第11話 「共闘」~二本の線が響き合う時~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。
それでも——線を描く理由は、まだここにある。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
夜明けの空が、富士の頂きをゆっくりと照らし始めていた。
12時間を越える夜間演習の終わりに辿り着いた東富士演習場は、微かな硫黄の匂いと霧を含んだ湿った空気がまだ残っていた。芝の露が靴の底をしっとり濡らし、誰もが疲労と達成感を背負いながら、広場の一角へと歩を進めていた。
先にゴール地点へ到着したのは、キズナ達のチームだった。
自衛隊が設置した仮設テントの前で、ケンが広げた折りたたみチェアに体を沈め、ハンドタオルで額を拭いながら、仲間たちを迎え入れる。
「みんなお疲れさま。サキも良く頑張ったな……」
サキは肩で息をしながらも力強く頷いた。
マナセが疲れた笑みを返し、ランは無言で水筒を取り出した。
一方でアツは隣のサチハに視線を送りながら、背筋に冷たいものが走る感覚を振り払えずにいた。
「……なんか、変じゃないかな? さっきから、音の反響が妙に――」
「うん、私も。空気が重いっていうか……嫌な振動、胸にくる感じ」
サチハは腕を抱えながら、空を見上げた。日の光が届いているはずなのに、雲の色が妙に鈍く、灰と藍が混じったような色をしていた。
一足遅れてアンナ達のチームも広場にやってきた。
キズナ達のチームが先着していた事を知ると、微かな動揺がはしった風にも見えたが、アンナ自身が両チームの健闘を称え合うかの様に両手を叩くと、互いにエールを交換し合う空気となった。
その時だった。演習場のゲートから黒い車列が滑り込んできた。
先頭の車から降り立ったのは、協会理事・柚木だった。
整えられた銀髪に、年齢不詳の無表情。
彼は一歩ずつ、砂利を踏みしめながら歩を進め、集まった両チームの前に立つ。
「……皆さん、お疲れ様でした」
その声は穏やかだったが、氷の膜を張ったように張りつめていた。
拍手も笑顔もない。ただ、厳粛というよりは“演技的な静寂”が辺りを支配していた。
「夜間演習のデータは、すでにYAHO技術班が回収しています。総合的な評価は、栗原アンナ隊の行動が最も理想的であったと報告されています」
表情を変えずそう告げると、背後のベテランめいた技官が頷く。
わずかな間を置き、キズナに告げる。
「実戦経験に加え、何か進行形で制作活動との両立とか……あなたには過剰な負担ではないかと、正直思っていました。ですが――」
言葉を切った柚木の目が、わずかに細められる。
「その情熱と責任感は、今後の“選定”においても評価に値します」
キズナは何も答えなかったが無言で一礼した。
一方、アンナはCYPhARの技術チームに囲まれたまま、やや緊張した面持ちで柚木の前に立った。制服の裾を正し、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。私たちも、まだ課題は多くありますが、チーム全体で改善を――」
緊張している時の早口は何時もの事だが、その声がややかすれていたのを、キズナは聞き逃さなかった。
演習の疲労だけではない。他の何かが……。
ふと、濃い目のサングラスをしたYAHOの若手の技官が携帯型のセンサーを眺めながら、眉をひそめた。
小さく、けれど明確に“異常波形”の点滅が表示されていた。
何だろうか?
強い疑念は持ったが、協会の幹部の居る席で、上司に差し出がましい真似はできないと、それを即座にポケットに戻した。
空が、再び少しだけ暗くなった。
風の流れが変わり、冷たい気配が皮膚を撫でていく。
*
行軍の開始時と同様に行われる柚木の訓示の最中にそれは起こった。
朝の光がようやく演習場を満たし、霧の向こうでヘリの影が遠ざかっていく。柚木理事の声は、冷たく均一な抑揚で響いていた。
「――この訓練で得た成果を、各員は今後の対魔活動に反映するように。技術者班は――」
最初に反応したのはサチハだった。
「……来る」
小さな声。だが確信に満ちていた。
その時一瞬、背景の音が消えた。
しかし、すぐに低い振動音が地面の下から這い上がってきた。
次に、皆の眼鏡が微かに震えたかと思うと、タブレットやスマートフォンが同時に、けたたましい音を鳴らしながら鳴動する。
〈協会アプリ〉のインターフェースが赤く点滅し、スクリーンに緊急アラートが走る。
「警告:危険度=SR」
「ターゲットレンジ=300m±20m」
「方角=北西」
「予測時間=+00:03:00±00:40」
「嘘……アラート? でも、予報も出て無いのに……!」
マナセがスマホを見つめて息をのむ。アツも画面を覗き込み、顔をしかめた。
眼鏡のフレームがさらに強く震える。振動はまるで、何かが“空間を叩いている”ような、低い脈動を伴っていた。
「おい、これも演習の一部か?」
柚木が眉をひそめ、YAHOの技官へと視線を向ける。
しかし、技官の顔は蒼白だった。手元の解析タブレットに表示された波形を見つめ、言葉を失っている。
「い、いえ……これは――演習には含まれていません! 想定外の波形です!」
その報告を境に、空が“ひっくり返った”。
雲の色が黒ずみ、富士の斜面から生温い風が吹き上がる。
――バチン。
空気が裂け、乾いた静電音が一帯を包んだ。直後、冷たい雹が叩きつけるように降り始めた。
白い氷塊が地面を叩き、テントを突き破り、鉄製のパイプを打ち鳴らす。
雷鳴が尾を引き、耳鳴りのような低音が残る。
「富士山東側斜面に火山性微動を観測! 小規模な噴煙、確認されました!」
遠方のスピーカーが警報を鳴らす。
柚木が声を張り上げた。
「どういう事だ、これは――」だが、その声は風にかき消される。
サキの端末に、アプリの警報が新たに表示された。
――【対象:非シミュレーション領域】/【戦闘想定:無効】/【識別不能存在反応】
AIが、状況を理解できていない。
柚木が唇を噛みしめ、傍らのベテラン技官へと詰め寄る。
「これは何だ? 仮想空間上の事じゃないのか?」
「違います……! これは……何かしらが、現実の位相に“侵入”しています!」
言葉の意味を誰も飲み込めないまま、風が吹き荒れた。
地表の砂利が舞い、眼鏡をかけた者たちだけに――黒い、塊のような“影”が見えた。
「……演習、じゃない。実戦だ。」
キズナの声が、風の音に混じって響いた。
彼女は眼鏡の奥の光を強め、描線ペンを握りしめる。
その動きを追うように、アンナが一歩前へ出た。
「一緒にやろう。放っておけば、ここ全部が飲まれる」
二人の間に、迷いはなかった。
背後で柚木が何事か叫び、技官たちがデータを取り続ける。
だが――もう誰も、これを“訓練”とは呼べなかった。
*
朝の露にしては冷たすぎる水気。ひょうの残滓と、どこか焦げたような空気の匂いが混じる。
眼鏡の奥で、世界の輪郭が変わっていた。
“魔”――黒く渦巻く靄のような存在が、現実と仮想の境界を食み崩すように広がっている。
「来るわよ……!」
キズナの叫びにアツが呼応し、稜線を駆け下る。
躊躇はなかった。腰の描線ペンに手を伸ばし、刹那、仮想の空間に白銀の刀身を転送。一本の日本刀が空間に閃き、その手でしっかりと柄を握って吶喊した。
「突撃、マジかよ……!」ケンの絶句を背に、風を切る音が肌を裂いた。
そのすぐ背後から、マナセが斧を実体化する。黒と赤の配色が禍々しく反射し、彼は低く構え、斜面を滑り降りるように跳んだ。
「ラン、サキ、援護っ!」
キズナの声が飛び、スタジオ組がそれぞれの描線ペンを起動する。ランは細く屈曲した弓を、サキは支援火器を生成、仮想空間に幻出させる。
CYPhARのメンバーも慌てて、それぞれの武器の転送を開始した。
その時だ。
空が、軋んだ。
重い低音と共に、演習地帯の上空が黒雲に覆われる。気圧が急降下し、耳鳴りが空気を支配する。地面がわずかに鳴動し、どこか遠くでゴロゴロと、雷とは似て非なる音が響いた。
「……これ、演習用のエフェクトじゃねぇな」
マナセが低く唸り、すぐ横を駆け抜けたアツが頷きもせずに答えた。
「斬れるものを斬る。それだけです」
視界の先に、霧のような歪みが立ち上がっていた。輪郭が曖昧で、だが確かに“そこにある”という圧迫感を伴う存在。
魔──。
それは仮想空間の歪みに溜まり続けた負の波形が臨界を越え、現実に滲み出ようとする兆しだった。眼鏡越しに観測すれば、その中心から触手のような構造体が蠢いているのが見えた。
「マナセ! 右から展開して!」
「おう!」
「サキ、上空からスキャン! ラン、連射じゃなく狙い撃ちで!」
キズナの指示が、チーム全体に伝播する。彼女自身もペンを起動し、細身のレイピア型武器を仮想空間に描き出した。
一方、アンナチームも同様に戦闘態勢を取っていた。初動こそキズナ達に遅れたが、ナナがキズナと同じレイピアを選択し、ユア・カナの前衛が脇を固めて、リンとジュンがサッと後衛に入りフォーメーションを固める。
ノア・カノンら支援班は端末に飛び付き、戦闘班にデータを送り出す。彼女達の普段の訓練が伺える精度だった。
そして、火蓋が切られる。
アツの一撃が魔の外殻に届き、鋼のような音が耳に跳ね返る。次の瞬間にはマナセの斧が重力を纏って斜めに振り下ろされ、霧状の外殻が切り裂かれる。
「効いてる……! いける!」
叫びながらも、アツの目はまだ次の動きを読んでいた。風が渦巻く。視界が歪む。
まるで、世界そのものが何かの中心に引き寄せられていくかのようだった──。
*
戦況を観測していたキズナだが、その刹那視界が軋むように揺れる。
「まだ……終わってない!」
アツの斬撃が切り開いた霧の裂け目から、再び“魔”の触手が現れた。まるで怒り狂った獣のように空間を貫く黒い枝が、地を穿ち、建物の幻影を粉砕する。
その背後から、マナセの斧が振り下ろされ、サキの射撃がほぼ同時に追い打ちをかける。ランの弓が空を裂いて連射され、崩れゆく魔の構造を分断していった。
「……だが、核が残ってる」
キズナは、魔の中心で渦巻く異常密度領域に視線を固定した。眼鏡越しの視界に、座標と質量グラフが錯乱的に流れ込む。
そのとき、稜線の対角線上に、同じ座標を睨んでいたもう一人がいた。
アンナ。
彼女もまた、空間のわずかな歪みを捉え、描線ペンを構えた。キズナと同時に。
──右手が走る。
キズナの線は、まるで毛細血管のように繊細に対象をなぞり、アンナの線は迷いなく、強圧で断ち切る
黒の中に白が刻まれ、光の尾を引く二本の線が、空間に奔った。
その瞬間だった。
描線同士が交差し、共鳴した。
「……っ!?」
キズナの腕が震える。描線の先端が、アンナの描いた軌道に吸い寄せられるように逸れた。
「なに……これ……」
アンナもまた、予期せぬ反応に目を見張る。
空間に描かれた線は、干渉し、融合し、異なる色彩の光を帯びて螺旋状に変質していった。それはまるで、一つの意思を持ったかのように――
魔の核へ、突き刺さった。
閃光。
時間が歪む。
風が逆流し、空気が一瞬、真空めいた静寂に包まれた。
直後──
爆ぜるような衝撃音と共に、魔は崩れた。
残響の中で、瓦礫のように舞う霧の残滓が空へ還っていく。視界の中央には、まだペンを構えたままのキズナとアンナが、それぞれの立ち位置で静止していた。
静寂が戻る。
雲が割れ、光が射す。
「……状況、終了……している?」
YAHOのベテラン技官深水拓真が、傍らの端末を操作しながら小さく呟いた。演習場の上空を巡回する観測ドローンからのフィードが再び安定し、仮想空間データと重ね合わせた表示に切り替わる。
データパネルを見つめた彼は、身じろぎ一つせず、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしていた。
「……共鳴? 二本の線が……干渉している……だと?」
息を詰めるような声が漏れる。技術者としての常識が崩れる音が、確かにした。
指先が震える。彼の端末には、《Link強度異常上昇/干渉モード:非定義》というエラーコードが踊っていた。
「これは……演習では無い。それどころか描線の実空間への現実干渉?……完全に想定外だ……」
一方でいち早く“異常波形”の点滅に気付いていた若手黒部リョウは、
「すごい……データが……重力波と情報位相が、同時に共鳴してる……!」
と、目を輝かせたままキーボードを叩き続けた。
「深水さん、これ……再現できれば、人為的な多層干渉線の生成も……」
その背後で、深水がわずかに肩を震わせるのに気づいていない。
そんなやり取りも知らずに、キズナとアンナは視線を交わす。互いに言葉はなかった。ただ、わずかに頷く。
互いの線が、共に世界を縫おうとしている証――想像力の共鳴だった。
*
空が、静かだった。
あれほど激しく揺れていた風も止み、演習区域の空には秋特有の薄い雲が流れている。
“魔”の気配はすでに消え去り、天候も急速に回復へと向かっていた。
斜面の上部、地形的に演習場外縁に近い場所に設置された簡易観測台。
そこに、ゆっくりと双眼鏡を外した一人の男が居た。
野田三郎。フリーの立場ながら、週刊文潮の名を背負って協会とキズナを追い続けてきた記者だ。
東富士演習場内の生活圏道路の抜け道をすり抜け、警備の目も盗んでここまで来た。
「理事が自衛隊の演習場に入る事を嗅ぎ付けてここに辿り着いたが、ここでまた逢えるとはな。戸隠キズナ……」
双眼鏡の先には、キズナと並び栗原アンナの姿も映っていた。
「……これは使える」
彼は呟いた。
険しい眼差しを空へ向け、眼鏡越しに虚空を見据えるその姿に、冷徹で規格化された美が宿っていた。
「戸隠キズナは今は身内らしいが……、お前は違うぞ栗原アンナ」
野田はすでに原稿の冒頭を頭の中で組み上げていた。
“科学漫画家による軍事演習”、あるいは、“眼鏡を使った危険行為の実態”という書き出しも悪くない。
彼は、知っていた。
文潮がそして大衆が欲しているのは“真実”ではない。
求められているのは“読者が望む構図”と“敵役”であり、それが金を生む。
──真実は、誰かにとって都合が悪いときほど、甘く輝く。
彼の視線の先で、ふたりの少女が一礼を交わしていた。
キズナとアンナ。距離を取ったまま、言葉なく、しかし確かに“通じ合った”一礼。
(ああ、こういうのが……一番“映える”んだが戸隠キズナを使えないのが残念だ)
野田は口元を歪めた。
“真実”はそれを理解できる者だけに、伝えられさえすれば良い。
その伝え方は……また別にある。そんな事を考えながら、野田はメモ帳を懐に納めた
*
観測台から離れた技術班のバンの脇では、また、別の会話が交わされていた。
YAHOのベテラン技官深水拓真が、柚木理事に向き直り、アプリのAIログを転送した端末を手渡しながら、小声で報告する。
「……想定外の反応でした。あの“共鳴線”、構造が完全に未知です」
柚木は一度だけ頷いた。
「何かの収穫になるかもしれない。ただ……問題は別にある」
深水が眉をひそめる。
「……と、申しますと?」
「この“異常事態”の背後にあるのは、能力者たちの想像力だ」
彼は演習区域の中心部、すでに魔が鎮まった斜面の方を振り返った。
「いかに技術で補強しても、結局のところ制御不能なのは彼ら自身。漫画家たちの“創造性”だ。
我々が扱っているのは、爆薬ではなく……“意思”と“想像”なのだからな……漫画家たちに、我々が選んだ“筋書き”を守らせる手段を考えねばな」
その言葉には、皮肉でも悲観でもなんでもなく、ただの冷然とした現実認識が滲んでいた。
協会のシステム、YAHOの技術、政府の規律――それらすべてを、彼は“現場”でねじ伏せてきた者の目で見つめている。
「制御するのではなく、誰を“選ぶ”のか……だよ。
想像力に国家を委ねるならば、その線引きは我々が行うしかない」
深水は何も返せなかった。
目の前にあるタブレットでは、いまだアプリのAIが“共鳴線”のデータ解析に難航している。
それは、かつて誰も引いたことのない線。
常識と制度の“外”から、無意識に伸びてきた線だ。
その夜、YAHOのクラウドには、奇妙な名前のデータログが自動生成されていた。
【ファイル名:共鳴構造_XKZ-CRN_0924】
夜間行軍の終わりに訪れたのは、誰も予想しなかった“実戦”でした。
キズナとアンナ、二つの線が交差し、世界が一瞬だけ軋む──。
協会アプリの警報、柚木理事の訓示、そしてYAHOの技官たちの驚愕。
それぞれの視点が交錯する、合宿編のクライマックスです。
どうぞ、彼女たちの「響き合う瞬間」を見届けてください。
なお合宿編は次話11/2(日)更新、第12話で終了。来週は一週間お休みさせて頂く予定です。




