第14話 「現象」~感情が形を持つ時~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
物語は新たな段階へ。創作と戦闘が融け合う様に、現実と仮想の境界も融けていく。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
湿気を帯びた秋の空気が、窓の外に薄い雲を引いていた。
キズナのスタジオ「A station」の室内は静かで、ペンとキーボードの音だけが空間を満たしている。
室内の空気が、わずかに湿っている。
ペンの音が止むたびに、時間そのものが呼吸をやめたようだった。
その静寂のなか、最初に変調をきたしたのは空調だった。
ふっと送風音が止まり、次の瞬間、ブォンと低い音を立てて再稼働する。設定温度は変えていないはずなのに、室内にわずかな寒気が忍び込んだ。
マナセが、ペンタブレットの液晶を見つめたまま手を止めた。
「……なんか、変な音してないかな」
耳を澄ませると、どこからか電子音とも風の通り道ともつかない“ヒィ……”というノイズが聞こえていた。
ランが眉をひそめる。「風じゃないね。電気……かも」
アツはシャープペンの芯を出し直しながら、描いていた原稿の左下を見つめていた。
芯を出す音が、やけに大きく響いた。
何かを始める音ではなく、何かを誤魔化す音のように思えた。
コマの中の人物の輪郭線が、少しだけ滲んだように見えた気がした。
指先に力を入れても、線が引っかかる。引こうとする意図と、紙の抵抗感がほんのわずかにずれていた。
「最近、線が……乗らないんです」
ぽつりと漏らしたアツの声に、キズナが顔を上げた。
彼女はペンを置き、眼鏡のブリッジを指で押し直して、スタジオ全体を見渡す。
紙の白さが、少しだけ灰色を帯びて見える。
眼鏡を通した現実が、現実でなくなる前触れ。
キズナの目には、世界が一段、現実から乖離しつつあるように感じられた。
数秒の間。誰もが気づいていたのか、気づかぬふりをしていたのか――空間に、薄く緊張が張り詰めていた。
キズナは静かに言った。
「……空気が重たいのよ。少しだけ」
ランがそっとペンを置いた。「これは、“魔”の兆候?」
「警報も来てないし……、そういうのとは別の感じ」
空調は再び停止し、機械音も止んだ。
不意に、室内が“無音”になった。
音がないことが、音として感じられるほどの静けさだった。
アツが紙から目を離し、天井を見上げた。
ペン先が紙をかすめる瞬間、わずかに“ざらっ”とした摩擦感が指に伝わっていた。まるで紙の表面が変質しているかのように。
「線が……見えてないわけじゃない。けど、向こうから見られてる感じがする」
自分でも説明できない感覚だった。
その一言に、キズナの視線がアツの手元へ移る。
誰も言葉を継がなかったが、それぞれの眼鏡の奥で、“何かが世界を震わせている”という、微かな違和感だけが残された。
*
午後三時を少し回った頃だった。
静かな作業音のなか、突然、キズナのスマホと眼鏡が震えた。
ほぼ同時に、サキのタブレットと眼鏡、皆のスマホからも警告音が立ち上がる。
ディスプレイの背景に、赤と黒の帯が交互に走る。
《Priority Alert/警戒レベル:SR級》
《発生地点:相模原市南部/ターゲット半径800m±50m》
《予測時間:+01:20:00±05:00》
キズナは画面を一瞥して、息を吸い込む。
フクハラがその様子を見て、アタマを抱えた。
額の汗を拭いながら、彼は一瞬だけ原稿の山を見た。
“また現実と締切が、同時に来るのかよ”と、半ば本気で呟いた。
「あ~コレって、君たちの……いや僕たちの警報なんだよね。締切日だっていうのに。なんで今……」
フクハラは合宿後に、谷保五郎理事の取り計らいで正式にキズナチームの分析オブザーバーに就いていた。
もう隠す必要こそ無いが、入稿締切の直前に人員を割かねばならない事には得心していない。
「以前もありました」
キズナは即答する。
「もちろん両方やります」
ペンを置いたサキが、机の端から端末に手を伸ばす。
サキは唇を引き結びながら端末を操作していた。
指の動きは正確だが、わずかに震えていた。
すでに原稿はペン入れまで終わっていたが、トーン作業とセリフ打ちがまだ残っていた。
ケンも、軽く首を回してから言った。
「入稿組、こっちに残る。とっとと片付けて追い打ち行こうぜ」
現場へ行くのは、マナセ、ラン、アツ。自然とそう決まった。
マナセがジャケットを羽織りながら、渋い顔をする。
「……運転、ボクですよね」
「ケンさんもサチハちゃんも抜けられないのわかるでしょ」
ランが肩をすくめた。
アツも黙ってうなずき、描線ペンを鞄に収めた。
玄関を出る三人を、キズナが見送る。
「無理はしないで。報告は逐次、アプリの戦術チャットに」
マナセが振り返る。
「そっちも入稿、絶対間に合わせてくださいね」
その声にキズナが小さく頷いた。
*
数十分後。
車両が到着したのは、廃校になったとおぼしき学校の跡地。
夕暮れの空は淡く、朱と灰が混じり合っていたが、そこに立ち込める空気は重く沈んでいた。
夕陽は雲に溶け、光と影の境が曖昧になっていた。風のない空気が、まるで水のように肌にまとわりつく。
マナセはブレーキを踏み込んだ。
ハンドルの感触が冷たい。手袋越しでも、金属の芯が震えているのが伝わった。
敷地の脇に残された体育館が、ゆっくりと揺らいで見える。建物の影が、二重に揺れていた。
「予測時刻より早い……もう出てる」
「観測ログが乱れてる……これは何か界面自体が震えてる感じ」ランが呟く。
アツは眼鏡を押し上げ、目を細めた。
草の間を滑るように、冷気が這っていく。
足裏がざらりと鳴る。アスファルトの粒子が、音のない鼓動のように響いていた。
仮想空間と現実世界――その接続面に、微細な“ノイズ”が走っている様だった。
ここには、何かがもう、現れようとしていた。
*
地面をなぞるように、黒い影が体育館の縁を這っていた。
それは影と呼ぶには濃すぎて、しかし“形”と呼ぶには輪郭を持たなかった。
ぬめるように揺れながら、照明の届かない縁の下を滑り出てくる。
「出てる……!」
マナセが斧を転送し、アツとランが互いに視線を交わす。
眼鏡のレンズ越しに見える“魔”は、明らかに先ほどまでのものとは質を異にしていた。
重なっている。――情報の層が、何枚も。
アツは息を詰め、描線ペンを握ると一閃で日本刀を描き出した。
抜き放つように構え、踏み込む。
一拍遅れて、魔がわずかに身を翻した。
「は――っ!」
鋭い音とともに、刀が魔の“表層”を斬り裂いた。……はずだった。
が、刃は抵抗を失い、空を切ったように肩透かしを食らった。
感触が違う。目と手の間に、透明な壁がある気がした。そのわずかな距離が、世界の歪みそのものだった。
「弾かれた……?」
次の瞬間、ランの放った矢が空気を裂いて飛ぶ。
矢は魔の中心へ向かった――だが、その軌道はなぜかすり抜けた。
命中したはずの位置に、魔の“像”が残っていない。
「虚像が……ずれてる」ランの声に、焦りが滲む。
マナセが一歩前へ出て、大きく振りかぶった。
斧が重たい風を切って振り下ろされる。
斧を振り抜くたび、風圧が跳ね返ってくる。まるで空気そのものが拒絶しているようだった。
鈍い衝撃音。だが手応えはあまりに薄かった。
接触点が芯を外れていた。たった一ミリ。されど、そのわずかなズレが全身に違和感として伝わる。
「なんで……距離感が合わない……!」
ランが冷静に状況を確認する。
「空間自体が歪んでる。魔の“像”が、観測波の外に逃げてるのかも」
「でも、こっちの線は見えてるはず……」アツが呟いた。
その時だった。魔が突然、アツの方へ一歩踏み出す。
反応したのは彼だけだった。ほかの二人は遅れて気づく。距離が、異常な速さで詰まっていた。
「……こいつ、感情で動いてる」アツの声が、凍りつくような静けさの中に落ちた。
怒りが昂ぶると、魔は近づく。恐れを抱くと、わずかに引く。
その挙動が、三人の描線の“揺らぎ”に応じて変化していた。
ランが目を見開く。「まさか、線を見てる……?」
「いや――感情を、感じ取ってるんだ」
魔は今、観測されるだけの存在ではない。
それ自体が、観測者たちの“感情波”に干渉し、軌道を変えている。
情報空間と物質空間、その界面で“揺らいでいる”何かだった。
*
アツは息を整えながら、背中の通信端末に左手を伸ばした。
接続は安定している。キズナへメッセージを打ち込む。
アツ:「キズナさん、今回のヤツ……なんか違います。見えてるのに、当たらない……」
返信はすぐに届いた。
キズナ:「像と実体がズレてる? それ、構造的に二重化されてる可能性がある。パターンB対応、できる?」
マナセ:「やってみます。感覚は来てる、けど重いです……この魔、構造が濃い」
冷たい空気の中で、ふたたび武器を構える三人の足元に、確かな“揺れ”が走った。
*
アツが刀を構え直す。
その視線の先で、魔はふたたび形を変えていた。波のように膨らみ、空気の粒を撫でるように歪めてくる。
――ここでは、線が、届かない。
アツは本能で理解していた。単に見えないのではない。描かれた線そのものが、到達前に“意味”を奪われている。
「……つまり、コイツ、“形”になる前に、意味を奪ってくるってこと?」
呟いた言葉が、耳に残るより早く、ランの矢が飛んだ。
今度は、“線”が重なっていた。
矢の軌道に、不可視の波紋が重なり、走ったのだ。
「いま、見えた……?」
その声に、アツもマナセも気づく。
空間に、一瞬――光の尾のような“描線”が、二重に走ったのだ。
眼鏡越しに、黄橙色の警告サインが弾けるように表示される。システムが、はっきりと“異常”を認識した。
「なんなんだ、これ!」アツが声を上げる。
「でも、今回はサポートAIが反応してる。さっきと違って……観測されてるんだ」
魔の動きが鈍る。観測されることで、定義され、拘束されていく。
その一瞬を、アツは逃さなかった。
「いける――!」
刀を振り抜く。描線が白い光のように放たれ、魔の“コア”へ突き刺さる。
――今度は、確かな手応えがあった。
魔の構造が、一枚ずつ剥がれるように崩れていく。情報の層が解体され、内側からぼろぼろと記憶の断片がこぼれるようだった。
都市の騒音、怒鳴り声、争い、……怒り。
「これ、誰かの感情そのものか……、それかもしかして──」
アツが刀を引くと、残滓のような影がふわりと宙に舞い上がった。
何かが“祓われた”ような静けさが、体育館の脇に戻る。
≪記録終了。“共鳴線”の再現性について仮ログを提出します≫
≪YAHO技官による解析を推奨≫
警告が静かに消える。代わりに、空気がわずかに澄んだように感じられた。
誰も、言葉を発せなかった。
ただ、確かに感じたのだ――「描いた線」が、観測されたという感触を。
光が重なった。
それは三人の“意志”が、一瞬だけ同じ世界線に並んだ証だった。
*
一方その頃、スタジオでは、別の戦いが静かに進んでいた。
ケンはPCに向かい、静かに画像ファイルを圧縮していた。
その隣でサチハが、汗を拭きながら通信ログの送信確認をしている。
「あと0.4MB……。入る、入る……よし!」
サーバーに表示された“Upload Complete”の文字が、何よりの戦果だった。
*
夜が深まったスタジオの空気は、ペンの音すらも吸い込むほどに静かだった。
アツ、マナセ、ランの三人は、まるで息を合わせたように無言のままソファに沈み込み、それぞれの疲労と向き合っていた。
ペンを置いたキズナがようやく立ち上がると、ケンがコンビニ袋から缶コーヒーを取り出し、そっと差し出した。
「入稿、完了だよ」
フクハラは頷き、画面の“SUCCESS”の表示に一瞬だけ微笑みを浮かべた。
その後方――奥の端末席でサキが静かに眉をひそめた。
「……戦闘ログも、見ておいた方が良さそうです」
低く抑えた声。
戦闘データを確認していたサキの目には、通常の戦闘記録には見られない波形の重なりが映っていた。
アツ、マナセ、ラン――三人の描線が、1.2秒間、誤差なく完全に同期していたのだ。まるで一本のペンが三人の手元を通じて描かれたかのように。
「……これって、“共鳴線”……?」
フクハラが椅子を引き寄せ、サキのディスプレイを覗き込む。分析ウィンドウには《同期率:99.997%》《時間幅:1.2sec》《対象:Atsu, Manase, Ran》といった文字列が並んでいた。
「偶然で、済ませていいのかな」
彼の手がわずかに止まった
「規定では、戦闘ログは提出対象です。……迷いますが、上げます」
サキは深く息を吸い、静かにアップロードボタンを押した。
数秒後、協会アプリが自動でログを暗号化・転送し、サーバーへと送信された。
――そして、その数十キロ離れた先。
都下のYAHO R&Dセンター。
黒部はモニタに表示された《再現確認:共鳴線》の通知に目を細めた。
「やったな……、やはり“共鳴線”は“魔”の変化に呼応したものだ……」
かすかに笑みすら浮かべながらも、脳裏をかすめるのは、軍事技官・深水が語っていた「兵器化構想」だった。
「……ま、止められんな。これは“知”として面白すぎる」
黒部はデータを抽出し、タグを添えて深水に転送した。《知的検証用:未発表》《魔交戦ログ有》《共鳴再現・仮定一致》
この通信は、数分後にはYAHO本部幹部の回線を経由し、協会の端末にも届くことになる。
キズナは机に座りながら、なぜか一本の線が脳裏に焼きついて離れなかった。
“魔の実体化”と“共鳴線の再現”――
それは、観測者たちが無意識に引き寄せた、技術と感情が交差する臨界点。
新たな脅威の時代が、静かに輪郭を帯び始めていた。
スタジオの静寂と戦場の混沌が対照的に描かれる中、感情が現象を生み、線が世界を震わせる――“描線眼鏡”の核心に近づく回です。
前話「干渉」に続き、観測と感情、創作と戦闘の境界が曖昧になっていく様を描きました。
科学と軍事の狭間で、共鳴線の分析とそれぞれの“意味”の問い直しが続いて行きます。




