第19話 「年越」~食卓の温もりと繋がり~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
物語は新たな段階へ。創作と戦闘が融け合う様に、現実と仮想の境界も融けていく。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
玄関を開けた瞬間、廊下の暖気と母さんの味噌鍋のせいだろう、甘い匂いにふわりと触れた。外の白さを連れてきた冷気が、コートの隙間からまだ肩に残っている。
「た、ただいま……」
迎えに出た視線が俺の背後に吸い寄せられた。
「え? アツ、その子……」
「お、お邪魔します! 村上サチハです。いつもアツ……さんと一緒にお世話になっております!」
サチハは深々と頭を下げた。背筋がやたら真っ直ぐで、声も少し大きい。礼儀が先に走って、俺まで居住まいを正した。
「……同期の同僚なんだ。お祖母さんの家が近くなんだって」
母さんは視線をくるりと一回りさせたが、奥の居間の父さんに声をかけた。
「同僚の女の子ですって……。あなた、アツのとこで働いてる子が来てるのよ」
母さんは戸惑ってはいるようだが、台所の灯りへと手招いた。
「まあ中へ、寒かったでしょう」
居間の灯油のストーブは赤く、乾いた熱を足先から染みさせる。父さんは新聞を畳み、俺とサチハを順に見た。
すぐには言葉が出ないみたいに、湯気の向こうで口元を一度だけ結ぶ。
「……へえ」
それがどんな感情だったのかはわからないが、
「雪の時期に二人で移動は大変だったでしょう」
と俺たちの行程を労ってくれた。
目線は俺に向けたまま、言い方だけは妙に柔らかい。
「……たまたま一緒になったのかな? いや、こういうのは縁もあるしね」
サチハが小さく頷くのを見て、父さんはようやく鍋の方へ視線を落とす。
「……仕事は大丈夫か? 無理してないか」
「ちゃんと食べて寝てるの? 若いからって無理してちゃだめよ」
と、母さんが続ける。心配は仕事より、その先の暮らしに向いているようだ。ありがたくもあるが、返事の前に喉が鳴る。
俺が曖昧に笑うと、サチハが慌てて背中を押すみたいに言った。
「だ、大丈夫ですっ。アツさんは……すごく真面目に描いてます!」
弁護してくれるが、斜めの方向に行きそうだ。
やはり確かに像になった本を見せる方が早いだろう。俺は湯気が立つ卓に、鞄から雑誌と単行本を置いた。表紙の眼鏡の少女に二人の目が行く。
「これ、コミックバンゴの巻頭カラー。……このベタ、俺が塗った」
開いた見開きの黒を指でなぞる。
「で、ここの小物はサチハ担当」
「えっ、これ!? 細かいわね」
母さんの声が少し柔らかくなる。父さんも覗き込み、
「……一人で突っ走ってるわけじゃないのは、安心だな」
短い一言が胸に沈んだ。サチハはほっと息を吐いて笑った。
*
ひとしきり会話が進み、箸が伸びる速度も進む。ウチの鍋は鮭がメインの味噌鍋でいわゆる石狩鍋ベースだが、豚肉も入れた我が家流だ。
「アツ……さんって昔から刀の絵描いてた……のですか?」
サチハが聞いてきた。まだ不自然な敬語が抜けてない。
俺が答えるより先に母さんが、
「そういえばこの子、子供の頃から絵も好きだけど、日本刀も好きで、博物館や美術館に連れて行ってって、よくせがんでいたのよ」
こそばゆいが事実なので仕方ない。
「何か、一本の線で形が決まる感じとか、刀が持つ“意志の通り道”みたいなのに惹かれてさ……」
自分でも説明しきれない情熱を、サチハも両親も受け止めてくれた。
鍋を囲んだ食卓はストーブの暖かさと、別種の温もりに包まれ、穏やかな時間の中で俺たちの食欲も満たされていった。
*
食後、窓の外が急に白く霞んだ。街灯の光がにじみ、粒がガラスに当たる。風の唸りが、屋根の上を撫でていく。ちょっと吹雪いてきたようだ。
「この雪じゃ動かない方がいいよ。帰す方が危ないから」
母さんはさらりと言う。サチハは頷き、廊下で電話をかけた。
『今日は職場の同僚の家にお世話になります』
『いいよ、気をつけてね』
祖母の短い返事に、サチハの肩が少し落ちた。きちんと連絡できる子だ、と母さんの目がさらに優しくなるのが分かった。
片付けが終わる頃、家の中は静かだった。俺は勢いで言ってしまう。
「……部屋、見る? ずっと描いてきた絵や、読んできた漫画もあるんだ」
「え、いいの?」
階段を上がり、俺が居た頃からそのままになっている自室に向かう。
女の子を部屋に招き入れた事なんて、小学生の頃以来だが、サチハに俺が何を描き、何を読んで来たか見てもらいたかった。
部屋を開けた瞬間、何処に居てもらうか考えてなかった事に気付き、後悔がよぎったがサチハに言うしか無かった。
「……ご、ごめん。ちょっとそのベッドの所に座ってもらうしか無いと思うんだけど」
サチハは一瞬キョトンとしたが、すぐにプッと吹いて、
「全然気にしないで。むしろアツと時間過ごせるのが嬉しい」
と答えてくれた。
整理出来ない漫画や、大事にしている画集を納めた本棚から、昔描いた日本刀のラフや写真集なんかを引っ張り出す。紙の冷たさが指に懐かしい。
「わ〜やっぱりアツは昔から日本刀なんだね! 今に繋がってるんだ」
幾つかぱらぱらと引っ張り出しているうち、高校の卒業アルバムが滑り出てしまった。
サチハが目ざとく見つける。
「ねえ、良ければ見せてよアルバム。見たい……」
「……わかったよ、……ほら」
無表情の俺を見て、サチハが噴き出す。
「想像通り! この頃のアツ、まじめすぎる」
「笑うなよ」
笑いが落ち着いたころ、サチハが写真から目を離してぽつりと言った。
「……アツのこと、もっと知りたいだけ」
小さいのに、胸には真っ直ぐ刺さる。
「……そっか」
返事が妙に遅れた。サチハは照れたみたいに視線を逸らし、
「じゃ、今日は寝るね。明日、初詣……行けたら」
意外にあっさり引き上げた。
母さんが客間に布団を暖めておいてくれたようだ。
廊下の灯りが障子越しに滲み、吹雪の音が遠い。
俺は自室のベッドに横になりながら、階下のサチハの言葉を耳の奥で思い出していた。
雪の匂いが家の隙間から忍び込んでくる。札幌の年末が、静かに頁をめくっていく。
*
同日の長野。
駅のコンコースを抜けた瞬間、東京とは違う寒さが頬に当たった。乾いた冷気というより、山の底から吹き上げてくるような、芯に触れる冷たさ。
マナセはランの肩にかけたマフラーの端がずれているのを見つけて、さりげなく指で整えた。
「ありがと……」
ランは小さく笑ったが、目はまだ少し泳いでいる。
新幹線のホームから、長野人が誇る“地下鉄”──長野電鉄へ乗り継ぐ。地下に潜る階段の途中で、電車のブレーキの金属臭がふっと鼻に来た。
車内は年末の帰省客でほどよく詰まっていて、コート同士が触れるたびにシャッ、と乾いた音がする。
最寄り駅に着くころ、窓の外はもう真っ暗だった。改札を出ると、駐車場に小さな軽が止まっていて、ライトの輪の中で手を振る女性がいる。
「あ、マナセー!」
母だ。パーマの髪が雪の粒をはね、声だけがやけに明るい。
「その子がランちゃん? 星野先生のところから一緒に移った子だよね?」
「はい、館山ランです。お、お邪魔します!」
ランが勢いよく頭を下げる。母は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「固くならないで。遠いところ、よく来てくれたねぇ」
家に着くと、玄関のたたきにストーブの熱が落ちていて、足裏がほっとほどけた。
父は台所から顔を出し、マナセに視線を合わせる。
「無理してないか」
それだけで十分なくらい心配が滲んでいる。母も、上着を受け取りながらランへ少し眉を寄せた。
「ランちゃんも……あの仕事、するんだよね?」
「は、はい。まだまだですけど」
答えた声が少し細くなる。
居間へ向かう廊下で、ランが下ろしたコートの袖をぎゅっと握った。
「……アタシ、本当に来てよかったのかな。なんか足、地についてない感じする」
マナセは足を止め、窓に映る二人の影を見た。外の雪は静かに降り続いている。
「大丈夫。来てくれて、うれしい」
言葉にすると、自分の胸の奥もあたたかくなる。ランは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに「そっか」と頷いた。
夕食の卓には、湯気の立つ皿が並んでいた。味噌と醤油の匂いに混じって、玉ねぎが焼けた甘い香りが立ち上る。
「玉ねぎだけじゃなくてね、長野の野菜も練り込んだハンバーグ。どう?」
母が大皿を置く。ランは箸を入れた瞬間、目を大きくした。
「え、なにこれ……ふわっふわ。柔らかい! どうやってるの?」
「えへへ、秘密。ランちゃん料理好き?」
「好きっていうか……ウチの先生もそうだけど作れる人、めっちゃ素敵だと思う! アタシも挑戦したい!」
その言い方があまりにまっすぐで、母が声を立てて笑った。
「じゃあ明日、一緒に台所立つ? 年越しの準備、手伝ってもらおうかな」
「やるやる!」
ランの笑い声が、ストーブのぱちぱちいう音に混ざって跳ねる。父の肩からふっと力が抜けたのが分かった。
食後、父が湯呑みを置きながら言った。
「危ない話も聞くけどな……こうして笑ってるなら、応援したい」
母も頷く。
「無事に帰っておいで。それだけだよ」
胸の中の冷たい結び目がほどけていく。マナセは隣のランを見る。ランはまだ頬を赤くしたまま、ハンバーグの皿を名残惜しそうに見つめていた。
──この人なら、きっと大丈夫だ。家の人たちにも、ちゃんと届いた。
窓の外の雪は、音もなく積もっていく。年越しの支度の匂いと笑い声の中で、二人は家族と一緒に、穏やかな年末の夜を迎えた。
*
大晦日の夕方。
横浜の空は早く暗くなっていた。関内の通りを歩くと、街の匂いと年末の揚げ物の匂いが混ざって、胸の奥が少しだけ浮つく。サキはマフラーの端を指で押さえながら、有隣堂の本店へ入った。
初詣の前に、御朱印帳と細々したものを揃えようと決めていたのに、奥に入った美術書のコーナーで、自然と足が止まる。
資料棚の背表紙がずらりと並ぶ静けさは、戦場みたいな年末のスタジオと別の意味で呼吸を整えてくれる場所だった。
西洋美術の評論を一冊抜いて、ぱらぱらと頁をめくる。紙の乾いた音に、見えない線が引かれていくような感覚がある――
そのとき、横の棚で誰かが少し大きく息を吐いた。
顔を上げると、見覚えのある横顔が画集のコーナーにしゃがみ込んでいる。
「……え、フクハラさん?」
思わず声が出た。
「奇遇ですね、年末に」
彼は気まずそうに笑う。手にしていたのは最新号の雑誌と、なぜか昭和の怪獣図鑑だった。
「えっ、何してるんですかここで」
「いや、年末の買い出しついでに。“現場感”が欲しくて」
相変わらず意味が少しだけズレている。けれど、そのズレが今日は不思議と心地いい。
互いに会計を済ませ外に出ると、冷たい風が頬を撫でてチャイムみたいに鳴った。
「ここで会ったのもご縁ですし、食事でも如何ですか?」
予定表の空白は、断る理由をひとつも用意していなかった。
「……はい、フクハラさんが良ければ……」
二人で近くの定食屋に入り、年越し前のささやかなごはんを頼む。少しだけお酒も入り、フクハラはやけに朗らかだった。
箸を動かしながら、サキはふと、あの夜の通信越しの声を思い出す。
「“愛することと信じること”……あの時の話、まだ考えてます」
自分でも驚くくらいまっすぐな言い方になった。
フクハラは一瞬だけ目を丸くして、すぐに口元をゆるめる。
「じゃあ、その続きをしに行きましょうか。……おみくじ引きに」
「……逃げましたね」
「逃げてません。年末に真面目な話ばかりしたら、胃がもたれますから」
呆れたはずなのに、笑いがこぼれた。逃げ方が軽いと、逆に背中を押される時がある。
終夜運転の電車に揺られて鎌倉へ向かう。
窓に映る街の光が流れ、車内は初詣に向かう人のざわめきと年越しの熱気が籠っている。サキは新しい御朱印帳を鞄の中で確かめながら言った。
「初詣は、ここが好きなんです。御朱印も綺麗で。元旦の0時になったら受けられるんですよ」
「分かりました、付き合います」
フクハラはさらりと返す。以前なら“仕事だから”と聞こえた台詞が、今はただの約束みたいに響く。
鶴岡八幡宮の参道は、人の波と屋台の灯りで昼みたいに明るかった。吐く息が白く立ち上り、足元の砂利が踏まれるたびに小さく鳴る。
並んだ列の先で、鈴の音が冬の空に吸い込まれていく。手を合わせたあと、おみくじの小屋へ寄った。
「末吉……現実的ですね」
フクハラが紙を覗き込む。
「悪運が強いってことでは?」
「なるほど。そういう編集なら歓迎です」
「編集って言わないでください」
また笑ってしまう。寒さが頬を刺すのに、胸の内側は少し熱かった。
遠くで年明けの鐘が鳴り、空気が一枚、すっと入れ替わる。
帰り道、フクハラが自然にサキの歩幅に合わせてくるのに気づいた。無言で寄り添う速度。
「寒くないですか」
「平気です。……でも、手袋、片方だけ薄いですね」
「気づかれましたか。今年こそ買い換えようと思ってたんです」
「じゃあ、初売りで探しましょう」
言った瞬間、サキは少しだけ恥ずかしくなって、夜の海の匂いに紛れるように息を吐いた。
まだ恋じゃない。たぶん。けど、相棒という言葉だけでは足りない。まだ名前はつけられない感情が胸に残り、同じ方向へ歩く足音が、年の変わり目の石畳に揃っていた。
*
祖母の家を出たとき、雪は少しおとなしくなっていた。街灯に鈍く光る白の下で、サチハはマフラーの奥に息を閉じ込め、スマホを握り直す。指先が冷たくて、心臓だけが変に熱い。
『アツ、今ひま? 初詣、行こ』
送信してから三秒で後悔が来た。雪を踏むたび、きゅっ、きゅっと乾いた音がして、自分の緊張が足跡になっていくみたいだ。
すぐ返事が返ってくる。
『行く。今出る』
短い文字に胸の奥がふっと軽くなるのに、歩き出す足は妙に重かった。
大通のバスセンターで待ち合わせて、地下鉄に乗り換え円山公園を目指す。アツは、家族には「ちょっと出てくる」と言ってきたらしい。コートの肩に家の匂いが残っている気がする。
「寒いね」
「だいじょぶ。アツこそ着込みすぎ」
いつものタメ口が出るはずなのに、口元がほどけない。アツは気づいたふうもなく、「じゃ、行こ」とだけ言った。
北海道神宮へ向かう参道は、夜なのに薄明るい。雪が光を反射して、道が白い川みたいに伸びている。屋台の甘い匂い、吐く息の白さ。列に混じりながら、サチハはアツとの距離を測っていた。
近すぎると怖くて、離れすぎると心細い。
「こっちは良く来るの?」とアツが問い掛けてくる。
「ううん。……でも小学生の頃なんかは雪まつりに良く来ていたよ」
「札幌って、雪の音がするんだ」
「音?」
「静かなのに、ちゃんと聞こえる感じ」
曖昧な言葉だが暖かさを感じ笑みがこぼれる。
参拝を終え、甘酒の紙コップをふうふう冷ましながら帰る。
人影が薄くなった道で、サチハは足を止めた。街灯の光が降る雪に滲んで、空気がふわっとやわらかい。
「アツ」
呼んだ声が小さくて、もう一度。
「アツのこと、好きだよ」
言葉が空に落ちる。息が白く消えて、時間も一緒に止まったみたいだった。
「……ずっと、言いたかった」
アツの瞳が揺れる。驚きと戸惑いと、何か別の温度。サチハは逃げないと決めて正面から受け止めた。
札幌・長野・首都圏、三つの場所でそれぞれの「帰る場所」と向き合う年末年始回です。
あたたかい食卓や何気ない会話が、離れていた距離や迷いを少しずつほどいていく。みんながそれぞれの“大事な人/場所”に触れていきます。
そして札幌では、雪の夜に言葉が落ちる……。
なお次回で年末年始の恋の帰郷編も終了。第2部も終盤に突入します。




