第10話 「夜間」~シューティング スター~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。
それでも——線を描く理由は、まだここにある。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
休日の明けた翌月曜の午後三時半。
秋の傾いた陽光が本栖研修所のグラウンドに長い影を落としていた。標高千メートル近い空気は乾き、林の隙間から吹く風は、すでに夕の匂いを含んでいる。
キズナ達とアンナのチームはこの合宿のもう一つの本番、「夜間行軍訓練」に臨もうとしていた。
皆の前に今日から視察に訪れた、協会の教育担当、キズナ達とは因縁浅からぬ関係である柚木典久理事が立っていた。視線を鋭く光らせ、理知的だが冷やかな声で訓示を告げる。
「今夜の訓練は、夜間山岳行軍および対魔戦闘の総合試験とする。本栖研修所から一般道と一部青木ヶ原樹海内を抜け、自衛隊北富士演習場を経由し富士山麓を縦走しながら、東富士演習場に至る約六十キロ。仮想空間における魔の顕現に備え、夜間の戦術運用を学ぶ場だ。全員、気を引き締めて臨め」
その横で、自衛隊の講師がルートと特に一般地域と演習場内に入った際の、それぞれの注意事項を説明する。
ルートガイドとナビゲーションは描線眼鏡に送られてくるそうだが、青木ヶ原樹海という禍々しい響きと、灯りもない夜間の山岳行軍という設定に、言われずとも皆の気が引き締まる。
「出発は十七時から、十分刻みの時間差行動。灯火管制下での山道踏破となる。二人一組で出発。各ペアはチェックポイントでの模擬戦闘を含め、時間内の通過を目指せ。途中の天候・地形変化には十分注意しろ。ルートは描線眼鏡が負荷と状況を加味して調整を行う」
ザックのベルトを締め直す音、ペンと眼鏡の起動音、微かな通信チェックの電子音。各自が黙々と準備を進める中、ひときわ真剣な表情でキズナが口を開いた。
「この訓練は連携が鍵よ。“見える”ことと“伝える”こと、その両方を意識して動いて。戦いは、独りじゃできない。各ペアは先日の2対2演習の際の組み合わせをそのまま踏襲する」
思わずサチハがアツの顔をチラ見する。
一方でサキが小さく手を挙げた。
「……すいません師匠。正直な所、体力的な部分で自信がありません。師匠の脚を引っ張るなら……体力的に引っ張ってもらえるマナセさんと入れ替わりの方が――」
言葉は途切れ、サキの視線は地面に落ちる。キズナは一瞬だけ眉をひそめたが、代わって口を開いたのはケンだった。
「……却下だな。ペアは連携と信頼で組んである。訓練で逃げ道を作るな。まあマナセとランは固定しといた方が良いだろ……」
サキは思う所はあっただろうが頷いた。
「サキ。信頼しているよ。出来る範囲の事をこなしていこう。……それに道中ちょっと相談したい事もあるしね」
*
十七時、出発の号令。まずはアツとサチハのペアが、夕暮れの林道へと踏み出す。長い影が森の中に溶けていく。
「……いってきます」
アツの呟きに、キズナが小さく頷く。その背中にサチハが並び、視界に眼鏡の軌道が浮かび上がる。
次に、マナセとランが出発。最後にキズナとサキ。三組のペアは、それぞれ異なるルートを選ばされながらも、同じ夜へと歩き出す。
アンナ達のチームも各々のルートへと歩みを進めていった。
夜は、まだ完全には落ちていない。しかし確実に、彼らを包もうとしていた。
*
足音だけが、夜の森に等間隔で刻まれていた。
葉の擦れ合う音、遠くで鳴く鹿の声、そして月齢二十のぼんやりとした月の下、蒸された苔の匂いがぬるく鼻腔をなでる。
「……意外と静かだね」
サチハが小さく口を開いた。
「うん。もっと虫の声が煩いかと思ったけど」
アツは前を歩く彼女の背中を見つめたまま答えた。
灯火管制下、描線眼鏡のナイトビジョン機能に頼って二人は山道を歩いていた。照明はないが、眼鏡越しの映像はほのかに緑がかったグレートーンで構成され、草葉の揺れも、枝の起伏も鮮やかに捉えていた。
「あ、あのさ……昨日食堂で話していた高校の時の話なんだけどさ」
ふいに、アツは声をかけた。
「あれは……カノンちゃんの話? サチハの話?」
サチハはしばらく無言だったが、肩越しにこちらを振り返り、首をひねった。
「うーん、どっちかな。半分くらいは、自分だった気もするし」
そしていたずらっぽく笑った。
「でも、初恋は覚えてるよ。幼稚園の頃、竹馬の上から私に花の首飾り投げてくれた男の子がいたの。めっちゃ下手くそで、全然届かなかったけどね」
アツは、口元を緩めながらも何か言おうとして、やめた。思っていたより、サチハは他人の話をよく聞くし、自分の話もする。そう気づいたことに、内心驚きすら感じていた。
──そのときだった。
眼鏡がわずかに震え、視界右端にアラートが点滅した。
「警告:危険度=R」
「ターゲットレンジ=200m±10m」
「方角=北東」
「予測時間=+00:05:00±02:50」
「っ……来たか」
アツが声を低くしたのとほぼ同時に、サチハの眼鏡も震えた。
「え、なに? 本物……なの?」
サチハが少し身を屈めて、目を見開く。
「分からない……でも警告は出てる」
アツは素早く右手のポケットから描線ペンを取り出し、久しぶりの感覚ではあっても手慣れた動作で、愛用の日本刀を転送する。
光の尾を引いて、右手に重量が発生する。漆黒の刀身が闇に沈み、切先にわずかな仮想ノイズの粒が散った。
「サチハ、下がって」
「う、うん……!」
闇の中から、まるで地を這う靄のような塊が姿を現す。形状は曖昧で、目のようなものが瞬いたかと思えば、羽根のような枝が左右に広がる。
影が地を滑るように近づき、サチハへ向かって直線的に突進した。
「っ!」
反射的にサチハが仰け反るが、それより早くアツの身体が滑り込む。日本刀を逆手に構え、斜め下から影の中心を斬り上げる。
「せいっ!」
重さのない手応え。しかし刃が走った軌跡に沿って、影がざらつくようにノイズをまき散らして崩れた。
「は、はぁ……。あれ、いまのって……」
膝をついたサチハが震える手で眼鏡を覗き込む。
「……あれ。HMDに《Simulated》のタグが……?」
「……マジかよ。シミュレーションだったのか」
アツは肩の力を抜いて息を吐いた。
「でも……こっちは知らされてなかったよね?」
「うん。でも、油断してたら普通にやられるってことかも」
二人はしばらく、膝をついたまま無言だった。虫の声が戻り、夜の冷気が汗ばんだ肌を撫でる。
「ありがとう、庇ってくれて」
サチハがぽつりと呟いた。
「いや、俺も……ただ、動いたっていうか」
顔を赤らめながら言うアツに、サチハはまたふふっと笑った。
「もうちょっと、頼れる男アピールしてもいいんだよ?」
「が、頑張る……」
そう言いながら、アツは刀を虚空に戻し、再び描線ペンを腰に挿した。
二人は何事もなかったかのように、また山道を歩き出す。だがその歩幅は、さっきより少しだけ、揃っていた。
*
岩をよじ登るランの背中が、うっすらと汗ばんでいるのが見えた。涼風が通り過ぎると、微かに石と草の匂いが混じった。マナセは、後ろから黙ってその様子を見守りながら、自分の手のひらの汗に気づいた。
「足場、気をつけてね」
「わかってるー。でも、マナセの声ってさ、こういう時すごく落ち着くよね」
ランが振り返りながら、少し冗談めかして言う。月明かりと眼鏡のナイトビジョンが、彼女の表情を柔らかく映し出していた。
「……ありがとう。でも油断しないで。ここ、滑る」
マナセは前に出て、手を差し出した。
ランは、その手を何のためらいもなく取る。
──その一瞬、星野スタジオで初めて出会った日の記憶が蘇った。
水彩で背景を塗っていた自分の横で、きらびやかなアクセサリーの原画を黙々と描いていたラン。作業は正反対だけど、なぜか呼吸が合った。時計を見ずとも、筆の置き方で相手のリズムが読める。それは戦場においても変わらない。
岩場を抜けると、視界が一気に開けた。人工的に整備された平地、そこに“それ”はいた。
闇のなかでうごめく塊。ふわふわと浮遊する複数の球体が、触手のような影を地に垂らして揺れている。
肉眼では曖昧なその存在も、眼鏡の仮想視界では明確に輪郭を結んでいた。しかも、その端には小さくこう表示されていた。
《Simulated》
「やっぱり、シミュレーションだね」
マナセが言うと、ランが小さく頷く。
「でも、倒さないと前に進めない……ってわけか」
「うん、まさにそういう仕様だと思う。戦闘訓練モード。眼鏡の反応パターンも、わずかにズレてる」
マナセは右手で描線ペンを回し、使い慣れた戦斧を転送する。
赤い光が尾を引いて、彼の手元に巨大な斧が現れる。重みと振動が腕を通じて伝わり、マナセは静かに呼吸を整える。
ランもまた、眼鏡の横でペンを走らせていた。
軽やかな風切り音。構えた弓には、すでに一本の白く輝く矢が装填されている。光の粒子が矢羽根のように揺れていた。
「タイミング、合わせて」
「オーケー。マナセが合図して」
次の瞬間、影の魔がこちらに向かって滑空してくる。仮想空間のそれでも、動きは俊敏で容赦がなかった。
「今!」
マナセが声を張った。
ランの矢が音を置き去りにして放たれ、影の球体に突き刺さる。瞬間、球体の一つが光の層に覆われて崩れた。
その隙に、マナセが斧を振りかぶり、跳躍する。空中で身を捻りながら、巨大な斧を斜めに振り下ろす。轟音。仮想空間上の地面が軋み、影の根幹に亀裂が走る。
「……ッ、これでもまだ動くか」
「あと一発ずつで、いけると思う」
影は、ぶれるように形を変えながら、再びふたりに向かってきた。ランが斜面を滑るように駆け、位置取りを調整する。マナセは真っ向から迎え撃ち、タイミングを合わせて最後の一撃を放った。
斧が振るわれ、矢が突き刺さる。
影は砂嵐のように崩れ、しばしの沈黙が訪れた。
眼鏡の表示が切り替わる。
《撃破確認》
「やれやれ。やっぱり、訓練でも本気出させるんだから」
ランが苦笑する。
「でも……悪くなかった。シミュレーションだとしても、息が合ったのは本当だから」
マナセが肩で息をしながら答えた。
沈黙。ややあって、ランがいたずらっぽく言う。
「じゃあ、またあの頃みたいに描こうよ。二人で、誰かのための絵を」
マナセは、その言葉に少しだけ頬を緩めてうなずいた。
二人は再び歩き出す。
描線と魔の世界で、戦いと創作が地続きであることを、改めて噛みしめながら。
*
夜の森は、電子の海よりも静かだった。
キズナとサキは並んで歩きながら、互いにほとんど言葉を交わさなかった。描線眼鏡のHMDがわずかに光を放ち、足元の地形と方位を示している。二人の視界には、風で揺れる木々のシルエットと、赤外表示された小動物の軌跡が重なっていた。
森を抜け、沢沿いに設けられたチェックポイントに着く。人工照明はない。灯火管制下の休憩時間、ようやく身体を下ろせる数分間だった。
キズナはザックのポケットから、小さな銀色の折り畳み端末を取り出した。3Gガラケー。彼女の声が微かに弾む。
「……圏内、一本。サキ、送ってみるね」
パッドのキーを押すたび、かすかに鳴るクリック音が夜気に溶ける。
メッセージ本文は簡潔だった。
《演習中。全員無事。通信実験を開始します。》
送信ボタンを押したあと、二人は息を詰めて待った。
そして、数十秒後――受信ランプが青く灯る。
《了解。何かの用で転がしといたガラケーが役にたったみたいだ。》
フクハラからの返信だった。
キズナが思わず息を呑む。サキの眼鏡にも文字情報が転送され、彼女は無言のまま目を細めた。
「やっぱり、協会の制限フィルタは4G5G層だけ。3Gは想定外ってことね……」
「つまり、協会アプリが支配できるのは“現行端末”の通信層だけ、ってことか」
サキが指先で空を指しながら言う。その声は低く、どこか冷静すぎるほどだった。
キズナは、フクハラへの返信を打ち込んだ。
《アナログ原稿は完成目前。入稿経路を検討中。》
返ってきたのは、まるで講義ノートの一節のような文面だった。
《データリンク層は無理でも、ルーティング層には抜け道がある。協会5Gは防衛省網と共用だ。軍用VPNの旧ポートを叩けば通る可能性が高い。》
サキが読み上げながら、眉をひそめる。
「……旧ポート? KDF以前の? そんなのまだ残ってるの?」
《理論上は。現場では封鎖しきれていない。物理的に存在する限り、論理層から見えるんだ。》
その返信に、サキの眼が一瞬だけ光を帯びた。
「……なるほど。なら、私がトリガー構文を書けるかも」
「それって眼鏡のプロトコル自体を書き換えるって事? 危険じゃない?」
「危険。けど、確かに“描線眼鏡”の回線経由なら、協会の検閲をすり抜けられる。演習用のトラフィックに“入稿パケット”を偽装すれば……」
彼女の声はだんだん早く、興奮を帯びていく。
キズナは理解はしていた。仕組みも、おおよそのリスクも。だが、彼女の役割は違う。
「……サキ。私はあなたたちが通す線の“意味”を描く。仕組みは任せる」
その一言に、サキが微笑んだ。
ガラケーがもう一度震える。
《演習区域を出たら送信試験をする。SMSも傍受される危険はある。必要な連絡以外は最小限に》
「了解、博士」とサキが答えるように呟いた。
フクハラは文理双方の博士号を持つ天才。
だが、彼にとって“論理”と“情熱”は同義語だった。
「……ねぇ、サキ」
「はい?」
「人の描く線も、回線も、どこか似てるね」
「どういう意味ですか?」
「一番大事なとこほど、目には見えない」
森の奥で風が鳴った。
描線眼鏡の画面に、微細な電磁ノイズがちらつく。
それはまるで、遠くでフクハラが笑っているようにも感じられた。
*
夜の帳はゆっくりと薄れ、東の空が淡く染まりはじめていた。
演習場の最終チェックポイント――瓦礫で囲まれた広場の中央に、三組の影がほぼ同時に現れた。
キズナとサキが、先に到着していたアツとサチハのもとへ足早に近づく。
互いの無事を確かめ合うようにうなずき合い、最後にマナセとランが岩陰から姿を現す。
ランの足元は土埃で汚れていたが、その表情には明確な達成感が浮かんでいた。マナセはいつになく穏やかな顔をしている。
繋いでいた手を慌てて離した事をキズナは見逃さなかったが、あえてそれ以上は触れなかった。自分でも照れ臭くなり、ふと頭上を見上げた。
その動作に釣られるように、全員がほぼ同時に空へと目を向ける。
濃紺の空を背景に、仮想視界に重なるHMDのUIが微かにざわつく。
一瞬だけ、点のような光が走った。
多分、流れ星では無いけど3つ数えてみた。
それは来る乱流の滲みなのかも知れないが、すぐにノイズ処理でかき消され、画面は静寂を取り戻す。
何事もなかったかのように、朝の気配だけがゆっくりと上昇していく。
静かだった。
遠くで鳥が鳴きはじめていた。夜露を含んだ風が頬を撫で、仄かに冷たい。
サチハが隣にいるアツを見上げた。
ほんの少しだけ肩が触れ、息が止まりそうになる。
アツも彼女に気づき、言いかけた言葉を喉の奥で止めた。
サチハも同じように、何かを口にしかけて、そっと目を伏せた。
夜が明けようとしている。
その境界に立つ彼らの姿を、キズナはひとつ深呼吸して見届けた。
「――また明日も、絶対平和じゃないと。ね?」
声は風に乗り、東雲の空へと溶けていった。
その言葉には、願いでも祈りでもなく、確信が宿っていた。
本話は、深夜の仮想訓練を通じてチームのメンバーたちがそれぞれの内面と向き合い、過去・現在・未来の想いが交錯する回です。
色々思うところあって、開き直ってモチーフの直接引用に踏み切りました。初恋の曲を静かに朝を迎える描写で詩的に綴っています。
引き続きご愛読頂ければ本当にありがたいです。




