終章 孤島セントヘレナ──ナポレオン最後の日々 (1821年5月5日没・今から204年前)
南大西洋のどこまでも深く沈むような蒼い海に、その島はあった。
セントヘレナ──海図に描かれた小さな点。だがこの孤島こそ、かつてヨーロッパを席巻した男の終焉の地である。
ロングウッド・ハウスの一室。分厚いカーテンに包まれた寝台の上、ナポレオン・ボナパルトは枕元に積まれた書物の山に囲まれていた。『カエサル伝』、『戦争論』、そして自らの回顧録。
体はやせ細り、呼吸は浅い。それでもその目には、今も燃えるような意志の残滓が灯っていた。
「……マレンゴ、ウルム、アウステルリッツ……すべては、戦場の霧の中に消えたか」
わずかに震える声で、ナポレオンは呟く。かつては百万人の兵を意のままに操った男が、今や庭の小径の整備すら思うに任せぬ。だが、世界を震撼させた彼の精神は、未だ自己の名を記憶していた。
ラス・カーズが筆をとって傍らに座っていた。忠実なる秘書、そして記録者。彼の役目は、ナポレオンが死ぬまでの間に、偉大なる生涯を言葉として遺すことだった。
「……ラス・カーズ。私の墓標には、こう記してくれ」
ナポレオンの声が、わずかに強さを取り戻す。
「『フランスのために生き、フランスのために死した者』……それだけでいい」
「陛下……よろしいのですか。皇帝であったことも、戦争の勝利も、なにも……」
「よいのだ。称号など、石とともに朽ちる。だが志は、記憶となって人の心に残る」
ナポレオンの手が、かすかに伸びて、夜机の上の地図をなぞる。指先がイタリア、エジプト、ロシア、そしてワーテルローをたどって止まった。
「私は、あの時……まだ夢を見ていたのだ。すべてを制し、すべてを導く夢を」
彼の視線の先には、セントヘレナの空があった。雲は重く、風はぬるく、雨の気配が漂っていた。
かつて彼の命令で大陸が動いた。王たちは震え上がり、革命の民は歓呼した。だが今、この島で彼を恐れる者は一人としていない。
「私が偉大だったかどうか、それを決めるのはお前たちの時代ではない」
「いつか歴史が裁くだろう」
ラス・カーズが、しっかりとその言葉を記録にとどめる。
ナポレオンは目を閉じる。夢の中には、白銀の戦場が広がっていた。
背後には衛兵たちの整列する音、前方には敵将たちの混乱する影、そしてその真ん中に立つ、自らの姿。
「……フランス……軍隊……軍の頭……ジョゼフィーヌ……」
その囁きは、まるで雪の中に落ちる羽根のようだった。
彼の亡骸を包むシーツは白く、ひとりの兵士としての最期を迎えるかのようだった。
彼の最期を見届けた若き英兵は、ぼんやりと呟いた。
「この男は……もう一度、名を残すだろう。きっと」
空にはひとつ、薄く光る星があった。
それは、皇帝の魂が帰る場所を示すかのように──。




