表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/23

終章 孤島セントヘレナ──ナポレオン最後の日々 (1821年5月5日没・今から204年前)

南大西洋のどこまでも深く沈むような蒼い海に、その島はあった。

セントヘレナ──海図に描かれた小さな点。だがこの孤島こそ、かつてヨーロッパを席巻した男の終焉の地である。


ロングウッド・ハウスの一室。分厚いカーテンに包まれた寝台の上、ナポレオン・ボナパルトは枕元に積まれた書物の山に囲まれていた。『カエサル伝』、『戦争論』、そして自らの回顧録。

体はやせ細り、呼吸は浅い。それでもその目には、今も燃えるような意志の残滓が灯っていた。


「……マレンゴ、ウルム、アウステルリッツ……すべては、戦場の霧の中に消えたか」


わずかに震える声で、ナポレオンは呟く。かつては百万人の兵を意のままに操った男が、今や庭の小径の整備すら思うに任せぬ。だが、世界を震撼させた彼の精神は、未だ自己の名を記憶していた。


ラス・カーズが筆をとって傍らに座っていた。忠実なる秘書、そして記録者。彼の役目は、ナポレオンが死ぬまでの間に、偉大なる生涯を言葉として遺すことだった。


「……ラス・カーズ。私の墓標には、こう記してくれ」


ナポレオンの声が、わずかに強さを取り戻す。


「『フランスのために生き、フランスのために死した者』……それだけでいい」


「陛下……よろしいのですか。皇帝であったことも、戦争の勝利も、なにも……」


「よいのだ。称号など、石とともに朽ちる。だが志は、記憶となって人の心に残る」


ナポレオンの手が、かすかに伸びて、夜机の上の地図をなぞる。指先がイタリア、エジプト、ロシア、そしてワーテルローをたどって止まった。


「私は、あの時……まだ夢を見ていたのだ。すべてを制し、すべてを導く夢を」


彼の視線の先には、セントヘレナの空があった。雲は重く、風はぬるく、雨の気配が漂っていた。


かつて彼の命令で大陸が動いた。王たちは震え上がり、革命の民は歓呼した。だが今、この島で彼を恐れる者は一人としていない。


「私が偉大だったかどうか、それを決めるのはお前たちの時代ではない」

「いつか歴史が裁くだろう」


ラス・カーズが、しっかりとその言葉を記録にとどめる。

ナポレオンは目を閉じる。夢の中には、白銀の戦場が広がっていた。

背後には衛兵たちの整列する音、前方には敵将たちの混乱する影、そしてその真ん中に立つ、自らの姿。


「……フランス……軍隊……軍の頭……ジョゼフィーヌ……」


その囁きは、まるで雪の中に落ちる羽根のようだった。


彼の亡骸を包むシーツは白く、ひとりの兵士としての最期を迎えるかのようだった。

彼の最期を見届けた若き英兵は、ぼんやりと呟いた。


「この男は……もう一度、名を残すだろう。きっと」


空にはひとつ、薄く光る星があった。

それは、皇帝の魂が帰る場所を示すかのように──。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ