第4章 パリと運命の出会い──ジョゼフィーヌとの出会い(1795年・26歳)
──1795年10月5日。革命暦ではヴァンデミエール13日。
その日、パリは火薬のにおいと緊張に包まれていた。
バスティーユが落ちてから6年、ルイ16世の首が落ちてから2年。
フランスの首都は今、新たな混乱の渦中にあった。
王党派の民兵、およそ4万人が首都に集結し、国民公会を包囲しようとしていた。
彼らは「革命は終わった」と主張し、「王制復古」を声高に叫びながら、銃を手に通りを埋め尽くしていた。
それに対して、共和政府の正規軍はわずか数千。
しかも士気は低く、士官の多くは失脚か粛清を恐れて沈黙していた。
政府の中枢に立つ実力者──ポール・バラスは、最後の切り札として一人の名を呼び寄せた。
「ナポレオン・ボナパルト……あの若造を呼べ」
その頃のナポレオンは、トゥーロンでの戦功後、政治的事情に巻き込まれて冷遇され、軍の現場から遠ざかっていた。
失意の中、書物と地図に囲まれながら、自らの行き場を探っていた。
そんな彼に突如届いた政府からの召喚状。
バラスの私邸に招かれた彼は、簡潔な口調で任務を聞かされる。
「民兵4万が明日には突入する。こちらは正規兵わずか3000。
お前に、パリ防衛の砲兵指揮を任せる。──できるか?」
ナポレオンは目を細めた。
そして、まるで当たり前のことのように、即答した。
「できます。……ただし、条件があります」
「何だ?」
「砲を、市街地に向けさせてください。
民衆が通るであろう通りを、あらかじめ封鎖し、狙撃位置を決め、要所に大砲を設置します」
「……つまり、パリ市民に砲撃するつもりか?」
「そうです。撃たなければ、共和国が終わります。
撃てば、秩序は残る」
沈黙が流れた。
バラスは、その若者の眼差しの奥に、血ではなく理性の炎を見た。
「……よかろう。すべて任せる」
ナポレオンは直ちに動いた。
歩兵と砲兵を再配置し、パリ中心部の交差点を押さえさせた。
ルーブル周辺、サン・トノレ通り、トゥイルリー広場──
彼の読みは、敵が「広く散開し、群集として集まる」ことを前提にしていた。
「密集する前に、撃つ。
一度の衝撃が、十の説得に勝る」
深夜、砲兵たちが市街に大砲を引きずり込む音が、石畳に響いた。
一部の市民はその異様さに不安を抱いたが、兵士たちは黙々と作業を続けた。
夜明け前、空は鈍い灰色に染まっていた。
午前8時、王党派の主力が動き始めた。
「共和国打倒!」の声と共に、彼らは押し寄せた。
銃声、叫び、太鼓の音。
無数の民兵が通りを埋め、共和国政府のあるチュイルリーへと向かってきた。
その瞬間──
「撃て」
ナポレオンの命令は、鋭く、迷いなかった。
轟音がパリの空を裂いた。
砲弾は通りを駆ける群集を直撃し、数十人が吹き飛んだ。
悲鳴と怒号が重なり、次々と砲火が火を噴いた。
民兵たちは混乱し、止まり、後退を始めた。
が、ナポレオンは追撃を命じた。
「ここで止めなければ、奴らは戻ってくる」
狙撃兵が屋上から撃ち下ろし、騎兵が反転した敵を包囲する。
わずか数時間で、民兵の主力は潰走。
パリの蜂起は、完全に鎮圧された。
──共和国は救われた。
だがその代償は、市街地に血を流すという行為だった。
事件後、バラスはナポレオンに向かってこう言った。
「お前は民衆に砲を向けた。だが、それで共和国が救われた。
お前は“必要な悪”だったのだ」
ナポレオンは一礼し、ただ一言だけ返した。
「それでいいと思っています」
彼にとって、民衆とは守るべき存在ではなく、導くべき力だった。
それが暴徒化すれば、秩序と国家の敵となる。
秩序のために、力を行使すること。
それがナポレオン・ボナパルトという男の「正義」だった。
この事件により、ナポレオンは再び注目を集める。
共和政府の公式文書に記された功績、新聞による報道。
パリ中に「民兵を粉砕した若き砲兵将校」の名が知れ渡った。
その後、バラスの紹介で出会ったのが──ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。
優雅で社交界に通じた未亡人。ナポレオンとは対照的な存在だったが、彼の野心にどこか惹かれていく。
この出会いが、のちに運命を大きく変えるとは、まだ誰も知らなかった。
一つの蜂起が、
一つの砲声が、
一人の軍人を、「歴史の扉」へと押し出した。
彼の名は、すでにフランス全土に響き始めていた。
ナポレオン・ボナパルト──
カリスマの誕生が、ここにあった。
ナポレオンとジョゼフィーヌが初めて出会ったのは1795年10月、パリの「藁葺き屋根の家(La Chaumière)」と呼ばれるタリアン夫人の邸宅での夕食会。この邸宅は、当時のパリ社交界の中心地の一つであり、多くの政治家や文化人が集うサロンとして知られていた。
招待主は新政府の実力者バラス。軍功により同席したパリ防衛部隊司令官ナポレオン・ボナパルトは、質素な服装で目立たなかったが、その鋭いまなざしと独特の話しぶりがジョゼフィーヌの心に残り、やがて二人の親密な関係が始まることになる。