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第25話 「波紋」~海の音が変わる前に~

描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。


「眼鏡」で見えないものを捉え、

「ペン」で見たい未来を描いていく。


物語は新たな段階へ。創作と戦闘が融け合う様に、現実と仮想の境界も融けていく。


『描線眼鏡』シリーズ本編第2部

前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。

 その記事に、最初に気づいたのはアツだった。


 朝のスタジオAstation。ペン入れ待ちの原稿が机の端に積まれ、インクとコーヒーの匂いがまだ混ざりきっていない時間。


 アツのスマホが、小さく震えた。

 ニュースアプリの通知。タイトルだけが、やたら長くて騒がしい。


 ──『科学漫画大賞・アニメ化映画化の大人気作品の美人漫画家が光線兵器の開発に従事!? どこまでマンガでどこまで現実?』


 画面を見た瞬間、アツは一度まばたきをした。


「……え?」


 思わず漏れた声に、仕上げ机でネームをめくっていたキズナが顔を上げる。


「どうしたの。朝から“誤字報告”みたいな顔してるよ」


「ニュース……文潮さんの記事っぽいです。栗原先生に協会と、自衛隊と、YAHOと……」


 アツはスマホをキズナに差し出した。


 指先に、うっすらとペンだこが光っている。


 タイトルは派手だが、本文は妙に落ち着いていた。


 協会の沿革、防衛装備庁の共同研究、YAHOの観測システム。そのどれにも“魔”という単語は出てこない。署名付きの記事。やはり野田記者の手によるものだった。


「……“光線兵器”って。まあ、そんなに遠くは無いんだけど……」


 キズナは苦く笑いながら、スクロールする指を一度止める。


 画面を閉じる寸前、アツの視界に、記事末尾の一行が引っかかった。


 ――陰謀は書いていない。


 ――接続だけを書いた。


 まるで、どこかで本人が自分に言い聞かせているような一文だった。



「僕らの事は書かれてないけど、協会には影響ある記事だよね」


 いつの間にか背後に立っていたフクハラが、紙コップ片手に額を押さえた。


「さすが文潮。見出しで煽るよねえ……」


「でも本文は、ちゃんと調べて書いてるよ。 協会と自衛隊とYAHOの“接続”だけ。実際、事実に基づいているよね」


 フクハラはスマホを受け取り、記事の上をざっと目でなぞった。


「これ、結局僕らのことも……」


 アツは、言いかけて口をつぐむ。“蒸し返される”という言葉が喉まで来て、そこで溶けた。


 言葉にした瞬間、何かが現実になってしまう気がしたからだ。



 昼前。協会アプリの通知音が、一斉に鳴った。


 画面の上部に、事務的な文言が並ぶ。


 〈本日付報道について事実関係を確認中です。現場対応に支障はありません。能力者各位は通常通り任務にあたってください〉


「……誰も安心しないタイプの文章だな、これ」


 フクハラがつぶやく。


 整った敬語ほど、温度が無い。


 ほぼ同時に、別の通知が重なった。今度は“協会内共有”のタグ付きだ。


 〈対処ログの同期要件が更新されました〉


 〈状況開始・状況終了、および干渉内容を、対処完了後30分以内に必ず送信してください〉


 〈ログ同期:必須〉


 キズナは、画面の「同意する」のボタンの上で指を止めた。


「……必須、か」


 白い背景の上のたった二文字が、紙の上に描いた線を、誰かのサーバに持っていかれる音に見えた。


 押さなければ、現場に出られない。


 押せば、自分たちの戦いが、“誰かの資料”になる。


 ほんの一拍だけ迷ってから、キズナはため息をひとつ落とし、ボタンを押した。



 そこから、忙しさはゆっくりと、しかし止まらない坂道のように増していった。


 またアラートが鳴り、協会アプリの地図上に、赤いピンが点く。


 川崎の工業地帯で、空気の揺らぎ。鉄骨の隙間を這うような黒い影。


 ペン先が紙から離れた次の瞬間には、スタジオの床の振動が変わる。


 ヤカンの湯気が、現実と仮想の境目みたいに揺れた。



 その日4件目の対魔戦闘を終え、工場の屋根の上で、キズナは息をついた。


 金属と油の匂い。足元には、さっきまで“魔”が擦っていった痕跡が、薄い擦り傷のように残っている。


「状況終了……っと」


 眼鏡越しに見えるUIに、指先で線を引き、報告を送る。


 画面右上で、ログ同期のバーが静かに伸びていく。

 背後で、別の方向に走る気配がした。

 振り返ると、遠くのビル屋上で、淡い光が弧を描いている。


 あの動きは、サイファーチームのものだ。栗原アンナのチームも連日出動続きらしい。


 別の現場から戻ってきていたその列は、互いの距離はあるのに、疲労の重さだけがはっきり伝わってくる。


 去年の合宿で会った10人が、8人に減っていることを、キズナはようやく“実感”として見る。


 そこには、以前確かにあったはずの音が、二つ分、消えていた。



 別の日、湾岸の倉庫街。


 黒い霧を裂くように、長い線が走る。


 武内の筆致だ。遠目にも、ぶれのないストロークが分かる。


 霧の奥で、さらに太い影が暴れる。


 村田アケミの斧の軌道だ。


 二人は言葉も交わさず、ただ“魔”を切り刻んでいた。


 大御所の二人も出動件数が増えているそうだ。戦闘が終わって振り返ったその横顔には、勝利の興奮よりも、消耗した兵士特有の静けさがあった。


 キズナはその背中を、少し離れた歩道橋の上から見ていた。


(……あの特別な師匠スペシャル・マイスターたちが、今、ぜんぜん“描ける顔”してない)


 胸の奥が、ひゅっと冷えた。



 その夜。スタジオの時計は、とっくに日付をまたいでいた。


 机の上の原稿は、インクの匂いより、乾いた紙の匂いが勝っている。


 窓の外では、交通の気配がとうに途絶えていた。


 パソコン画面右下のメールアイコンに、赤い数字が灯っている。


 ──未聴留守電:5件

 ──新着メール:12件


 どれも差出人はバラバラだった。非通知、自治体名、制作会社、見知らぬドメイン。


「……増えてるね」


 モニタを覗き込んだフクハラが、苦笑する。


「今日は、まだ出ません。出たら、全部“仕事”になりますから」


 キズナは力なく笑い、ペンを持ち直した。


 協会アプリは、また小さなアップデート通知を出している。


 〈対処ログの自動同期機能を強化しました〉

 〈状況開始・状況終了時の位置情報を自動取得します〉


 スクロールした先に、小さく「必須」の文字が光っていた。

 “必須”の二文字が重なっていく。



 6月に入ると、協会アプリの通知文の調子が、さらに少しだけ変わった。


 〈現場離脱前に、周辺警戒を一巡してください〉

 〈対処ログの送信前に、状況確認を再度実施してください〉


 連鎖的に増え続ける対魔案件への対応策として理屈は分かる。分かるのに、胸が狭くなる。


「……前より、回り道が増えてない?」


 キズナが画面を睨むと、サキがタブレットを閉じながら肩をすくめた。


「“安全確保の徹底”だそうです。文面上は間違ってませんけど……」


 言いながら、サキは眼鏡のブリッジを押し上げる。

 真面目な彼女でさえ、疲労が嵩み息が浅くなっているのが分かった。


「守るためって言われるとさ、反論しづらいのがずるいよね」


 キズナは、防災バッグのベルトを締め直しながら呟いた。

 守るためのルールなのに、胸のあたりのスペースだけが、じわじわ狭くなっていく。



 立川の広域防災基地は、コンクリートと鉄骨の匂いがする巨大な箱だった。


 6月半ば、遂に緊急出動の為に各漫画家マイスターチームが持ち回りでスクランブル対応の為、常駐が義務付けられる様になっていた。


 ヘリポートからの風と、遠くの高速道路の唸りが、いつも地面の下で鳴っている。


 その一角に、協会の臨時待機スペースが設けられていた。


 出動から戻ったばかりのキズナが水を飲んでいると、向かいの通路でざわりと空気が揺れた。


 CYPhAR――サイファーチームの隊列が、入ってきたのだ。


 今は、八つの影だけが、同じ速度で歩いてくる。

 髪色も身長もバラバラなのに、どこか揃いすぎた足取り。

 だが、かつては規律と団結を示していたその足取りは、疲弊と惰性を現すようになっていた。


 その中に、以前聞き慣れていたはずの笑い声が、二つ分だけ混ざっていない。


(……音が、足りない)


 キズナはそれだけで、誰がいないのか察してしまい、軽く吐き気を覚えた。


 NOAは深夜の拠点でたまたま見かけたが、夜になると眠れず、線を引こうとすると手が止まるようになってしまったそうだ。


 サキが聞いた話ではRINの指先は、ペンを持つと震えが出るようになったとのこと。


 HIBIKIの休養は、延長されホワイトボードの“欠席者”の欄に名前が残っていた。


 それ以上は、誰も口にしない。


 アンナもまた、何も言わない。


 ただ、8人の先頭に立つ栗原アンナの肩だけが、わずかに下がって見えた。



 そのアンナは、別の場所では“持ち上げられて”いた。


 電車の中吊り広告。ニュースサイトの特集欄。


 「アニメ化おめでとうございます!」のハッシュタグ。


 タイムラインには、祝福と一緒に、別の文字も並ぶ。


 〈協会と防衛に利用されてるなら、本人も被害者じゃない?〉

 〈でも疑惑があるなら、ちゃんと説明するべき〉


 スタジオのソファで、キズナはスマホをスクロールする指を一度止めた。


「……どっちも、たぶん本気で言ってるんだろうな」


 応援と不信が同じタイムラインで並んでいる。


 画面の中のアンナは、インタビューで笑っていた。


 「作品への思いを教えてください」とマイクを向けられ、いつもの丁寧な口調で答えている。


 声は明るいのに、視線だけが、カメラのレンズから半歩分横に逃げていた。


 画面の中の笑顔の肩はやっぱり下がっていた。



 6月の終わり、協会アプリにまた一つ、新しい文言が増えた。


 〈現場ログの統制を強化します〉

 〈現場判断による報告フォーマットの省略・変更は、原則として認められません〉


「……“統制”って、こういうところで使うんだ」


 キズナは声に出して読み、舌の上でその語感を転がした。


 戦いの後に線を送る動作が、少しずつ“報告”ではなく“服従”に近づいていく。


 火消しのために撒かれたはずの水は、炎だけじゃなく、胸の中の呼吸まで、少しずつ静かに消していくのだった。



 7月5日の朝は、いやに明るかった。


 通勤電車の吊り広告には、あの予言漫画の単行本表紙がまだ残っている。そのすぐ隣で、小さなニューステロップが流れていた。


 〈本日、予言された“大災難”の日 各地で大きな異常なし〉


 駅構内の大型モニタでは、情報番組の司会者が笑っている。


「いやー、特番スタッフみんな肩透かしですよ」


「杞憂で良かったですよね~」


 画面の向こうの笑い声が、少しだけ上擦って聞こえた。


 コンビニの棚も、妙に色が戻っている。


 まとめ買いされて空白が目立っていたカップ麺の列は、きっちり埋め戻されていた。ペットボトルの水も、いつもの銘柄が“普通の顔”で並んでいる。


(……祝勝セールみたい)


 Astationに向かう道すがら、キズナはビニール袋を持ち直した。背中には、いつもと同じペンケースと、いつもより少し重い違和感。



「本日十九時〇〇分時点、関東ブロックの“状況開始”はゼロ件です」


 スタジオのモニタに、協会アプリのダッシュボードが淡々と数字を並べている。


 マナセが読み上げる声は、いつも通り静かだ。


「ゼロ件って……久しぶりだね」


 アツがソファに沈みながら呟く。徹夜と仮眠が続いていた目の下には、しつこいクマが残っていた。


「喜ぶところなんでしょうけど……」


 サキがタブレットを閉じ、軽く息を吐く。


「昨日まで、毎日四~五回出てたのに、予言当日だけゼロっていうのが……統計的に見ても、むしろ怖いです」


「“たまたま”だって言われたら、それまでなんだけどさ」


 キズナは窓の外を見た。


 空は、夏の手前の白っぽい青。住宅地の隙間を抜ける風が、今日はやけにさらさらしている。


 スマホの画面には、ニュースアプリの通知が次々と積まれていく。


 〈何も起きなかった“大災難”の日〉

 〈専門家「過度な不安は控えて」〉


 けれど胸の奥で、何かが薄い紙の上を指でなぞられるみたいなざらつきを残す。


(起きないのが、いちばん嫌な起き方だ)


 キズナはそう思った。

 “起きた”なら、原因を探せる。“起きなかった”ままなのは、どこに何が潜ったのか分からないということだ。



 7月6日から20日までは、逆に“同じ型”ばかりが続いた。


 薄曇りの団地の踊り場。

 非常階段の踊り場に、小さな裂け目が走っている。

 眼鏡越しにだけ見える、光を吸い込む細い傷。

 描線を打ち込めば、あっけないほど簡単に散る。


 けれど、消えた後に残る壁のえぐれ方は、地震のひび割れとも、人の工具とも違っていた。


 “爪”ではなく、“線”で削られた跡。


 別の日は、商店街のアーケードの天井だった。

 蛍光灯の光が、一列だけ妙に明滅する。

 眼鏡をかけると、その下に細長い“影”が横たわっているのが見えた。


 倒した後、アーケードのパネルには、雨漏りでもないのに一点だけ水滴の跡が残る。触ると、微かに金属臭がした。


 案件自体は軽い。


 一つ一つは、訓練レベルと言われてもおかしくない密度だ。


 それでも、同じような“目に見えない裂け目”だけが、揃って出てくる。


「パターンが綺麗すぎますね……」


 出動ログをつけながら、サキがぽつりと言った。


 協会アプリのマップ画面には、今日も小さなピンが打たれていく。


 点と点を線で結べば、どこか海に向かって引かれていくようにも見えた。



 7月21日。海の日。


 昼過ぎ、スタジオの窓を開けた瞬間、風の匂いが変わった。


 街路樹の葉の匂いに、ほんの一滴だけ、潮の匂いが混ざる。


 海までは距離があるはずなのに、鼻の奥で、波打ち際の湿った空気が一瞬だけ蘇った。


「……今、海っぽくなかった?」


 キズナがそう言うと、ペンを持ったままのアツが首をかしげる。


「え、そうですか? エアコンの風じゃなくて?」


「気のせいなら、それでいいんだけど」


 言いながら、キズナは机の上のタブレットに目を落とした。


 協会アプリの片隅に、小さな波形表示がある。

 今まではノイズに近い揺らぎだったグラフが、一瞬だけ形を変えた。


 ギザギザの線が、ぴん、と尖った三角形に寄る。

 すぐに元の乱れた波に戻る。

 通知も出ない。ログにも何も残らない。


「……今、変な形しなかった?」


 独り言みたいな声に、誰も反応しない。

 見ていたのが、キズナだけだったからだ。

 机の上でスマホが震えた。


 ニュースアプリの速報は、「海の日の各地の賑わい」を明るい絵面で切り取っている。


 砂浜で遊ぶ子どもたち、BBQの煙、青い空。


 画面の中の笑い声と、スタジオの中の静けさが、妙な具合に重なった。


 “何も起きない”という結果だけが、誰かに用意されたみたいに整っていた。



 海の日の連休が過ぎると、テレビはあっさりと“あの予言”から手を離した。


 朝の情報番組は、スタジオのセットをいつもの夏色に塗り替えている。


 〈この夏行きたい花火大会ベスト10〉

 〈海の家・最新グルメ特集〉


 テロップの隅に、かつて貼り付いていた「大災難」の文字はもうない。


「切り替え、早いな……」


 ペンを持ったまま、キズナはモニタを横目で見た。


 Astationの空気は、逆にどんどん重くなっている。

 出動は再度増え、帰れていない。

 ここ一週間、日付が変わる前にスタジオを出られた日がない。


 インクとトーンの粉と、汗の乾いた匂いが、夜の空気に層を作っていた。



「……っ」


 深夜、原稿机の前。


 コマ割りの上にペン先を落とそうとした瞬間、線がほんの少しだけ震えた。


 紙の上に、意図していない“揺れ”が一本、細く残る。

 

「キズナさん?」


 背後からアツの声がした。コーヒーのカップを二つ持っている。


「……描けます?」

 

 自分だって、さっき線を引いたとき、一瞬手が止まったくせに、その問いが空中に浮かんだ。


 キズナは、ペン先を紙から離さずに笑ってみせる。


「描くよ。描かないと、余計に揺れるから」


 言いながら、自分の喉の奥が少し乾いているのに気づく。


 さっきまで戦場で振るっていた“線”の感触が、まだ手の内側に残っていた。


 ソファで仮眠中のケンの腕には、新しい擦り傷が一本増えている。

 ジャケットを椅子に掛けているフクハラの肘は、布地が少し擦り切れていた。


 戦う回数が増えるほど、“描くための手”の方が削られていく。



 数日後、サキのタブレットに新着メールのポップアップが灯った。


 差出人:〈goro.t-ya◯◯〉。

〈位相が揃い過ぎている。

 周期が綺麗すぎる。

 相関が説明できない。

 波形が、海側で“三角”に寄り始めている〉


 短い英文の本文に、日本語の一行だけが添えてあった。


〈一旦、日本に戻る。現場のデータを直接見たい〉


 タブレットの画面が、室内の蛍光灯の白を跳ね返す。

 サキは眼鏡の位置を指先で直しながら、息をひとつゆっくり吐いた。


 キズナが覗き込む。


「谷保博士?」


「……ええ。“分からない”が増えている、そうです」


 返ってきた説明は、それだけだった。


 分からない、という言葉の方が、どんな専門用語より重い。



 7月28日の晩。


 ネームの合間、キズナは何となくニュースサイトを開いた。


 トップページの隅に、小さなライブカメラのサムネイルが並んでいる。


 銚子港、犬吠埼、茨城の海岸線。


 クリックすると、夜の海が音もなく広がった。

 画面の中で、街灯に照らされた防波堤が濡れている。


 風の音を拾うマイクが、低く、地を這うように唸った。


「……音、低くない?」


 小さく漏らした声に、自分で苦笑する。


 スピーカーのボリュームをいじったわけでもない。

 けれど、波が砕ける音の“高さ”が、いつもと違う気がした。


 その瞬間、スタジオの窓ガラスが、かすかに一度だけ鳴った。


 ぴし、と爪で弾いたような、ぎりぎり耳に届くか届かないかの振動。

 机の端に伏せてあったスマホが、短く震える。


 協会アプリの通知音が、ほんのわずかに遅れて鳴った気がした。


 画面を開くと、「観測データ更新」の文字だけが淡々と並んでいる。


 警報ではない。警戒レベルの色も変わっていない。

 それでも、キズナの耳には、海の音と通知音が同じ列に並んで聞こえた。


(……同じ海のはずなのに)


 画面の向こうの波は、ただ寄せては返すだけだ。

 なのに、音だけが先に“別の形”になっていた。



 協会アプリに、ひっそりと更新通知が追加されていた。


〈現場判断による例外措置を廃止し、全事案を協会本部“統制下”で扱います〉


 「統制」二文字だけが、太く見えた。


 同じ日の夜、サキの個人端末の画面に、見慣れた“目”のアイコンが灯る。EMOwatcherだ。


〈観測対象の取り扱いが更新されました〉


 差出人名以外に、人間の名前はどこにもない。

 冷たいシステムメッセージの文体だけが、静かに水面を揺らしていた。


週刊誌の報道をきっかけに現場に「別の匂い」が降りて来ます。魔案件は増え続け、疲労は回復しないまま積み上がり、7/5の「何も起きない」は世間を安心させる一方、現場側にとってはむしろ不自然で――。


派手な出来事よりも、「手順が変わる」「言葉が変わる」「静けさが怖い」といった、日常の側から世界がズレていく回になりました。そして終盤、海の音が“変わる前”の小さな違和感が残ります。


次話はいよいよ第2部最終局面へ。引き続きお付き合いください。

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