第7章 総裁政府と名声の帰還──イタリア戦線からの栄光(1797年〜1798年・28〜29歳)
──1797年春。
北イタリアを駆け抜けた嵐は、ひとつの都市に終着していた。ミラノ。
ナポレオン・ボナパルトの軍旗のもと、フランス軍はこの古都を制圧した。だが、それは「占領」ではなかった。解放だった。
「あなたは皇帝か? それとも革命の聖者なのですか?」
老いた市民が問うたとき、ナポレオンは笑みすら浮かべなかった。
「私はただの将軍だ。……ただし、未来を見ている将軍だ」
この頃、ナポレオンはもはや単なる軍事司令官ではなかった。
税を定め、行政を整え、共和国の法と秩序を現地に根づかせていた。
まるで一国の元首のように。
カンポ・フォルミオの村で、オーストリアとの講和会議が行われた。
本来なら、フランス政府の正式な外交団が結ぶべき条約だった。
だが──ナポレオンは、自らペンを取り、名を記した。
「カンポ・フォルミオ条約」──一将軍の手によって結ばれた和平条約。
この条約によって、オーストリアはライン左岸をフランスに割譲し、イタリア北部は事実上ナポレオンの支配下となった。
それは戦争の終わりではなく、英雄神話の始まりだった。
そして彼は、帰国した。
1797年12月、パリ。
長らく戦争に疲弊していた民衆は、戦勝将軍の凱旋を熱狂で迎えた。
街には「ナポレオン将軍万歳!」の声があふれ、子供たちは小さな帽子をかぶり、女たちはバルコニーから花を投げた。
「共和国はあなたによって救われました!」
「ナポレオンこそ、フランスだ!」
だが、彼が目にしたのは──その熱狂の背後で冷たく沈む政界の目だった。
総裁政府の議事堂。
バラス、シエイエス、カンバセレス──
ナポレオンは彼らと握手を交わしながら、心中で計算していた。
(この国には“政治家”はいる。だが、“指導者”はいない)
祝賀会の夜、バラスがグラスを掲げた。
「将軍、君のおかげで我々は共和国を保った。
イタリアでの政治手腕も、なかなか見事だったようだな」
ナポレオンは、礼儀正しくうなずいた。
「兵士たちが命を懸けた成果です。私は彼らの声を運んだだけ」
「だが……将軍が外交までやるとなると、我々の立場がなくなるな」
それは、冗談に見せかけた牽制だった。
だがナポレオンの目は、一瞬も笑っていなかった。
「共和国に立場は不要です。必要なのは、力と結果だけです」
その場に、わずかに冷たい沈黙が走った。
ジョセフィーヌと再会したのは、数日後だった。
彼女は相変わらず社交界の中心にいた。香水と笑い声の渦のなかで、彼女は変わっていなかった。
「まあ、ナポレオン。こんがり焼けて、すっかり兵隊らしくなったわね」
「君は、少しも変わっていない。そこだけが……安心だ」
言葉は穏やかだったが、その瞳はどこか寂しげだった。
戦地から毎日のように送り続けた手紙。それに対する返事は、あまりにも淡白だった。
ナポレオンは、彼女の頬に触れながらも、心の奥で何かが離れていくのを感じていた。
その夜、彼はひとり、国民公会の広場を見下ろすバルコニーに立った。
民衆はまだ、彼の名前を叫んでいる。
「ナポレオン! 我らの将軍! 共和国の光!」
だが、彼の目はその群衆の先──未来を見ていた。
(彼らは私のために叫んでいるのではない。
彼らは、“信じられる者”を求めているのだ)
自分がその対象であるという事実に、恐れはなかった。
むしろ、自らの存在が、国家そのものに近づいていることを感じていた。
数日後、ナポレオンはバラスから打診を受ける。
「東方遠征計画」──エジプトへの軍事作戦。
それは、ナポレオンをパリから遠ざけるための巧妙な配置でもあった。
「東へ向かえば、君はさらに名を上げるだろう。
だが……西を見れば、共和国の屋根が傾いていることにも気づくだろう」
バラスの言葉に、ナポレオンは静かに答えた。
「傾くなら、いっそ倒れてくれた方がいい。
そのとき初めて、建て直す者の役割が生まれるのです」
それが、彼の本音だった。
ナポレオンは、すでに政治を見限っていた。
いや、“征服”の対象として見つめ始めていたのだった。
そしてそのとき、彼の胸の内には、もはや「共和国」という言葉は残っていなかった。
あったのは、「秩序」「安定」、そして──「帝国」。
彼の旅路は、ついにフランスの枠組みそのものを揺るがす地点へと達しようとしていた。