第3章 大砲と地図──トゥーロンの英雄誕生(1793年・24歳)
1793年──
秋も深まった頃、フランス南部の港町トゥーロンには、濃い火薬の匂いと絶え間ない砲声が渦巻いていた。
この地を巡る攻防は、単なる地方の戦争ではなかった。
フランス革命に反発する王党派が、英国・スペイン・サルデーニャと手を組み、港湾都市トゥーロンを制圧したのである。
港には連合艦隊が停泊し、要塞は敵軍によって完全に武装されていた。
この反乱に対し、共和政府は包囲軍を派遣したが、指揮系統は乱れ、現地の状況は泥沼化していた。
そこに、名もなき一人の砲兵将校が着任した。
ナポレオン・ボナパルト、年齢24歳。階級は大尉。
誰も彼を知らず、彼に期待する者もなかった。
着任早々、ナポレオンは地図を投げ捨てた。
「この作戦計画は無価値だ。肝心の地形が抜け落ちている」
周囲の参謀たちは呆気にとられた。大尉にすぎぬ若造が、司令部の図上演習を一蹴したのだ。
だが、ナポレオンは一人で馬を走らせ、風に舞う砂塵の中、実地で地形を読み、陣地の配置を緻密に記録した。
彼が着目したのは、港を見下ろす一つの岬──リュガ岬。
そこを制すれば、英艦隊の停泊地点を直接砲撃でき、補給線を断てる。
「戦場を動かす鍵は、ここにある。真正面から城壁を叩くなど、無能の戦だ」
その言葉に、最初は誰も耳を貸さなかった。
だが、砲撃戦が行き詰まるにつれ、ナポレオンの理論は無視できないものとなっていった。
ナポレオンは、自ら砲兵中隊を率いて、リュガ岬に秘密裏に砲台を構築した。
木箱と布で覆い、夜のうちに装備を移動させる。兵士たちは不眠不休で作業を続けた。
「なぜ俺たちがこんな無茶を……」と不満を漏らす兵もいた。
だが、ナポレオンは一人一人に言葉をかけ、時に水を運び、時に自ら槌を振った。
上官が汗を流す姿に、兵たちは次第に黙して従うようになった。
「ここで眠る暇があったら、墓でゆっくり休める。
だが勝てば、明日の朝日はお前たちのものだ」
その言葉は、兵士たちの魂に火を灯した。
ついに、夜明け前──
ナポレオンの指揮する砲台が一斉に火を吹いた。
狙いは港に停泊する英国艦隊の補給船群。そしてリュガ岬の敵前哨地。
連合軍は完全に不意を突かれ、混乱に陥った。
続いて、ナポレオンが要求した歩兵部隊が丘を駆け上がり、要塞を制圧する。
砲火の中、煙と血に塗れた戦場の中心で、ナポレオンは冷静に指揮を執っていた。
兵士の損耗、砲弾の残数、風向き、敵の動き──すべてを把握し、絶えず次の手を打ち続けた。
数時間後、リュガ岬は完全に陥落した。
その一報が届いたとき、共和政府の使節であったバラスは驚嘆した。
「誰だ、この砲兵将校は?」
彼は直ちにナポレオンを召喚し、戦功を讃えた。
「お前の判断がなければ、我々はこの戦に敗れていた。共和国はお前を忘れぬ」
この戦功により、ナポレオンは一挙に准将へ昇進する。
24歳にして、将官の列に名を連ねたのだった。
勝利のあと、街では共和軍のパレードが行われた。
だがナポレオンはそこに姿を見せなかった。
彼は破壊された砲台の近くに一人立ち、燃え残った地図を握っていた。
その眼差しは、勝利の喜びではなく、もっと先を見据えていた。
「戦争とは、ただの殺戮ではない。
それは、国家を形づくる技術だ。
そして──わたしは、それを誰よりも理解している」
風が吹いた。
遠く海から吹き込む冬の風は、どこか祝福のようでもあり、警告のようでもあった。
トゥーロンの砲声は、ひとりの若き軍人の名前を、共和国中に響かせた。
だが、これはまだ序章にすぎなかった。
ナポレオン・ボナパルトという名の嵐は、これからフランスを、そしてヨーロッパ全土を巻き込んでゆくのだ──
24歳のナポレオン・ボナパルトは、砲兵隊の副司令官として現地に着任。港を制圧する鍵は「高地の砲撃支配」にあると見抜いた。
「エグイエット高地」などを奪取し、夜間攻撃と奇襲を組み合わせた緻密な砲兵運用で敵艦を砲撃。連合軍は撤退し、共和国軍が勝利した。
この功績により、ナポレオンは准将に昇進し、名声を得た。




