第1話 「同人」~描くことは、繋ぎ直すこと~
描いた線が、また誰かの心を動かすと信じて。
「眼鏡」で見えないものを捉え、
「ペン」で見たい未来を描いていく。
打ち切り、謹慎、揺れる仲間たち。
それでも——線を描く理由は、まだここにある。
『描線眼鏡』シリーズ本編第2部始動
前作同様に水・日曜の午後9時半に投稿の予定です。
薄曇りの午後、キズナは静かに段ボールの封を閉じた。
中には、描線眼鏡一式。戦いの記録と、敗北の象徴。フレームの感触が、いまだ指先に熱を残しているような気がして、彼女はほんの一瞬躊躇ったが、所定のQRコードシールを貼り付けて封印した。
「返却・日本科学漫画協会総務局宛」
そう書かれた白ラベルが、無機質な箱の表面に異様に浮いて見える。
ピンポンというチャイムが鳴ると、彼女は静かに立ち上がり、玄関へ向かった。
配送員の手に箱が渡ると同時に、何かが胸の奥からこぼれ落ちるような気がした。空気が、少しだけ軽くなった気がしたのに、肺の奥には、取り残されたような重さだけが残った。
「……これで、終わりなのかな」
誰にともなく、呟いた。
応えるものはなく、部屋にはクーラーの低い唸りだけが残った。
しばらく動けずにいたが、ふと、机の引き出しに目が留まる。ゆっくりと腰を落とし、左の二段目を開けた。そこに、古びた眼鏡が眠っていた。祖母・荻野清香が遺した、かつての“描線眼鏡”の原型。
軽い。今のものよりずっと素朴で、無骨で、装飾もない。だが、どこか温かい。
彼女は、何の気なしに、それを顔へ──。
──その瞬間、走る影の中のひかり。
視界の奥で、かすかに震える線の残響。
かつて初めて眼鏡をかけた日と同じ、あの輪郭。仮想空間と現実のはざまで、何かがまた、彼女を呼んでいる。
職人谷保三郎の手によるものか、あるいはその父、初代描線眼鏡の産みの親谷保二郎の手によるものか。祖母が身に付けていた“眼鏡”は何故かキズナの目にしっくりと収まった。
「……また、線を描いて、未来へつなげる」
そう呟いた声は、先ほどより少しだけ強く、そして温かかった。
彼女は窓辺へ歩み寄り、カーテンをわずかに開けた。
差し込む陽光は淡く、しかし確かに、その頬を照らしていた。
*
ここまでの物語
すべては、羽田空港での“あの事故”から始まった。
漫画家を夢見る少年・アツと、天才少女・キズナの出会い。〈描線眼鏡〉によって、ふたりは“魔”──人の負の想念が生む災厄──と向き合う。
仲間たちと共に、彼らは“想像力で捉え、創造力で斬る”戦いに身を投じた。漫画を描くことと、魔と戦うことが、やがて同義になっていく日々。
しかし社会の裏に潜んでいた現実の一端が曝され、連載は打ち切られ、眼鏡も監理機関〈協会〉に返却される。
心折れかけた中、それでもキズナは祖母の眼鏡を手にした。
物語は終わっていない。
今、再び線を描く時が来た──。
*
午後のスタジオは静かだった。
あの最後の締め切りから二週間ほど後の事、フクハラが現状の説明をすると言うことで、皆が久々に集まった。
期待と不安が錯綜するが、フクハラの口から出てきたのは、ややネガティブな言葉だった。
「……いくつか心あたりを辿って、何社か声はかけたよ」
フクハラが静かに切り出す。
その顔には、彼なりの疲れと、わずかな苛立ちが滲んでいた。スピーカーの音も、窓の外の蝉の声も、どこか遠く感じる。テーブルには缶コーヒーや資料プリントが無造作に散らばっていた。だが、誰も手を伸ばさない。
「正直、もう少し反応が早いと思ってたんだけどね。何処の出版社の編集部も、協会との関係性を加味してか慎重でさ。“眼鏡関連”の案件は、いま相当ナーバスになってる」
誰も何も言えなかった。
速やかに沈静化させられたとはいえ、週刊文潮による報道の影響。科学漫画協会自体が有力漫画家を多数抱える事に加え、近年は政府との繋がりも強く、訳ありのキズナとその作品を受け入れるには、どの版元も二の足を踏んでいるらしい
集談館での連載打ち切り──それが表向きには「編集方針の転換」で片付けられていても、水面下ではきな臭いものがくすぶっているのは明白だった。
協会、政府、出版業界。見えない線がいくつも絡み合い、その狭間でキズナたちは“停止”されていた。
「君たちの作品のクオリティとキズナさんの才能に疑問を持つ人間は誰も、文字通り誰一人居なかった。それは僕が責任を持って保証する。……ただ……とにかく今は、少し様子を見るしかないんだ」
フクハラが肩を竦めて言う。
「返事が来るまでは、各自でコンディション整えておこう。作画の精度だけは落とさずにね」
微かな空調の音が、言葉の余韻を吸い込む。
──その沈黙を破ったのは、ケンだった。
「……あのさ」
彼は手元のタブレットをいじりながら、やや口ごもる。
「夏コミ……申し込んでおいたんだ。STUDIO★Kってサークル名で。全員分、名前入れて」
「えっ?」と、一同が顔を上げる。
サチハが瞬きをし、マナセは目を細めた。
「最初は、アツとサチハの経験づくりって意味でな。場数を踏ませたくて。で、マナセは……まあ、強制ボランティアというか」
「……聞いてない」とマナセが眉をひそめる。
いつものように怒鳴るでもなく、呆れを含んだ口調。
「話せばビックリするし、超不安な顔するじゃん」
ケンは悪びれもせず笑った。
「それに、言うタイミングがなかった。色々あったし」
キズナは何も言わず、ケンのほうを見つめていた。
その瞳には驚きよりも、かすかな安堵がにじんでいた。
アツがぽつりと口を開く。
「夏コミって……あの、いわゆる同人誌ってやつ……?」
「そう、コミケだよ」
ケンが親指でポンとタブレットを弾く。そこには、申し込み済みの画面と、配置番号らしき文字列が映っていた。
「今さらかもだけど──描ける場所は、まだあるってことだよ」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
打ち切りも、封印も、終わりではなかった。
線の先に、まだ何かがあるかもしれない。
その“余白”を、誰よりも信じていたのは──一度、すべてを終えたはずの彼女たち自身だった。
*
スタジオに、コピックのインクの匂いと電子機器の排熱がほんのりと滲む。
蛍光灯の光が、机上の液晶タブレットを白く照らす中、フクハラが深いため息をついた。
「……ちょっと待ってよ、ケンさん」
声は穏やかだったが、明らかに棘が含まれていた。
「“眼鏡の女の子”を別媒体で動かす件──ようやく仕込みを始めたばかりなんだよ? 今、同人誌で勝手に“続編”っぽいもの出したら、契約上いろいろ……面倒が立て込む」
キズナは椅子の背にもたれたまま、静かに言った。
「スピンオフなら、問題ないでしょ?」
その一言に、スタジオの空気が微かに動いた。
フクハラが言葉を詰まらせる。
確かに、著作権上のグレーゾーンは存在するが、“スピンオフ”としての体裁を保てば、あくまで二次創作に分類される可能性はある。ましてや商業連載が打ち切られた今、“公式”と“非公式”の境界線は、曖昧だ。
「それに」
とサキが笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。
「読者へのアピールにもなるかもしれませんよ。“私たちはまだ描いてます”っていうサイン。火を絶やさない、って意味でも」
「……くぅ、君ら、そういう“理屈っぽい正論”の組み立て、ホント強いよな……」
フクハラは手のひらで顔を覆いながら、肩を震わせた。だが、その表情は怒りではなく、どこか諦めと感心が混ざったような笑みに変わっていく。
「──わかった。条件付きで許可するよ。本編じゃなくて完全にスピンオフ。
そして、内容チェックは僕もする。どんな形であれ、キズナさんの名が載るなら、半端なものは出せない」
その言葉に、ケンは笑みを深める。
「そっちは任せとけ。むしろ、同人の怖さは昔から知ってるからな。甘く見ちゃいけないのは──俺らのほうだ」
*
その夜、スタジオのホワイトボードには、各メンバーの名前と「表紙」「ネーム」「作画」「仕上げ」「告知」などの文字が、色分けされたペンで書き込まれていた。
「……これが、同人誌のタスクリストですか」
と、サチハが目を丸くする。
マナセは腕を組んだまま、冷静に言った。
「要するに、締切のない“締切地獄”だよ。自分で区切りをつけないと、永遠に完成しない」
「怖っ……」とアツ。
フクハラが手元のメモを確認しながら口を開いた。
「まず表紙は……まあ、キズナさんでしょ」
即座に、数人がうなずく。しかしその瞬間、キズナが手を挙げた。
「待って。その前に──出してみたい人は、案を出して。判断はあと」
その言葉に、アツとサチハが即座に反応した。
「……じゃあ、僕も描きます」
「ワタシも……ちょっとだけ自信あるかも」
「お、いいねえ。表紙コンペってやつだ」
ケンが手を叩いた。
キズナがさらに続ける。
「“ネーム”もワタシが担当で無くてもいい。スピンオフだし、誰かのアイデアやプロットで面白いってモノが有れば、みんなでそこに乗っかっていくのも良いと思う」
パタリと音がして、アツがノートを開いた。
サチハがペンを握り直す。
その仕草は、かつて“戦闘”の準備だったはずの手つきに、よく似ていた。
「やらせてください。……ネーム、僕も描いてみたい」
アツの言葉は震えていたが、そこには確かな意志があった。
「原稿用紙の前に立つって、ちょっと怖い。でも──描いてみたいんです」
「ワタシも……描いてみたい」
サチハも静かに口を開いた。
「学校の課題で描いたことあるけど、本気で誰かに読んでほしいって思ったの、初めてで……。それが、ずっと残ってて」
キズナは、ゆっくりと立ち上がった。
その動きは、まるでかつての“リンク”前のように、自然で、覚悟に満ちていた。
「──じゃあ、提出制にしましょう」
あらためて一同を見渡し、
「表紙案は全員。ネーム案も希望者はどうぞ。一番、読者を惹きつけた案を採用する」
一瞬の沈黙ののち、スタジオがざわめいた。
戦いではない。だが、これもまたひとつの“勝負”。
描くという行為の中にある、魂の火花が、確かに再び灯り始めていた。
*
翌日から、スタジオはまるで文化祭前の美術部のような熱を帯び始めた。
トーンの種類を確認するラン。
「最近の印刷所、トーンの濃度を勝手に補正するところがあるの。だからね、出力見本で光量調整もしておいたほうが……」
「わかりました。でも、カラーとモノクロの切り替えって、やっぱ難しいですね」
アツが原稿を持ちながら眉をひそめる。
ケンがどこからか紙束を持ってきて、言う。
「これ、俺が昔作ったコピー誌。20年前のだけど、参考になるかも」
「えっ、これ……ガチでガリ版?」
フクハラが呆れたように笑う。
「その頃はさ、写植屋まで原稿持ち込んで、レタッチも全部手作業だったんだ。いまはオンデマンドの試し刷りも一晩で届く。……でも、楽になった分だけ、情熱の比重は重くなってる気がするな」
ケンの目は、遠い記憶と今の情景のあいだを行き来していた。
サチハが表紙案の下描きを見せた。描かれていたのは、少女が眼鏡をかけて立つ構図。だが、その線はまだ震えていて、背景も仮塗りのままだ。
「……ちょっと恥ずかしいけど、これが今のワタシ」
「いいじゃん。伝わる線だと思うよ」
とマナセが背後から覗き込みながら言った。
「描くことに不器用な人間が、一番強く描ける瞬間って、あるからさ」
ふと、キズナが目を閉じた。
祖母の眼鏡を掛けて以来、何かが少しずつ変わっている。線が深く、心に届くような感覚。かつて“武器”だった描線が、今は“祈り”のように彼女の手から生まれつつあった。
「……この本、私たちにとって“最初の一冊”じゃない」
「でも、“もう一度目の一冊”にはなるかも」
彼女のその言葉に、全員がうなずいた。
*
プリンターの静かな駆動音が、夜のスタジオに響いていた。
光沢紙の表紙、モノクロの本文、それぞれの束がゆっくりと積み上がっていく。
画面には、チェック項目すべてに「完了」の文字。
サチハが思わず声を上げた。
「できた……!」
その瞳には、本当に光が宿っていた。
「“完了”って、なんて綺麗な言葉なんだろ」
隣で呟いたアツも、手のひらをじっと見つめていた。
「描いたんだ……自分の線で、最後まで」
完成した原稿の束を眺めながら、キズナがぽつりと呟いた。
「……ネーム、結局、アツくんのをベースにして、サチハの見開き使って、ちょっとだけ私が線を足した形だね。合作、って言えるかも」
誰が勝ち、誰が負けた、という空気はなかった。
むしろ、皆の線が重なって一つの物語になったことに、自然と頷きが広がった。
各ページに宿った線と色。それは誰かの夢であり、努力であり、再起の証だった。
ランが小口を指でなぞりながらつぶやく。
「この束に、私たちの全部が詰まってる気がするね」
「トーンの濃度、ちゃんと出てる……!」とマナセも小声で。
キズナは、そっと祖母の眼鏡を外して机に置いた。
封印した描線眼鏡ではなく、いま彼女の目を通して見えているのは、
“描くために必要な風景”だった。
「ワタシたち……また描けたね」
その言葉に、スタジオ内の空気がふわりと緩んだ。
ケンがカッターを手に、印刷物をまとめながら言う。
「これで、会場搬入も間に合う。あとは……有明に殴り込み、だな」
フクハラがデータ送信用PCの前で、メールの文面を打ち終える。
件名は「コミケ準備完了・販促素材一式」
本文にはこう書いてあった─
《※眼鏡の女の子スピンオフ同人誌、予定通り完成しました。データ添付あり。販促利用および作品情報更新のため、以下URLにて告知予定です》
彼が最後に一言、口にした。
「……次の戦場は、有明だね」
スタジオに一瞬の静寂が訪れ、そして、誰からともなく笑みがこぼれた。
線を描くことで、何かを守る。
物語は、まだ終わっていない。
──そう、再び“はじまった”のだ。
本日『描線眼鏡 または継承の情熱』
「小説家になろう」の皆さんお久しぶりです!
『描線眼鏡 または継承の情熱』
第1話「同人」~描くことは、繋ぎ直すこと~を投稿いたしました。
『描線眼鏡 または師匠の異常な情熱』に続く『描線眼鏡シリーズ』本編第2部にあたります。
前作最後に、連載打ち切りと「描線眼鏡」の没収という二重の喪失に見舞われた主人公達。
物語は眼鏡の封印・返却シーンから始まりますが、そこに新しくもたらされた光りは、過去から継承されたものでした。
そして商業連載を失った仲間たちが選んだ道は、同人誌を創作する事からの再出発。
次話は「有明」に見る夏の夢とペン先の熱。
ここからまた、線を繋ぎ直す物語をお楽しみください!
今後は水・日曜の午後9時半に投稿予定です。よろしくお願いいたします!