第26話 「臨界」~揃いすぎた波形の先で~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
物語は新たな段階へ。創作と戦闘が融け合う様に、現実と仮想の境界も融けていく。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部完結編です。
7月29日の夜、Astationは、昼と夜の区別をとうに失くしていた。
いつものように、ペン先が紙をこする音と、PCのファンの低い唸り。
原稿用紙の山の向こうで、キズナはペン先を止めてあくびをかみ殺した。画面の端で、協会アプリのアイコンが小さく点滅している。
「……また増えてる」
マナセがタブレットを指で払うと、地図が立ち上がった。日本列島の上半分――北海道から東北にかけて、真っ赤なピンがびっしりと刺さっている。関東ブロックだけ、ぽっかりと色が抜けていた。
「北に偏ってるな」
フクハラがネクタイを緩めながら、紙コップのコーヒーを啜る。
「北海道と東北で、SSR級の“状況開始”が連続です。こっちは……今のところゼロ」
サキが淡々と読み上げた。声は平静なのに、目の下にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。
「……ゼロ、か。悪いことじゃないけど」
キズナは、無意識に胸をなでおろしている自分に気づいて、少しだけ眉をひそめた。
サイファーチーム、武内先生、村田アケミ。アプリの別タブには、「北方ブロック出動中」の文字が並んでいる。主力は皆、北に向かったようだ。
「今は、とにかく原稿を終わらせましょう。出動要請が来てから慌てるのが、一番まずいです」
サキの現実的な一言に、全員が小さく頷いた。
ペン先が再び走り出す。キーボードがカタカタと鳴る。
赤いピンで埋まった北の地図と、机の上のコマ割りが、同じモニタの中で並んでいた。
*
翌30日の朝8時過ぎ。
外の光はもう夏の白さで窓を叩いているのに、スタジオの空気は夜の延長みたいに重かった。
その時だった。
テレビをつけっぱなしにしていた隅のモニタから、急に音量だけ一段上擦ったアナウンスが流れた。
『……カムチャツカ半島付近で、大規模な地震が発生しました――』
アツが顔を上げる。
同じタイミングで、協会アプリの通知音が、いつもと違う低さで鳴った。
机の上で、全員の端末が一斉に震える。
「気象庁、津波警報……ですね」
サキがテレビを一瞥し、すぐにタブレットへ視線を戻した。
地図が切り替わる。北の海から、じわじわと青い帯――津波予測のゾーンが広がっていく。その上に、協会アプリ独自のオーバーレイが被さった。
《位相解析モード起動》
《同期パラメータ更新》
「……表示が揃いすぎてます」
サキが小さく息を呑んだ。
ノイズまみれだったはずのグラフが、さっきから妙に整っている。
ギザギザだった波形が、するりと同じリズムを刻み始めていた。
その瞬間、サキの端末に、別のポップアップが被さった。差出人:goro.t-ya◯◯。
〈位相が揃い過ぎている。
美しすぎる波形は、だいたい人を殺す〉
英語で綴られた短い本文の終わりに、その二行だけが日本語で挟まっていた。
サキが読み上げると、スタジオの空気が、ほんの一拍だけ止まる。
静寂の中で、フクハラの人差し指が、Enterキーを一回だけ叩いた。
カチ、と小さな音が、やけに大きく響く。
*
「……見て」
マナセが指さした先で、地図の色が変わった。
北の海を覆っていた青い帯の端――本州側、関東より少し北寄りの沿岸に、小さな三角形のマーカーが浮かび上がる。
カムチャツカ、北海道沖、その延長線上にある、もう一つの点。
「関東ブロック、警戒レベル昇格。……対象エリア、千葉・茨城県太平洋沿岸」
サキの声が、少しだけ掠れる。
しばらくして、アラートも点滅して部屋に低く響く電子音が鳴った。
《Priority Alert/警戒レベル:SR級》
《発生地点:茨城県中部沿岸/ターゲット半径1500m±500m》
《予測時間:+04:30:00±20:00》
そして、そのすぐ下に、見慣れない単語が一つ。
《観測カテゴリ:“核魔”》
キズナは、ペンを置いた。椅子の背もたれがぎし、と鳴る。
胸の内側で、締切と警報が、同じ場所を押し合った。
「SR規模はそれ程でも……“核魔”の観測結果、出てます」
サキが、言葉を選びながら告げる。
誰も冗談を挟まなかった。
フクハラが、紙束をぱたんと閉じる。
「核魔っていうと、かつて東日本大震災の時に福島に現出したって聞いた……」
キズナはゆっくり立ち上がった。
足元の床が、徹夜で鈍った身体の重さを、じわりと返してくる。
「星野師匠、上青石先生、そして河村の叔母さんが相対した核魔……ワタシ達が行くしかないでしょ」
机の上には、まだ描きかけのコマと、未送信の原稿データが残っている。
同じモニタの中で、その隣に、津波予測と「核」の文字が並んでいた。
ペンと眼鏡と警報が、一本の線で強引に結ばれてしまった気がして、キズナは軽く拳を握った。
*
ラッシュの終わった首都高も常磐道も妙に空いていた。
夏の太陽が路面を白く照らし、圏央道とのジャンクション付近では遠くに牛久の大仏像も見える。
デリカの助手席で、キズナはシートベルトの上から防災ベストのジッパーを引き上げた。膝の上には液タブとペンケース。後部座席では、皆がそれぞれ黙ったまま、端末の画面を見つめていた。
「北海道ブロック、津波の第一波観測完了……最大でも数十センチ、か」
タブレットにヘッドセットを繋いだサキが、小さく報告する。
協会の地図上で、北海道と東北の沿岸の真っ赤だった“状況開始”の表示は、順にグレーへと落ちていった。
『拍子抜けだよ。構えてた分、肩がスカスカする』
無線越しの声は、CYPhARのENAのものだった。
『でも、一瞬やらかした。共鳴線、重ねすぎたらさ――』
サキの端末には、さっき届いたログのダイジェストが表示されている。
《同期率:一二〇%超過》
《増幅ベクトル逸脱:警告》
海岸線の一点で、細い光の束が交差し、そこだけ波頭が異様に立ち上がる映像が、数秒だけ再生された。
すぐに引き継いだ別班が、線をずらして収束させたらしい。
「……CYPhARでも共鳴線の制御はできていない……集めるほど危ない。今日は“合わせない”方が正解です」
サキは小さく言い切った。
共鳴線は、強い線を一本に束ねるほど威力が跳ね上がる。だが今みたいに“位相”そのものが歪んでいる時にやれば、魔より先に人間側が焼かれる。
サキの説明は、できるだけ短く、事実だけを並べていた。
ハンドルを握るケンの手の甲の汗が、フロントガラスにキラッと反射して光った。
*
友部で北関東道に乗り換え、海を目指す。高速道路の終端まで着くと既にアラートエリアの圏内に入っており、空気の温度が一段変わった気がした。
コンクリートと潮と油の匂い。防波堤の中を、黄色いヘルメットの列が行き来している。防災無線のスピーカーからは、落ち着いた声で避難勧告と状況説明が繰り返されていた。
その背後、フェンスの向こうに、原子力発電所特有の建物群が小さく覗いていた。
施設直近は、防護と遮蔽で線が乱れ、“見えるはずのもの”が見えなくなる。だから外側の海と空を別レイヤーで観測する。
*
堤防と原発を共に見下ろせる高台の神社の脇に一旦車を停め、海を見る。
視界が一段、静かに切り替わる。
夏の陽射しに白く光る波。防波堤に当たって砕ける、その手前。
現実の海面とは別の層に、薄い黒い膜のようなものが、うっすらとかぶさっている。
「……海の音、違いません?」
アツが隣で呟く。
風の音は同じなのに、波が砕ける瞬間だけ、低い金属音が混ざる気がした。
「北の津波は、もう“観測済み”なんです。問題は――」
サキがタブレットを操作すると、画面上の波形が切り替わった。
北海道・東北沿岸のグラフは、既に山を越え、なだらかな尾を引いている。
かわりに、茨城県沖の一点だけが、妙に尖った線を立ち上げ始めていた。
「こっちです」
サキの指が、その一点を示す。
同期パラメータの数値が、じわじわと上昇していく。
*
次の瞬間、地面の下から、別種の“揺れ”が這い上がってきた。
「揺れてます!」
防災無線のスピーカーと、協会アプリの警報がほぼ同時に鳴った。
〈地震発生 千葉県東方沖〉
〈津波の心配はありません〉
現実世界のテロップはそう告げて、現実の海も変化は無い。
だが、描線眼鏡の中の海は、違う反応を示した。
眼鏡のUIが勝手にモードを切り替えた。
海面の上に、薄く重ねられたグリッド。その上に、物理の波とは別の“線の波”が走る。
白い波頭の上に、もう一つ、黒い波頭が重なった。
まるで波が複合して起こる巨大波のように、ありえない角度で尖った三角形を描きながら、岸に向かって押し寄せてくる。
「来る、二重になってます!」
サキの叫びが響いた。
同時に、協会アプリの画面に新たな表示が躍る。
《対象:SR→UR予測不能》
《観測カテゴリ:“核魔”前駆》
「……了解。全員、リンク準備!」
キズナは深く息を吸い込んだ。
現在の等級ラベルでUR級が現出したのは、ただ一度だけ。東日本大震災の時だ。
胸の奥で、それでも締切のことが一瞬だけ顔を出すが、すぐに押し込んだ。
「展開。――リンク開始!」
「キズナ!」
「エリック!」
「ケン!」
「マナセ!」
「ラン!」
「サキ!」
「サチハ!」
「アツ!」
「「「Save your peace!」」」
全員の声が重なった瞬間、眼鏡のUIの片隅に、数値が跳ねた。
《同期率:87%》
閾値の手前で、ぴたりと止まる。
さっきサイファーが越えかけた、一二〇%のラインまでは、まだ距離がある。
「ここまで。これ以上は“合わせすぎ”だからね」
キズナが言い切った瞬間、黒い潮が動いた。
*
黒い波頭がもう一枚のレイヤーで襲いかかってくる。
描線眼鏡の中で、海が“線”になって唸っている。
「――配置につくよ!」
「フクハラさん、後方で回線と対策本部リンク!」
「了解、現地広報兼通訳ですとも」
「サキは解析。波形と位相、全部こっちに投げて」
「任されました」
「マナセ、ランは正面と上。アツは、私の一歩前」
「斧でぶった切ればいいって事ですね」
「じゃ、私は“当たる前”に落とす」
ランは、何でもないような声で弓を構えた。
最後尾、少し下がった場所に、サチハが小さく手を上げる。
「わ、私は……“ヒーリング”の準備、しておきます」
「うん。それ、大事な仕事だから」
キズナは頷き、深く息を吸い込んだ。
*
第一波は、ほとんど“壁”だった。
海面の上、通常の波頭と同じリズムで立ち上がる、そのすぐ後ろ。
黒い線で縁取られた刃のような水面が、もう一枚、めくれてくる。
「来ます!」
サキの声と同時に、キズナはペン先を振り下ろした。
描線が空中に一本走り、堤防上空の位相面に薄い“面”を作る。
黒い波頭が位相面で減衰して散り、火花のようなノイズを撒き散らして砕けた。
「マナセ、右!」
「はーい、了解っ!」
マナセの斧が、次の波頭を縦に割る。
左上では、ランの矢が三本、違う角度から飛び、波頭と波頭の間を“第三点”で縫い留める。
衝突のタイミングをほんの一瞬ずらすだけで、重なりかけた共鳴が解けていく。
「今の、助かった」
「……こっちも位相面削られてたから」
二人のやり取りは短い。代わりに、矢と斧の軌道が、会話みたいに交差する。
*
「アツくん、前、厚く!」
「分かってます!」
アツは投射距離限界まで線を伸ばし、自分の前だけ少し広めに“盾”を敷いた。
短い剣型の描線を連ねて、低い柵みたいな線の壁を作る。
そこに、刃物の形をした波が叩きつけられた。
「――ッ!」
手首の奥まで、鈍い痺れが走る。
それでも、一歩も退かない。
背中で、キズナが別角度から線を重ねてくるのが分かった。重ねすぎないよう、ほんの少しだけ位相をずらして。
仮想空間の黒い潮は、ただ荒れているわけじゃなかった。
サキの画面では、波ごとに“揃いかけた線”が増えていく。潰しても潰しても、水平線の向こうから次が来る
削っても削っても、向こうの水平線の向こうから、黒い縁取りが新しく立ち上がってくる。
*
黒い潮との押し引きが、どれくらい続いただろうか。
現実に波の音がした。
白い波とは別に、黒い波が、一瞬だけ、綺麗な三角形を描いて立ち上がる。
「……位相、跳ねました」
サキの声が低くなる。
タブレットの画面上で、グラフのラインがきゅっと尖り、その頂点から“別の線”が陸側へ向かって伸びていく。
「ちょ、今の、海から外れましたよね?」
フクハラが眉をひそめる。
サキは頷き、指先でマップを拡大した。
海から、発電所のあるエリアへ向かって、一筋の黒いベクトルが走っている。
黒い潮の一部が、抜け出して、別の場所へ“移動”し始めていた。
「……こっちが、本命だ」
キズナは息を呑んだ。
視界の片隅で、施設周辺の空気が、うっすらと色を変える。
物理的には、何も起きていない。煙突も、冷却塔も、いつも通りの形で立っているはずだ。
それなのに、眼鏡越しには、その中心部にだけ、“炉心に似た黒”が静かに立ち上がりつつあった。
「現場カテゴリ、更新……!」
サキのタブレットに、新しい文字列が浮かぶ。
《対象:UR級“核魔”候補》
《観測優先モードへ移行》
黒い潮は、まだ堤防の外側で暴れ続けている。
だが、その奥で、もっと深く重い何かが、ゆっくりと形を取り始めていた。
「潮は、ここで止める。――でも視線は、あっちも見て」
キズナはペンを握り直し、仲間たちを一人ずつ見た。
「ここから先は、“黒い潮”だけの相手じゃない。
――“核魔”に、触る覚悟で行ける?」
誰も、うなずきも、反論もしなかった。
代わりに、それぞれの手の中のペンが、静かに握り直される音だけが、波の轟音の隙間に、細く、確かに響いた。
*
再度デリカに乗り込み、神社の高台から降り、北に見える発電所に近づけるだけ近づく。
現実に津波が来るかも知れない。
福島では津波後の“核魔”の発生で、現実の原発事故も起きた。
キズナはデリカの助手席でチームの皆に語りかけた。
「……ワタシの叔母、河村先生は福島で現実に帰ってこれなかった。今ここで逃げた方がワタシ達が無事に還れる確率は高いかも知れない」
皆、一瞬押し黙ったが、そこで口火を切ったのはアツだった。
「たとえ逃げたってUR級? そんな強大な“魔”を放っておいたらどんな災難が起きるかわからないじゃないですか! 戦うしか……」
そこまで言って、隣の席の少女を見やって雪の札幌の事を思い起こす。
自分の事を真心を込めて好きと言ってくれた存在。
そして今危険な状況で真っ先に思い浮かべた存在。
サチハを危険に巻き込む覚悟は自分に本当にあるのだろうか?
言い淀んだアツを見て、サチハは優しく微笑んで言った。
「アツ……アツとキズナさんとみんなと……一人じゃない、だからここまで来れた。みんなと一緒に戦う!」
フクハラが続ける。
「アツくんの言うとおり。UR級のしかも“核魔”を排除できなければ、核災害に“繋がる誤作動”が起きうる。戦って少しでも減衰させれば、それだけ災害を押さえられるはずだ」
サキは「完全に同意します。このエリアで対応できるのはワタシ達のチームだけです」と言い、マナセとランは互いを見やりながら強く頷いた。
ケンは「UR級ってウルトラ・レアー? つまり最強って事でしょ。最強に勝ったらオレらが最KIYOUって事で良いんじゃん」と軽口を叩く。
キズナは最後に笑って、それでも自らとチームを引き締める為に言った。
「人間が出来る事には限界がある……現実に津波が防潮堤を越えるか、描線眼鏡が放射線の許容範囲超えを警告したら、即座に撤退。現実の災害対策チームに委ねる……。
それでもワタシ達は最善を尽くしたい。ギリギリ位相が越えるまでは戦い続けよう」
*
国道を北上してから、海に向かって曲がる。かつては常設の展示館もあったせいで、原発近くまで近接できた。
原発は停止していても常に冷却水の循環が必要となる。
“炉心みたいな黒”は、ゆっくりと形を整え始めた。
眼鏡越しにだけ見える、球とも柱ともつかない塊
が、取水口の上空――現実の海面とは、わずかに“ずれた高さ”に浮かんでいる。
現実の海は、さっきと同じリズムで波を打っていた。
だが、位相のレイヤーにだけ、黒い影が重なっている。
「……匂い、変わりましたね」
アツが鼻をひくつかせる。
高台を撫でる風に、潮の匂いとは別の、金属粉みたいな冷たい匂いが混ざった。
「実世界の温度は変化なし……でも、位相側は完全に“沸騰寸前”です」
サキのタブレットには、海側から施設側へ向かって、ギザギザの三角波が幾本もかち合っていた。
黒い塊が、低く鳴った気がした。
音というより、“文面”だった。
――状況開始。
――ログを送信してください。
――統制下へ。
協会アプリの通知そのままの文節が、耳の奥で勝手に再生される。
「……うるさいな」
キズナは舌打ちして、ペン先を握り直した。
「こっちの線まで、勝手に同期させようとしないでよ」
*
黒い潮は、まだ別レイヤーで暴れていた。
現実の堤防の外側、その上空に重なる位相面を、刃の形をした水の線が打ちつけてくる。
マナセが斧を振り下ろし、黒い波頭を両断した瞬間、足元から別種の“熱”がせり上がった。
「っつ……」
マナセが顔をしかめ、片膝をつく。
現実の護岸ブロックは冷たいのに、骨の内側だけ、じりじり炙られるような感覚が広がっていた。
「マナセ!」
「だ、大丈夫……ちょっと茹でられてるだけ……」
強がりの笑いが、少し歪む。
ランが一歩前に出た。
さっきまでマナセが斬っていたラインの“死角”に、矢を一本、滑り込ませる。
黒い波頭が矢じりごと裂け、霧になって散った。
「もう、あんまり無理しないでよ」
「……ごめん、カバーさせちゃった。あとで埋め合わせる」
舌打ち混じりの声とは裏腹に、マナセの目には、悔しさよりも信頼が濃かった。
*
一番分かりやすい“傷”は、アツに来た。
黒い潮の一部が、位相面からこぼれて高台側へ身を乗り出した瞬間。
アツは反射的に前に飛び出し、短い剣型の線をいくつも重ねて盾を作った。
アツの右手から、ペンがぽとりと落ちた。
「……あれ」
自分の指なのに、手袋越しみたいに遠い。
「サチハ! 頼む」
「う、うんっ!」
小さな影が、砂利の上に膝から滑り込んでくる。
サチハは両手でアツの右手を包んだ。
眼鏡の奥、虹彩の縁が淡く光る。
「……固まっちゃった“線”を、一回だけ、ほどいて……」
細いペン先が、空気をかすめる。
目には見えない糸が、アツの前腕に沿って走り、黒い痺れの塊にほつれ目を作っていく。
冷たさが、ゆっくりと解けた。
その代わりに、“支え棒”のような鈍い重さが、骨の奥に一本だけ差し込まれる。
「……どう、大丈夫?」
サチハの声は、さっきより少し細くなっていた。
アツは指を一本ずつ曲げる。
ぎこちないが、ペンを掴むだけの力は戻ってきている。
「戻った。……サチハのおかげだ」
彼は反射的にサチハの手を強く握り直したが、すぐに自分の行動に照れて、サチハの手をそっと押し返そうとした。
サチハは名残惜しかったが、まだ戦いは終わっていない。
「今度休日合わせて、何処かへ連れていって」
「了解!」
アツが答えて互いに持ち場に戻った。
*
そのあいだにも、核魔の“黒”は輪郭を固めていった。
施設の建物をなぞるように四角い影が重なり、その中心だけ、底の見えない穴みたいな黒が凝縮していく。
「……来ます。今度は、こっちに直接」
サキが低く言った瞬間、空気そのものが重くなった。
足が前に出ない。
膝に、透明な手で「待て」と押さえられている感覚。
タブレットの上で、カーソルが一瞬、固まる。
判断が、半拍遅れる。
「サキさん!」
「前衛、三時方向の位相ズレに注意。黒、まとめて突っ込ませようとしてます」
「了解。翻訳すると、“そこに集めるな”ってことですね」
フクハラが即座に言い換える。
「三時方向、避けてバラけろー! 揃ったら向こうの思うツボだってよ!」
その一言で、全員の体が半歩ずつずれた。
サキは小さく息を吐く。
(……やっぱり、この人がいないと、判断が遅れる)
*
「サキ、“鍵”って、結局なに?」
黒い潮をいなしながら、キズナが叫ぶ。
「観測戦仕様の“鍵”は――」
彼女は、最小限だけ言葉を選んだ。
「――線を“揃えない”権限です。ログと描線の位相を、現場判断でずらせるのは、今ここにいる私たちだけ」
「揃えない……」
五郎の言葉が、頭の中で反芻される。
――美しすぎる波形は、だいたい人を殺す。
綺麗に揃った三角波。
共鳴線が完璧に重なったとき、サイファーで起きかけた“事故”。
揃えないことが、守ることになる。
「……分かった」
キズナは視界に、うねる黒と、白い施設を同時に浮かべた。
「全員、中心を外して。三角形、作るよ」
「三角……?」
「共鳴線を“一本の槍”にしない。三つの頂点で囲って、上に逃がす」
彼女は素早く指示を飛ばす。
「マナセ、右前。ラン、左前。私は一歩下がって、底辺」
「三角の頂点、ですね」
「了解。上から“第三点”押さえます」
それぞれの線が散開し、核魔の周囲に、見えない図形が組まれていく。
「アツ」
「はい」
「私の線と重ならない位置に、補助の線を一本だけ」
「……できます」
アツは痺れの残る右手で、短い支え棒みたいな線を、三角形の内側に一本走らせた。
「サチハ」
「は、はい」
「誰かが崩れたら、その線だけ“縫い留める”。全部は背負わない」
「……分かりました」
*
「行くよ」
キズナはペンを突き出した。
一本目の線が、核魔の右側面に刺さる。
マナセの斧と重なりかけて、寸前で位相を外し、右上の頂点を抑える。
左からは、ランの矢が弧を描き、黒い縁をなぞる。
矢軌道が、そのまま二つ目の頂点になった。
三本目の線は、高台から伸びる底辺だ。
二つの頂点を結びながら、わざと少しだけ“ずらして”引く。
黒い核魔の周囲に、開いた三角形が浮かび上がる。
共鳴しそうで、しない。
重なりそうで、重ならない三本の線。
核魔の中心から噴き上がっていた黒い熱が、行き場を失って跳ね回る。
「――上!」
サキの声と同時に、キズナは底辺の一部を、ほんの一瞬だけ切った。
三角形が、真上に向かって口を開ける。
黒いエネルギーが、そこから逃げるように空へと駆け上がった。
海面から、細い黒い柱が立ち上がり、雲の手前で霧散する。
雷にも似て、雷とは違う光が、一瞬だけ雲の裏を照らした。
炉心のような黒は、しばらくそこに踏ん張っていたが――
やがて中心から静かにひび割れ、砂みたいに崩れ落ちていった。
*
波の音のあいだに、静寂が割り込んでくる。
現実側の防災無線が、遅れて状況を読み上げた。
〈先ほどの地震による津波は、現在、大きな被害は確認されておりません〉
〈沿岸部の一部で一時的な放射線量の上昇が観測されましたが、現在は管理されたレベルで推移しています〉
管理されたレベル。
収束。
そういう言葉だけが、画面とスピーカーの向こうで整然と並ぶ。
キズナは眼鏡越しに、施設の白い壁を見た。
肉眼では、ただのコンクリート。
だが描線眼鏡を通すと、その表面には、細い焦げ跡みたいな線が何本も走っている。
地震でも、津波でも、説明できないえぐれ方。
“爪”でも“ひび”でもなく、確かに“線”で削られた痕。
「……消えきってない」
誰にともなく、キズナは呟いた。
それが核魔の残滓なのか、人間側の何かが焼き付いたものなのか。
今ここで答えられる者は、ひとりもいない。
*
夕方。仮設の対策室の一角を貸してもらえた。
折り畳み机の上に、原稿用紙とペンとタブレット。
窓の外では、自衛隊と消防の車両がまだ行き来している。
「……こんな場所で普通に原稿ってのも、どうかと思いますけど」
アツが苦笑する。
「普通じゃないから、いつも通りやるんだよ」
フクハラは椅子の背にもたれ、ノートPCを開いた。
「ここで落としたら、今日ここに来た意味が、ひとつ減りますからね」
「言い方ぁ……」
ケンが小さく突っ込む。
サキは回線チェックをしながら、眼鏡の位置を直した。
「回線、細いですけど……旧式VPNなら、なんとか」
「じゃ、描くしかないね」
キズナはネームを一枚持ち上げた。
さっきまで核魔とやり合っていた手の内側に、まだ微かな痺れが残っている。
それでもペン先を紙に落とした瞬間、その痺れは“線の感触”に変わった。コマの中には、いつも通りの日常を描く。
ペン先が紙を走る音。
インクの匂い。
「……送ります」
サキが、アップロードのボタンをクリックした。
小さな“送信中”の丸が回り、やがて消える。
「入稿、完了。……〆切内です」
「おつかれさま」
フクハラが、ようやく背筋の力を抜いた。
窓の向こうの空は、ニュース特番を組むには少し静かすぎて、
平和と呼ぶには、どこか音が低すぎた。
それでも彼らは、紙の上に線を引き続ける。
消えきらない焦げ跡のことを、胸のどこかで気にしながら。
一本の描線が、今日もページの端から端へと走る。
『描線眼鏡』シリーズ第2部『描線眼鏡 または継承の情熱』を完結としました。
第2部では「共鳴線」「位相」「診断」「試験」…と、“揃うこと”の魅力と危うさを積み重ねてきましたが、最終話ではそれが災厄の引き金になり得る局面へ踏み込みました。
原稿の机と災害の警報。創作と戦闘が同じ画面に並んで融けていく。
本作は科学と芸術、情報と社会、組織と個人など様々な要素を複合的に描いてきましたが、第2部中盤から遂に現実と仮想も区切りもまた融けていきました。
当初設定したセカンドエンドへの到達は、終盤駆け足になってしまい、最終話は約1万文字と読書負荷をかけましたが、この物語にとって必要な過程だったと思っています。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
第2部は完結ですが、物語は続きます。
準備期間を頂いてから次章を描く予定ですが、現状応募中の公募の結果が1月中旬に出るので、それ以降に今後の方針も含めて発表させて頂きたいと思います。
次章第3部では「線」と「現実」の距離がどう変わっていくのか、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。




