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第3話 「帰省」~眼鏡の記憶と祖母の線~

描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。


「眼鏡」で見えないものを捉え、

「ペン」で見たい未来を描いていく。

打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。

それでも——線を描く理由は、まだここにある。


『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動

 前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。

──すっかり日も暮れた有明。


 濃紺の空に、わずかな赤みが無くなる頃、会場周辺の路面はまだそのままの熱を残しているようだった。幾万の熱気が渦巻いたその場所は、今は撤収作業の音と、クルマのエンジン音だけが支配している。


 昨晩から続いた興奮と作業の余韻に浸りつつ、軽くあくびを噛み殺しながら、戸隠キズナは車窓に額を寄せていた。ケンの運転する車は静かにお盆でクルマの減った都内を滑るように走っていく。


 後部座席を取り戻したアツだが、一人先にレインボーブリッジを渡った先の浜松町近辺で下ろされ、「じゃ、また」とひと言だけ残して、都内の自宅に向け帰っていった。


 車内には、眠気と汗と印刷物のインクが微かに混じった匂いが漂っていた。他のメンバーはスタジオか都合の良い最寄り駅近辺で順に降りていった。


 最後に残ったキズナの家は、閑静な住宅街の奥にあった。周辺でも比較的落ち着いた一角。深呼吸すると、空気の中に土と緑の匂いが混じる。


 ケンにしばしの別れを告げ下車すると、玄関をポーチの灯りが優しく照らしていた。ドアを開けると、台所から鍋の蓋をずらす音がした。


「ただいま」


 ぼそりと呟いた声に、母親がエプロン姿で顔を出す。栗色の髪に休日のせいかホンの少し寝癖の跡が残っていた。


「おかえり。お疲れさまでした。……お父さんは……うん、いつも通りよ。仕事が忙しいんだって」


「まあ、いいけど」


 キズナは靴を脱ぎながら、わざと軽い調子で返す。その実、心のどこかで、もう「不在」に慣れすぎている自分に気づいていた。


 母の出してくれたお茶漬けを啜り、シャワーを浴びたら、さすがに疲れが出て、グッスリ眠りについたと思えば、次の瞬間には外はすっかり明るかった。



 翌朝。駅へ向かう歩道の上に、陽射しがきらきらと散っていた。リムジンバスの乗り場は、田園都市線沿線のたまプラーザ。大きなキャリーバッグを転がしながら、キズナと母はバスに乗り込む。


 車内は、出張帰りとおぼしきスーツ姿と、これから旅に出るカジュアルな服装が入り混じっている。エアコンの効いた空間に身を沈め、窓外の街並みをぼんやりと眺めながら、彼女は思考の奥へと沈んでいった。


「またここか……羽田。

 この空間のどこかに、まだ“あの線”が漂っている気がする」


 正月にたった一人で巨大な魔と対峙し、初夏には仲間と並び立って、線の意味を知った場所。


 あの滑走路の向こうに、未だ燃え尽きない影がある気がする。羽田は戦場であり、はじまりの場所だった。


 バスは滑らかに空港のロータリーに入り、キズナは軽やかな足取りでターミナルビルへ向かった。手荷物を預け、手続きを済ませた後、出発ゲートの外にある展望エリアへと足を運ぶ。


 見上げると、空はどこまでも高く、雲が淡く層をなし、朝陽に滲んでいた。飛行機の腹部が滑らかに光を弾き、誘導路に降り立つ瞬間が、まるで巨大な白い鳥の着地のように見えた。


 キズナはゆっくりと目を閉じた。


 胸の奥に、静かに線が引かれていく。まるで、空と記憶と未来を繋ぐような線だ。



 福岡の空は、東京よりもやわらかく、ほんのりと湿気を帯びていた。滑走路を転がるタイヤの振動がじんわりと座席に伝わり、キズナの意識は地上へと引き戻される。


 到着ロビーを抜けると、地下鉄の案内板に沿って階段を下る。手にした紙袋には、手土産のバターサンドが三つ。何故バターサンドだったのだろう?何とは無しにアツの事を思い出しながら、紙袋を持ち直した。


 天神駅で地上に出ると、街の色が変わっていた。ビルの隙間から見える空が低く、風が通り抜けるとアスファルトの匂いが少しだけ甘くなる。西鉄特急で柳川まで乗り継ぎ、さらに各駅停車へ。車窓の外には田んぼと電柱の影が交互に流れ、風景がまるでひとつの線のように伸びていった。


 そして、静かな駅に辿り着いた。


 午後の日差しが斜めに差し込むロータリー。何の変哲もない地方駅前の一角に、クラシックな軽自動車が一台、ぽつんと停まっていた。まるで時間だけがゆっくりと流れているかのようだった。


 その運転席から降りてきた人影。


 白髪交じりの長い髪を後ろでゆるく束ね、明るいベージュのカーディガンを羽織った女性が、静かにこちらへと歩み寄ってくる。


 瞳の奥に光を宿し、鼻筋の先にかけられたのは、古風な丸縁の眼鏡――レンズにはわずかに乱反射する光学特有の揺らぎ。


「……来たのね」


 その声は、土と雨と風の混じったような、懐かしさを含んでいた。


「うん。ようやく、ね」


 キズナは、小さく頷いた。


 

 夕方、祖母の家。畳の上に座ると、足の裏から冷たさがじわりと伝わってきた。窓の外では、風鈴がわずかに音を立てている。

 食卓には、蓮根の煮物、だご汁、炊き立ての麦ごはん。どれも素朴で、目立たないけれど、箸を進めるごとに心の奥をなぞるような温度がある。


 キッチンでは、母が煮物の味を見ていた。キズナと清香は、縁側に並んで腰を下ろす。障子の隙間から夕陽が差し、柱に長い影を落としていた。


「その眼鏡……まだ見えている?」


 清香がぽつりと尋ねた。声は落ち着いていたが、その奥には深い静けさがあった。


「うん。でも……見えすぎる時もある。だから、怖くなるの」


 キズナは視線を落とし、そっと眼鏡のフレームを指先で撫でた。


 それは、清香から託された旧型の眼鏡だった。最新の眼鏡の様に情報が雪崩れ込む訳では無いが、影の中のひかりを捉えるには信頼できる一本。彼女の原点にして、今は唯一の拠り所だった。


 清香はうなずく。


「そうね。線を見るってことは、現実の背中に指を這わせるようなものだから。……その冷たさに耐えるには、覚悟がいるの」


 風が、ふと吹き込んだ。風鈴が澄んだ音を鳴らし、どこかから焚き火のような、遠くで落ち葉が燃える匂いが漂ってきた。


 キズナは目を細め、縁側の柱に額を預けた。


 祖母と自分は、まるで違う時代を生きてきた。それでも、眼鏡を通して見た“線”は、同じ場所へ繋がっている気がした。



 翌朝の空気は、どこか張り詰めていた。


 虫の鳴き声すら遠慮しているような静けさの中、キズナは祖母と並んで、小さな神社へと向かっていた。 


 鳥居の赤が、陽射しの中で柔らかく滲んでいる。苔むした石段を踏むたびに、足裏にわずかな湿り気と温もりが交互に伝わる。木々の間をすり抜ける風が、ゆっくりと髪を揺らした。


 境内の縁に据えられた木製の長椅子に、ふたりは腰を下ろした。日向と日陰の境界にできた木洩れ日が、網目のようにキズナの手元を照らしていた。


「昔はね、描いた線が世界を変えると信じてたの」


 清香はぽつりと呟いた。遠くの空を見つめながら、言葉を手繰るように。


「でも、いつの間にか、“制度”が線を囲ってしまった。

 目に見えるルールの中でしか、線を引けなくなったのよ」


 キズナは黙って耳を傾けていた。


 祖母の声は柔らかいが、その奥には、消せない憂いと確信があった。


 続けるように、清香は膝の上に両手を重ね、指先でそっと円を描く。


「谷保三郎さんと初めて会ったのは、まだわたしが子どもの頃……そう、トキワ荘だった。手塚先生は本当に神様で……石森先生、藤子不二雄のお二人の先生、偉大な師匠達(グレート・マイスター)とその作品が目当てだったけど、やがて私は眼鏡が捉えるひかりと線に惹かれていった」


「東京ではあの頃のトキワ荘が近所だったんだよね?」


 キズナは鯖江での三郎翁との対話を思い出す。


「三郎さんはいつもレンズを削っていた。彼は線の精度じゃなく、光そのものを追っていた。後に四郎さんが電子化を進める一方でも、三郎さんは……どこまでも古い光学式にこだわっていたの」


 言葉の節々に、懐かしさと敬意が織り込まれていた。


「わたしも、そうだったのかもしれない。電子の正確さより、光の揺らぎの中に本質があると、信じたかったのよ」


 キズナは、そっと問いかける。


「……だから、協会を出たの?」


 清香は微笑んだが、その瞳には、長く閉ざされていた記憶の光が宿っていた。


「答え合わせをするには、もう年を取りすぎたわ。でも、線を信じていた時代が、無駄だったとは思っていない」


 風がまた、木々を鳴らした。遠くで、カラスの鳴き声がひとつ。


 しばし沈黙が落ちる。

 清香は懐から封筒を取り出し、それをしばらく見つめてから、小さく息をついた。


「……久しぶりに、花子に手紙を書こうと思うの」


「花子……笹崎会長だよね?」


「線を描く者には、必ず読めるものよ。たとえ、目を背けていてもね」


 その言葉に、キズナは心のどこかがほどけるのを感じた。


 線は、言葉よりも深く、想いを刻む――祖母の世代が信じたことを、自分もまた継いでいるのかもしれない。

 

 帰宅後の和室。清香は文机に向かい、万年筆を手にした。古びた便箋の上に、静かにインクが滲み始める。


「拝啓、花子ちゃんへ――」


 その筆跡は、震えることなく、ゆっくりと、しかし確かな強さを持っていた。

 思い出と、希望と、悔いと、微かな誇りとが、一本の線に封じられていく。

 キズナは、障子の外からその背中を見つめていた。  それは、過去と未来を繋ぐ、継承の儀式のように見えた。



 夜の帳がゆっくりと降りてきた。

 祖母の家のまわりには、街灯も少なく、窓の外に広がるのは、淡い月明かりに照らされた庭と、時おり虫の声が揺れる草むらだった。


 ちゃぶ台を囲み、三人で向き合う食卓。


 湯気を立てる茶碗蒸しの香りが、かすかに柚子の皮の苦みを含みながら鼻をくすぐる。焼きナスに醤油が染み、炊きたての白米が湯気を立てていた。

 室内にはテレビもラジオもなく、箸の音と、誰かの小さな咀嚼音だけが、静かに空間を埋めていた。


「さっきのお散歩、何を話してたの?」


 母が、味噌汁の椀を手に取りながら問いかける。口調は何気ないが、その目にはほんの少しだけ探るような色が混じっていた。


「……んー、古い話。線のこととか」


 キズナは茶碗に視線を落としたまま、口元だけで笑った。


「うふふ、秘密よ」


 清香が隣でふわりと笑う。

 その声音には、孫との会話を大切に思う温度が込められていた。


 母はそれ以上深くは聞かなかった。まるで、最初から“見えない世界”と一線を引いているかのように。


 しばらくして、会話が途切れる。茶碗の音が止まり、食卓に静けさが戻る。


 ……その沈黙の中で、キズナはふと手を止めた。


 箸を握ったまま、周囲に意識を広げる。空気の流れが、どこか不自然だった。風が吹いているわけでもない。虫の声も止んでいない。なのに――


「……今、何か揺れた?」


 キズナの声は、ごく小さく、しかし真っ直ぐに食卓の空気を裂いた。


 清香が、その瞬間、同じ方向へと首を傾ける。


「……風もないのに、空気が揺れてる」


 言葉の通り、それは“振動”というより、“ざわめき”だった。

 耳には届かないのに、皮膚の下で何かが泡立つような奇妙な感覚。

 食器棚のガラスが、わずかにカタリと鳴った。誰も触れていないのに。ちゃぶ台の上の箸置きが、ミリ単位でずれた気がした。

 母が眉をひそめる。


「……地震?」


 誰も答えられなかった。

 キズナは、縁側の方向へ目をやる。障子の外は、月明かりに照らされ、何も変わっていないように見えた。だが、木々の影が、わずかに脈打つように揺れていた。


 鼓膜に残るのは沈黙のまま。だが、心の奥で微細な“ノイズ”が響いていた。


 キズナは小さく息を呑んだ。


 この感覚――戦場で何度か味わった、“魔”の気配に似ていた。


 だが、ここは戦場ではない。

 祖母の家、日常のはずの場所。あたたかい食卓、和やかな時間――その中に、異物のように差し込んできた“何か”。


 清香が、ゆっくりと立ち上がる。音もなく、しかし確かな重みで。


「……少し、気を張っておいた方がいいかもしれないわね」


 その声には、明確な“備え”の響きがあった。

 キズナもまた、静かに頷いた。

 線を引く者たちは、気配の陰を、空気の揺らぎから読み取る。


 “あれ”はまだ遠く、まだ目には見えない。


 けれど、確かに近づいてきていた。



 夜の深みが、家全体を包み込んでいた。

 襖の閉じられた和室には、天井から吊るされた裸電球が一つ、柔らかな橙の光を落としている。灯りの揺らぎはわずかに脈を打ち、風もないのに障子紙が静かに膨らんでは戻る。


 キズナはひとり、畳の上に座っていた。


 前に広げられたのは、白い模造紙。そして、手には一本の筆ペン。


 彼女がいつも使っていた“描線ペン”はもう無い。あの封印の日、眼鏡一式は協会へ返送されて失われたまま。今ここにあるのは、文具店で買った、ありふれた文房具にすぎない。


 だが――キズナの表情は曇っていなかった。


 畳の匂いが鼻をくすぐる。少しだけ肌寒く、足首に布団の端が触れている。外からは虫の音もなく、ただ、時間だけが均等に流れていた。


 キズナはゆっくりと息を吸い、吐く。


 筆先を紙の上に落とす前に、掌を紙の上にそっとかざした。

 その瞬間、わずかに空気が張り詰めた。室内に漂っていた“何か”が、線を待っているような気がした。


 キズナは囁くように、独り言をこぼした。


「……描くよ。何が来ても、守れるように」


 筆が動いた。インクが紙に染みていく。


 その軌跡はまだ未完成の輪郭――だが、そこには確かに“武器”のかたちが浮かび始めていた。


 剣のような、弓のような、否、キズナだけにしか描けない“線の器”。


 力と意志と、恐れと祈りが同居する、その複雑な形。

 彼女の心の奥で、何かが静かに研ぎ澄まされていく。


 描かれた線の中に、ふと、灯りの陰が差し込んだ。

 天井の電球が、ごくわずかに揺れた――ような気がした。

 光と影が交差し、紙の上の線に微かなエフェクトが滲む。


 浮かび上がる“剣の輪郭”。


 まるで現実の境界を越えて、紙の中に眠る“魔”に対峙するかのように。


 空間の中に、かすかな違和感が満ちていた。音はない。風もない。けれど、なにかが静かに蠢いていた。目には見えず、耳には届かない“存在”が、紙の向こうからこちらを覗いているような――そんな気配。


 キズナは手を止めなかった。

 その線が未完成であっても、

 使い慣れた武器が手元になくとも、

 描くことはできる。想像する力が、そこにあるかぎり。


 やがて、最後の一筆が滑らかに紙を走った。


 描かれた線は、月明かりを透かすようにわずかに光り、そして、静かに闇に溶けていった。

 

 その夜、窓の外には星が一つ、雲間にちらりと顔を出していた。

 仄かな予兆を孕んだ空の下で、少女はただ、静かに、備えていた。









『描線眼鏡 または継承の情熱』をお読み頂きありがとうございます。


今回はキズナが半年越しに祖母の待つ九州に帰省し、肉親であり創作者としての先達、荻野清香と向き合う物語です。


魔との戦いではなく、“線を見る”という感覚の継承。

技術や制度ではなく、静かな会話や記憶を通して、受け継がれる想いを描きました。


やがて来る新たな戦いの前に──

小さく深く、確かに揺れ始めたものを、感じ取っていただければ幸いです。

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