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第2話「有明」~夏の夢とペン先の熱」~

描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。


「眼鏡」で見えないものを捉え、

「ペン」で見たい未来を描いていく。

打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。

それでも——線を描く理由は、まだここにある。


『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動

 前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。

 夜風がかすかに揺れる深夜零時。チームは夏コミ当日の搬入に備えて、最後の準備のために深夜のスタジオに集まっていた──。静まり返った住宅街の片隅で、ケンの古びたバンが唸り声をあげる。


 後部ハッチが開け放たれ、その中へ次々と段ボールが積み込まれていく。印刷所から届いた箱には『眼鏡の女の子 サイドストーリー』とスタンプが押され、まるで戦地へ赴く武器のような迫力を帯びていた。


「えっ、まさか……これ全部、持ってくの!?」


 荷台に押し込まれていく什器と備品に圧倒されたアツが声を上げる。常にはアツとサチハの指定席であるデリカの後部座席は跳ね上げられ、大量の器材を飲み込んでいった。


「マナセ、アツ! お前らは始発で来い!」


 ケンがギラリと笑いながら叫ぶ。「夏コミとは戦争だ!!」


 その言葉に、サチハがくすくす笑った。「昔、お姉ちゃんと来たことあるけど、売る側ってやっぱ緊張するね」


 マナセは荷物を担ぎながら、「緊張っていうか、もう修羅場って感じなんだけど……」と呟く。


 そのとき、サキがすっと近づいてきた。「マニュアル改訂版、持ってきたわよ」


 白い表紙に『即売会行動マニュアル・第4.2版』と書かれた謎の冊子──その厚みと気配に、全員が息を飲んだ。


「……地獄の教典かよ」アツが小声で漏らす。



 デリカ組は駐車場の確保の為に一足早く出発。

 マナセとアツは一息入れた後に、駅までの長い道のりをとぼとぼと歩いていった。


 午前四時半。始発電車のホームに、アツとマナセが立っていた。空はまだ青白く、ホームにはちらほらと同じ目的を持つ者たちの姿が並ぶ。巨大な紙袋、キャリーバッグ、スケッチブック──様々な想いを詰め込んだ道具たち。


 田園都市線の始発は大井町行。乗り換え一回でスムーズに国際展示場まで到着するはず……だった。

 しかしアツもマナセも公共交通機関に乗り慣れず、りんかい線乗り換えが地下深くに下る必要がある事に気付かない。


「……これは新橋まで行って、ゆりかもめに乗った方が固いな」とマナセの決断で、京浜東北線で新橋に向かうが、すでに新橋駅は人の波に埋もれ、トイレに行くにも行列、朝食を買おうとしたが売店は既に満員、列に並ぶ気力も失せてゆく。


「おまえらまだ着かないのか! 荷物の積み降ろしも有るんだぞ!」


 携帯からケンの怒声が飛ぶ。


「まあいい。新橋から来るならついでに二つ先の『有明テニスの森』まで来い。駅前のタイムズを確保してある」


 ゆりかもめの車内では、徹夜明けと思しき参加者たちの沈黙と熱気が交錯し、そこに揺られるようにアツは立っていた。手にはサチハの描いたポスター入りの長筒、背負ったリュックにはキズナに託された設営用のA1ボード。汗ばんだシャツが背中に張り付く。冷房は効いているはずなのに、心拍と緊張が体温を押し上げていた。


「はぁ……これが……夏コミ……」


 言葉にした瞬間、湿気混じりの朝が一段と現実味を帯びて押し寄せてくる。


 だが、そんな疲労の影にもかかわらず、ゆりかもめの車窓からビッグサイトが近づくにつれて、どこか別の鼓動が体内に生まれていた。非日常が目の前に広がっていく。


 車窓から見える東京ビッグサイトの逆三角のシルエットが、異世界の門のように見えた。


「なんか……テンション上がってきたかも」


 アツが呟くと、隣でマナセが「わかる」と頷く。足取りは重いままだが、表情はほんの少し、明るくなっていた。


 薄明の空が眠る事の無い東京の輪郭を、蒸し暑さと共に照らしている。


 『東京ビッグサイト』で同じ目的地に向かう人々の多くは。降りて行ったが、搬入口には『有明』の方が近い事を心得ている歴戦組は『有明』で降りる。キャリーケースを引く音、コスプレイヤーたちの笑い声、列整理スタッフのメガホンの声。非日常が、何事もないかのような顔で動いている。その光景に、アツは少しだけ呑まれそうになる。


 『有明テニスの森』まで乗っていく客はさすがにほとんど居なかった。


「マナセン、アツくんお疲れさま! ゆりかもめ大丈夫だった?」


 数時間ぶりに再会したキズナは、Tシャツに黒のアームカバー、斜めがけのショルダーバッグにはサークル通行証が覗いている。視線は前を、意志は未来を見据えていた。


「ま、まあ何とか」


 半ば自分に言い聞かせるようにアツは答えた。


「待ちくたびれた。ここからカート押してビッグサイトまで行くぞ!」

 

 ケンが豪快に笑いながら言う。暑さをものともせず、陽気な声だが、その額にはうっすら汗。既に体力勝負は始まっている。ケン自身がカートと巨大なキャリーと背負子までを用意して待っていたのを見ると、マナセとアツも段ボールとの戦いに身を投じざるを得なかった。


「アツくん、初コミケって顔してるね……アタシも初めての時、似たような顔してたかも」


 ランが微笑む。その笑みには少しの緊張と、もっと大きな優しさが混ざっている。彼女の両手には氷水入りのペットボトルが三本。まだ冷たいその感触を、アツはありがたく受け取った。


 皆が合流し、什器入りのリュックや折り畳みのワゴンを分担する。サキはタブレットを確認しながら、今日の設営手順と配置図を読み上げた。


「東ホール、ブロックE18b。通路側。入場開始前に設営と在庫搬入、完了させること」


「よし、それじゃ行こうか。夏の祭典、始めるよ!」


 キズナの声が、その場の空気を一段高く引き上げた。仲間たちの目が交わり、ひとつ頷く。


 太陽はまだ本気を出していない。だが、彼らの一日——いや、「彼らだけの夏」は、もう始まっていた。



午前八時、有明。

 まだ太陽が本気を出す前の東京ビッグサイト東ホールに、すでに熱気は充満していた。


 ガラガラと床を鳴らしながら転がされるキャリーケース。ダンボールの束。L字スタンドの支柱が無骨な音を立てて組み立てられ、養生テープの切れ端が長机に貼られていく。あちらではつり銭袋の中身を点検する人、こちらではラミネートしたポスターを吊るす人。


 この巨大な建物が、いま、何千何万という“創作の火種”で燃え始めている。


 キズナたちのサークル「STUDIO★K」も、スペース番号E18bに布を敷き、設営を進めていた。

 長机の上に並べられたのは、コピー誌ではない、きちんとオフセットで印刷された『眼鏡の女の子 サイドストーリー』。その表紙には、色彩も視線も張り詰めたような緊張感があった。


 ──それもそのはずだ。

 この表紙は、チーム全員で描いたものだ。


 構図を決めたのはアツ。緊張しながらも、何度もラフを描き直し、最終的に“真っ直ぐこちらを見る少女”という一点にたどり着いた。

 その線を、マナセが力強く塗り上げた。青と赤のコントラスト。背景に散らされたペン先の残像。彼の中で「描きたい感情」が、色として噴き出していた。


 ランは細部の処理に徹した。メタリックな質感の眼鏡、光の入り方、少女の背後に揺れる帯のデザイン──そのどれもが、見る者の眼を捉えて離さなかった。


 そしてキズナが最後に、“目”を入れた。

 その瞬間、絵が息を吹き返したようだった。


「……あたしたちの“眼”を描いた──それがこの一枚」


 キズナの呟きに、誰もが小さくうなずいた。


 周囲の設営も佳境に入る中、隣のサークルから声がかかる。


「……あれ? これって、例の打ち切り漫画の人たち?」


「うん、商業から落ちて同人に来たって噂の──」


 小声だったが、聞こえてしまう距離だった。


 アツは思わず手が止まりかけたが、キズナは軽く肩を叩いて笑った。


「いいの。……今、ここにいるってことが大事なんだから」




 午前中には何人かがポスターを撮影していたくらいで人の波は無かった。


 正午を過ぎた頃、最初の拡散が起こった。


 誰かがポスターをSNSにアップしたのだ。


 徐々に増えたRTの波は、やがて洪水の様な奔流となりSNSに広がっていった。


 《この表紙、天才の仕事では?》


 《『眼鏡の女の子』サイドストーリーが出てた!》


 《同人に来てくれてありがとう案件》


 X(旧Twitter)上で、瞬く間に数百のRTといいねが積み上がる。


 最初は数人だったスペース前の人波が、気づけば通路の端まで伸びていた。


 「これ、絵が良いよね」


 「表紙で惹かれて来た」


 「この装丁でこの値段、即買いでしょ」


 スマホを掲げて写真を撮る人々。

 指差して話し合うカップル。

 買ってすぐに立ち読みし始める少年。


 その光景を見ながら、ケンがぽつりと呟いた。


「……これが、自由に描けるってことなんだよな」


 マナセも続ける


「誰にも忖度せず、誰かに届ける。……やっぱ、これだよ」


 ランは、「2ヶ月前まで『週刊コスモス』の紙面飾ってたんだもん。知名度もあるし、すぐバズる下地があったよね」

 と、冷静に分析する。


「……今は、楽しい」


 キズナの声は静かだった。だが確かに、その言葉には力が宿っていた。



午後一時過ぎ。

 ビッグサイト東ホールの空気は、まるで鍋の蓋を開けたように、蒸気と熱気が渦を巻いていた。


 館内の空調は稼働しているはずだった。だが、この時間帯の人口密度はもはや“人の集まり”というより“生命の塊”に近い。呼気と熱気が壁のように重なり、空気が淀む。


 その中で──キズナは、ふと違和感に立ち止まった。


 視界の隅で、黒い粒子が、ふわりと舞っている。


「……風、ないよね?」


 ポスターがゆらりと揺れた。吊り下げられたそれは、空調の向きとは逆方向に、ふらふらと不規則に踊っていた。


 さらに──その空間だけ、まるで陽炎のように歪んで見える。

 熱が一箇所に集中し、視界がうっすらとぼやけるような──そんな“異常気象のミニチュア”がそこにあった。


 キズナは、ゆっくりと目元に手をやった。

 伊達眼鏡に見せかけた、祖母の眼鏡。古くはあるが科学漫画協会製の特別製「眼鏡」。


 そのレンズ越しに覗いた瞬間、揺らぎが輪郭を持った。


「……これ、“魔”だ」


 低く発せられた声に、近くにいたサチハも足を止めた。

 彼女の瞳も、わずかに揺れている。


「……ちょっと空気、変ですね……?」


 そう──これは小規模な魔性の発生。分類でいえば《危険度=B》。だがこの空間で暴れれば、たとえ一体でも数十人が巻き込まれる可能性がある。


 装備は持ってきていない。描線ペンも、バトル用の眼鏡も。

 だが、手ぶらではない。


 キズナは荷物の中から、講評用に持ってきた模造紙の一枚を引き出す。

 そして、会場で支給されたマジックペンを握り、即座に動いた。


「サチハ、時間稼いで」


「りょ、了解っ!」


 サチハは焦ってつまづきそうになりながらも前に出て、声を張り上げる。


「ライブペイント、はじめまーすっ! “眼鏡の女の子”紙芝居、第一話っ!」


 キズナは模造紙を床に貼り、黒ペンで高速の曲線を描いていく。

 陣形のような、パターンのような図式。

 だがそのすべてが、彼女の記憶と訓練に基づいた結界封鎖線だった。


「第一話! “少女は、虚空に眼を穿つ──!”」


 サチハのアドリブが炸裂する。


 観客が集まり始めた。


 カメラを構える人のざわめき。スマホで動画を撮る子供が結界に近付き過ぎそうになったり、手を叩く親子連れが模造紙の端を破りかけたり、危うい瞬間を掻い潜りながらも、誰もが、これをパフォーマンスだと信じていた。


 だがその傍らで、黒い粒子は、まるで磁場を乱すように暴れ、模造紙の中央へと集まり──そして、ふっと消えた。


「……封鎖、完了──」


 キズナは肩で息をしながら、マジックの蓋を閉めた。

 そのタイミングで、警備員がこちらへやってくる。


「……あまり目立つ行動はご遠慮くださいね。人だかりできちゃうんで」


「あっ、すみません!」


 サチハがぺこりと頭を下げる。キズナも静かに礼を送った。


 ──助かった。


 もし装備が必要なレベルだったら、間違いなく対応は遅れていた。


「……創作の熱が、魔を呼んだのかもしれないね」


 キズナの独白は、誰に向けたでもなく、空に溶けていった。



 そのやり取りを、離れた通路から眺めていた二人の男がいた。


 一人は、フードを目深にかぶった編集者然とした青年。ポケットからスマホを取り出し、何かを記録しているようだった。


 もう一人は、初老の男。ネクタイを緩めた白シャツ姿で、顎に手を添えながら何かを吟味するようにうなずいている。


「……そうか彼女か。こういう現場力を、もう一度信じてみたくなるね」


 男の呟きは、周囲の喧騒に紛れ、誰の耳にも届かない。


 だが、物語の歯車は静かに、確かに、次の段階へと回り始めていた。



 午後四時。

 「完売しましたー!」というアツの声が、拍手とともにスペースを包んだ。


 机の上に積まれていた『眼鏡の女の子 サイドストーリー』は、とうとう一冊も残っていない。

 棚に貼っていたポスターも、最後の購入者に頼まれて譲った。立てかけていたL字スタンドが空になり、どこか誇らしげに揺れている。


 会場全体が、ゆるやかな“終わり”の空気に包まれていた。


 落ち着いたアナウンス。撤収のアナウンス。


 西の窓から差し込むオレンジの陽光が、ホールの床を長く照らしている。


「じゃ、ぼちぼち片付けるか」


 ケンが段ボールを折りたたみながら声をかけ、マナセがペン立てやお釣り箱を詰め始める。ランはタブレットで忘れ物チェックリストを開き、サチハは床に落ちたマステの切れ端を拾っていた。


 キズナはバッグから、アルミホイルに包まれた何かをそっと取り出した。


「お弁当、冷えちゃったけど……皆で食べよっか」


 中には、煮玉子と鶏の照り焼き、甘い卵焼きに色とりどりの野菜の炊き合わせ。

 素朴だけど、手間のかかったその味が、冷たくなった今もなお、どこか懐かしさを伴って口の中に染みてくる。


 アツが一口食べて、呟いた。


「……うまっ……なんか、沁みる」


 笑いが漏れた。皆の表情が、ほんの少しほどける。


 そのとき、印刷所の作業着姿のスタッフが、手を振って近づいてきた。


「どうも、お疲れさまでした! また刷りたくなったらいつでも。あっ、これ名刺──あと、刷り直し割引券もつけときますんで」


 名刺のロゴは、都内の有名な同人印刷会社。

 キズナは驚きながらも、両手でそれを受け取った。


「……本当に、全部がはじめてだったのに……」


「全部やったから、もう作れるってことだな」


 ケンが軽くウィンクする。その直後、


「で、冬コミどうする?」


「却下ー」


 マナセが一拍で返す。会場の終焉に似合わぬ明るさに、また笑いが広がった。


「今は、これでいいっしょ」


 キズナは、空になった机の上に手を置き、ぐっと伸びをした。

 ビッグサイトの外に出ると、陽は傾き、夕焼けが湾岸を茜に染めている。


 ふと、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。


「……おばあちゃんの味、だったな」


 誰にともなく、キズナが呟く。


 おせちの煮物に似ていた。

 かつて正月に祖母と一緒に作った、優しいけれど手を抜かない味。

 九州の、遠い町。

 かつて、この眼鏡を託してくれた場所。


 「そろそろ、会いに行かないとね」


 それは、決意というより、約束だった。


 東京で見つけた“自分たちの創作”という形を胸に、

 誰かの記憶と、過去の自分と、これからを繋ぎに行くための旅。


 ──創作が線を繋ぎ、線が誰かの記憶を呼び戻す。


 そんな静かな予感を残しながら、ビルの影が彼らの背中に落ちていく。


 終わりと、始まりが交錯するその黄昏の中で、

 新しい物語が、そっと幕を上げようとしていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第2部第2話「有明」では、夏のコミックマーケットを舞台に、仲間たちの日常と、そこに潜む不穏な“兆候”を描きました。


有明という場所は、多くの創作者にとって特別な舞台。熱気と興奮の裏側に、物語全体へとつながる影を仕込んでいます。

次回からはキズナが祖母の元へ帰省する“九州編”、ぜひ続きも追いかけていただければ嬉しいです。

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