんでも」
一瞬、空気が止まった。全員が彼女を見つめる。
騒動で一度は筆を置いた少女の、その静かな言葉に、場の温度がわずかに上がった。
「うっしゃー! じゃあオレ、ド派手な武器描きます!」マナセが嬉しそうに拳を握り、
「おいおい、それってもう戦闘回じゃねえか」とケンがツッコむ。
フクハラは満足げに笑う。
「強引なくらいが丁度いいんだ。厚顔無恥、鉄面皮、言ってるやつには言わせてろ。出すぎた杭は打たれない」
モニターが光を帯びる。キズナは無言でタブレットを取り、ペンを握った。
その一筆が画面を走る。静電気のように弾ける“描線”が、まるで眠っていた命を呼び覚ますようにゆっくりと現れる。
心の奥で、声がする。
――炎上しても、バカにされても、それでも私は描きたい。
“世界を救う女の子”を、この線で。
「……Save your peace……」
サチハの誰にも聞こえない小さなつぶやきが、BGMのように漏れた。
*
深夜。蛍光灯の白い光が静まり返ったスタジオに滲み、仄かに冷えた空気が床から立ち上っていた。
壁際の長机、その片隅に、村上サチハは小さくうずくまっていた。手にはスマートフォン。画面はついたまま、彼女の指先の震えを照らしていた。
数時間前、試みに何気なくアップしたラフスケッチが、想像以上の反響を呼んでいた。
> 「このタッチ……“あの事件”の関係者?」
「魂売ったんだよね、文潮に」
「誰が描いたかと思ったら、例の女の子か」
誰の目にも“炎上”とわかる反応。
善意と悪意とが入り混じったそのコメント群は、まるで剃刀のように、サチハの感情を刻んでいた。
「わたしなんかが……絵を描いて上げたせいで……キズナさんまで……」
声は震え、喉の奥でつっかえた。
そのとき――
「……見たよ、あの絵」
不意に、傍らから低い声が落ちてきた。サチハが顔を上げると、アツがそこにいた。
フード付きのパーカーに手を突っ込み、片足を壁に立てかけ、視線はそらしながらも確かな口調でサチハに語りかける。
「すげぇ“線”だったじゃん」
サチハは目を丸くする。
「アツ……」
「……オレもさ、最初怖かったよ。描いたら、笑われる気がしてさ。でも……描かないより、絶対マシだった。描かない人間に、描く人間をバカにする資格なんてねぇよ」
その声は不器用で、たどたどしかった。けれど、芯があった。
アツはサチハのスマホを覗きこむでもなく、ただ天井を見上げて、小さく笑った。
「……オレさ。あの絵、ちょっと……好きだった」
「……へ?」
言われた瞬間、サチハの頬がほんのりと赤らんだ。
怒っているわけでも、照れているわけでもなく、ただ、不意に心が温かくなったようだった。
*
翌朝、スタジオにはメンバーが自然と集まり始めていた。
壁には、各自が描いた“表紙案”が所狭しと貼り出されている。誰かが淹れたコンビニのドリップコーヒーが香り、コピー機の唸りが遠くに響く。
「えへへ、見てこれ!」
ランが自身のラフを指差した。「ピンクとハートで攻めてみた! 『怒ってる女の子』って、可愛いよね!って思ってさ」
「オレのは、文潮砲に対抗する“反撃の論評”だ。タイトルは“線が正義なら、文字も武器だ!” 活字で埋め尽くされた表紙の中央に“Save your peace”だけ筆文字でドン」
ケンが得意げに腕を組むと、マナセが吹き出した。
「……どこが表紙?」
フクハラがそれらを一通り見回し、顎に手を添えた。
「選ぶのは、誰の“叫び”が一番響くか、だな」
サキが一歩前に出る。
「これは……“誰の”?」
皆の目線が、ひときわ異彩を放つ一枚に集中する。
そこには、空に向かって叫ぶ少女の姿があった。両手で眼鏡をかけ、その瞳がまっすぐに何かを見据えている。乱れた髪、荒れた背景。それでも、線は震えながらも確かに“未来”を描いていた。
「……この線。震えてる。なのに──まっすぐだ」
キズナがぽつりと呟く。
フクハラが微笑む。
「それ、サチハちゃんが描いた原案に、僕が少しだけ手を入れたんだ」
マナセが思わず口をつぐんだあと、そっと言った。
「……これ、いい。まさに“Save your peace!”って感じだよ」
*
「“Save your peace”って、本来は戦闘中のリンク用語だったよな」
ケンが呟いた。
「……でも今は、心からそう叫べる気がする」
キズナがそっと目を閉じ、微笑んだ。
「システム用語が、意志の言葉になるのよ。使い方次第で」
サキが背筋を伸ばして言う。
「じゃあ、タイトルはこれでいこう」
フクハラがホワイトボードに書き記す。
『眼鏡の女の子 ―Save your peace!―』
その瞬間、誰かが口火を切った。
「よし、叫ぼうぜ! 前と同じ順番で!」
マナセの掛け声に、皆が顔を見合わせ、笑った。
「エリック!」
「ケン!」
「マナセ!」
「ラン!」
「キズナ!」
「サキ!」
「サチハ!」
「アツ……!」
全員の声が重なった。
「Save your peace!!!」
その一言が、朝のスタジオに響いた。
これは、再起の儀式。かつて失ったものを、もう一度“線”で繋ぐための――新たな始まりだった。
キズナ達の再起の場となったのは、皆さんも何となく現実の出版社を想定できそうな、文潮社。
バンチとビンゴの中間みたいな雑誌名は洒落ですが、今回は線を引くことが叫ぶことと繋がり「Save your peace!」という言葉が、戦闘時の掛け声から、意志の言葉へと再構築されていく――これこそが、このエピソードの核心です。
サチハ、アツ、そしてキズナ……それぞれの“線”が重なる瞬間に、何かを感じていただけたら幸いです。
次回は協会でも動きが____どうぞ引き続きよろしくお願いします。




