第5章 恋と出世──ジョセフィーヌとの結婚(1796年・27歳)
──1795年の冬、パリ。
革命の余熱が冷めやらぬ首都の空には、灰色の雲が重く垂れ込めていた。
だがその一方で、社交界はいつものように華やかだった。宮殿こそ失われたが、人々の欲望と駆け引きは、むしろ自由の名のもとに活気を帯びていた。
その夜、ナポレオン・ボナパルトは、共和国の実力者ポール・バラスに招かれて、ある小さなサロンを訪れた。
ワインと音楽、笑い声が交錯する中で、彼の視線をひときわ奪った存在があった。
──ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。
バラスの愛人とも噂されるその未亡人は、華やかで、艶やかで、そしてどこか寂しげな眼をしていた。
優雅に笑い、肌を包む絹の動きすら計算されたような所作。
そのすべてが、粗削りな軍人ナポレオンには眩しく、未知だった。
「ボナパルト将軍。わたくしのこと、ご存じないでしょうけれど……」
「いいえ。あなたの噂なら、パリ中に届いています」
そう返したとき、ジョセフィーヌの笑みがわずかに崩れた。
その微細な変化に、ナポレオンは心を奪われた。
数日後、彼は自らの筆で彼女に手紙を書いた。
それは熱情と不器用さが入り混じった、まるで少年のような告白だった。
「あなたは私の魂を奪いました。
あなたの声を聞かぬ夜は、戦場よりも冷たい。
あなたの不在は、わたしの敗北です──」
だが、ジョセフィーヌはその手紙にすぐには返事を寄越さなかった。
返ってきたのは、短く、笑いを含んだ文面だった。
「詩人になられるおつもり? それとも、軍人として私を落とす気?」
ナポレオンは傷ついた。だが、引かなかった。
彼にとって、戦場と恋は同じだった──獲得するか、敗れるか。そのどちらかしかない。
彼女は遊びだったのかもしれない。
若く、名声を得たばかりの野心家。少し戯れてやれば喜ぶ男。
だがジョセフィーヌの読みは外れた。ナポレオンは、本気だった。
彼は求婚した。正式に、真摯に、そして誰の反対も顧みずに。
「なぜそこまで?」と友人に問われたとき、ナポレオンは答えた。
「彼女は私の知るどんな戦場よりも、難しく、美しい。
それに……彼女が“ナポレオン将軍の妻”と呼ばれる未来を、私はもう見てしまった」
1796年3月9日、パリ。
冷たい霧の中で、二人は静かに婚姻届に署名した。
証人はわずか。祝福も少なかった。
周囲は揃って懐疑的だった。
「ジョセフィーヌは遊び人だ」「彼女は将軍を飽きたら捨てる」
そうした声が、ナポレオンの耳にも届いていた。
それでも彼は彼女の手を取り、愛の言葉をささやいた。
「君は、わたしの帝国の最初の旗だ」
ジョセフィーヌは微笑みながら、唇の端でこう返した。
「では、捨てられる前に、大切にしてね。旗は、燃えやすいものよ」
その笑みの裏に何があったのか、ナポレオンにはわからなかった。
だが、彼は信じた──いや、信じたかったのだ。
この女が、自分を“人間”にしてくれると。
結婚から数日後、ナポレオンに一通の辞令が届く。
「イタリア方面軍司令官に任ず」
若干26歳の軍人が、共和国軍の主戦線を任された。
だがそのとき、彼の心は喜びとともに、焦りにも似た衝動に包まれていた。
「これが証明の機会だ。
わたしが戦場で勝てば、彼女は……いや、世界は、わたしを選ばざるをえなくなる」
野望と恋が、ナポレオンの中で融合していた。
彼にとって、勝利は愛のための手段であり、愛は勝利を支える燃料だった。
ジョセフィーヌを振り向かせたい。
彼女に選ばれる男でいたい。
そのためなら、山を越え、帝国を築いてもいい。
1796年春、ナポレオンはイタリア戦線へと向かう。
別れの朝、彼は馬上から、ジョセフィーヌの手に口づけた。
「君の名を叫ぶ日は、すべての戦いの前夜だ」
「なら、あまり叫ばないで。耳が痛くなるわ」
そう言って彼女は笑った。
その笑顔の真意を、ナポレオンは読みきれなかった。
だが、心の奥底で確信していた。
──この女を得るには、世界を手に入れるしかない。
そして彼は、その世界を目指して馬を駆る。
愛と征服の物語が、いま始まろうとしていた。
ナポレオンがジョゼフィーヌと結婚したのは、恋愛感情と政治的打算が重なった結果だった。
彼女は旧貴族の未亡人で社交界に強い人脈を持ち、特に政界の有力者バラスとの関係が、ナポレオンの出世にとって有利だった。
ナポレオンは彼女に熱烈な恋をしていた一方で、上流社会への足がかりとしてこの結婚を重視していた。
ジョゼフィーヌも当初は彼を軽んじていたが、将来性を見込んで再婚に応じた。