第9章 帰還と政変──第一統領誕生(1799年・30歳)
──1799年10月。
深夜の港に、一隻のフランス艦がひっそりと姿を現した。
船の名は「マチュー号」。
その甲板に、痩せた若い男が立っていた。
ナポレオン・ボナパルト。
エジプト遠征からの“密かな帰還”だった。
フランス政府は、彼がアブキール湾で艦隊を失い、エジプトの砂の中で消えたと思っていた。
だが、彼は戻ってきた。
英雄の顔で、名もなき兵士たちを砂漠に残して──。
フランス本土は混乱していた。
総裁政府は腐敗し、政治家たちは互いに疑い、足を引きずり合っていた。
民衆は飢え、商人は国外通貨に逃げ、兵士は士気を失っていた。
だが、ナポレオンの帰還はすべてを変えた。
彼が陸に上がった日、民衆は噂に沸いた。
「英雄が戻ってきた」
「今度こそ、この混乱を終わらせてくれる」
「フランスには、ボナパルトしかいない」
ナポレオンは沈黙したまま、それを聞いていた。
だが心の中では、すでに地図を塗り替えていた。
数日後、政治家シエイエスが接触してくる。
彼は新憲法の草案を手に、ナポレオンの前に立った。
「総裁政府はもはや機能していない。
共和国を救うには、新しい体制が必要だ。
君の力を借りたい」
ナポレオンは資料に目を通しながら、短く応じた。
「それは“協力”ではない。私が“設計”する」
シエイエスはわずかに眉をひそめた。だが何も言わなかった。
こうして、**ブリュメール18日(1799年11月9日)**の政変が始まった。
サン=クルー宮殿。
早朝、ナポレオンは軍服に身を包み、弟リュシアンと共に議場に入る。
議員たちはざわつき、軍の動員に不安を募らせていた。
「軍を政治に使う気か!」
「共和国を裏切る気か!」
「ボナパルト将軍、答えろ!」
ナポレオンは壇上に立った。
一言一言、言葉を選びながら口を開いた。
「共和国は病んでいる。
腐敗し、力を失い、敵に笑われている。
このままでは、国家は死ぬ。
私はそれを救うためにここに来た──武力でなく、秩序で救うために」
しかし、議場は騒然とした。
数人の議員がナポレオンに詰め寄り、罵声を浴びせた。
「裏切り者!」「クーデターだ!」
ナポレオンは一瞬、動けなくなった。
兵士たちも戸惑い、手を出すべきかどうか迷っていた。
そのとき、壇上にいた弟リュシアンが叫んだ。
「この場にいるすべての兵士に告ぐ!
ボナパルト将軍が国を救おうとしている。
もし彼が共和国を裏切るつもりなら、私は自ら彼の胸に短剣を突き立てる!」
沈黙が落ちた。
その言葉は、何よりも雄弁だった。
軍は動いた。
議場は解散され、暴徒は排除された。
血はほとんど流れなかった。だが、その一日で共和国は終わった。
その数日後、新憲法が制定され、統領政府が成立。
三人の統領──ナポレオン、シエイエス、デュコー。
だが、実権は第一統領ナポレオンに集中していた。
1799年12月。
パリの冬は冷たかったが、共和国の心臓には新しい鼓動が響いていた。
ジョセフィーヌは再び、ナポレオンのそばにいた。
だが、二人の間には、もはや遠征前のような温もりはなかった。
「あなたが、フランスの支配者になるなんて……」
「なってはいない。なったように“見せた”だけだ」
彼は、彼女の手に触れながらも、目を合わせなかった。
その視線は、パリの屋根の向こう、まだ見ぬ“帝国”を見つめていた。
一つの政変。
一発の銃声もなく、国家は塗り替えられた。
剣で生まれ、法で着飾った政権──第一統領ナポレオン。
彼の影は、もはや将軍の範疇を越えていた。
それは、制度となり、国家となり、やがて世界の構造にすら影を落としていく。
“英雄”の時代は終わった。
これから始まるのは、“支配者ナポレオン”の物語である。