第8章 ファラオの夢──エジプト遠征(1798年〜1799年・29〜30歳)
──1798年。
フランス革命の熱が薄れ、総裁政府の腐臭が漂い始めていた頃。
ナポレオン・ボナパルトは、突如として地中海を渡った。
「英国を屈服させるには、インドを抑えよ。
インドを抑えるには、エジプトを制せよ」
これは表向きの命令であり、戦略であり、口実だった。
だが本当の目的は、ナポレオンをパリから“遠ざける”ことだった。
政府は、もはや彼を制御できなかったのだ。
艦隊は堂々とマルセイユを出港した。
戦艦400隻、兵士4万人、そして──科学者150人。
この遠征には、軍人だけでなく、数学者、天文学者、生物学者、画家、建築家が乗り込んでいた。
ナポレオンの頭の中には、「戦争」と「文明」が共存していた。
「わたしは東方に理想国家を築く。
剣と定規の両方で、新しいフランスを刻むのだ」
そう語る彼の目は、将軍というよりも預言者に近かった。
6月、エジプト北岸に上陸。
アレクサンドリアを制圧したのち、彼はナイル上流へと軍を進めた。
そこには、トルコの支配下で事実上独立していたマムルーク軍団が待ち受けていた。
騎馬戦を得意とし、砂漠を知り尽くした戦士たちだった。
──だが、ナポレオンは怯まなかった。
「彼らの力は砂にある。我々の力は、砲と秩序にある」
そして、歴史に残る一戦が始まる。
ピラミッドの戦い(1798年7月21日)。
彼は、兵士たちにこう呼びかけた。
「兵士たちよ。
あの丘の向こうに、四千年の歴史が君たちを見下ろしている。
その前で、逃げるわけにはいかない」
ナポレオンは、正面突撃を避け、縦隊の応用陣形でマムルーク軍を迎え撃った。
騎兵の突撃を歩兵の火線と砲撃で寸断し、戦局を逆転させる。
数時間後、砂漠の地には無数の騎兵の死体と、炎上する陣幕が広がっていた。
「将軍、これでカイロは我々のものです」
副官の報告に、ナポレオンは静かにうなずいた。
「いや──四千年の影を越えたのだ」
彼は自分の足元に、新しい歴史を築く地盤を感じていた。
カイロ入城後、ナポレオンは軍政だけでなく、行政、教育、宗教政策にも手を出し始めた。
「エジプト人のためのフランス的統治」──それは、理想であり、実験だった。
彼は地元のウラマー(イスラム法学者)たちと会合を持ち、
「私はアッラーを理解する者だ」とさえ述べた。
だがその眼差しは、敬意というよりも説得のための計算に満ちていた。
やがて、異国の宗教、言語、慣習の“壁”が彼を包囲し始める。
反乱、疫病、飢え──兵士たちは疲弊し、不信感が広がっていった。
そして──アブキール湾の悪夢が訪れる。
英海軍提督ホレーショ・ネルソンの艦隊が、ナポレオンの艦隊を奇襲。
フランス艦隊は壊滅。補給路は絶たれ、地中海は敵の海と化した。
「海を失った征服者」となったナポレオン。
陸の勝利は、孤立という現実の中で鈍色に霞んでいく。
「将軍、我々は……帰れるのでしょうか」
副官の問いに、彼は答えなかった。
その夜、彼はひとり星を見上げ、遠くフランスの空を想像していた。
彼の希望は、もう一つだけ残っていた。
科学だった。
遠征軍には、調査隊が組まれ、ナイル川の水量、神殿の構造、古代文字の写本が収集された。
このときに発見されたのが、後に文明史を変えるロゼッタ・ストーンである。
「たとえ軍が朽ちても、我々の名は石に刻まれる」
それが、ナポレオンの誇りだった。
だが、それすらも虚しさを帯び始めていた。
カイロでは再び反乱が起き、兵士たちは疲弊し、病に倒れた。
ある夜、彼はテントの中で、ジョセフィーヌへの手紙を書いていた。
「君の笑顔が砂漠よりもまぶしく、
君の沈黙が海のように重い」
だが、その手紙に返事はなかった。
風のように届かぬ愛、砂のように崩れる夢。
それが、ナポレオンの“理想国家”だった。
ナポレオンは悟る。
──ここには、皇帝にも国家にもなれる場所はない。
──エジプトは、わたしを試し、突き放す。
そして彼は決意する。
「わたしはフランスへ戻る。世界を変えるのは、砂漠ではない」
数ヶ月後、彼はごく一部の側近とともに密かに出航する。
兵士を残し、民を残し、夢を後にして──
再びヨーロッパの嵐の中心へと帰還する。
それは「敗北」ではなかった。
それは、“皇帝への助走”の終わりだった。