第13章 トラファルガーの暗雲──海を奪われた皇帝(1805年・36歳)
1805年、秋。
ブローニュの海岸には、およそ15万人の兵士が待機していた。
彼らは帝国軍の最精鋭――イギリス本土を侵攻するために集められた「ブローニュ軍団」である。
その背後には、数千頭の馬、数百門の大砲、物資を積んだ荷車が延々と列を成していた。
ナポレオンは海を渡る準備を整え、ただ「その時」を待っていた。
だが、その「時」は、訪れることはなかった。
「海が渡れないのだ。艦隊が、来ない」
ナポレオンは執務天幕の中で、地図の上を睨みつけながら呟いた。
イギリス上陸には、制海権が必要だった。
だが、フランス単独では制海権を確保できない。
ゆえにナポレオンは、遠くカリブ海にいたスペイン艦隊と自軍のトゥーロン艦隊を合流させ、英仏海峡まで一気に駆け上がるという奇策に出た。
この大胆な海上作戦を阻止すべく立ちはだかったのが、ホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊である。
海戦の天才。
指揮下の艦は劣勢でも、彼の策と意志が勝利を引き寄せてきた。
10月21日、スペイン南西沖、カディスの外にあるトラファルガー岬沖――
運命の海戦はここで始まった。
イギリス艦隊27隻。
フランス・スペイン連合艦隊33隻。
数の上では有利。
だが、連携も練度も、そして指揮統一もない連合艦隊に、ネルソンは一言で十分だった。
「敵の中を突き切れ。混乱させろ。砲火はその後だ」
イギリス艦隊は縦陣で突進し、敵艦の間を裂いて侵入した。
それは戦列艦同士の定石を破る、命がけの奇襲だった。
だが、それこそがネルソンの戦い方だった。
旗艦「ヴィクトリー」に砲弾が飛ぶ。
帆が裂け、マストが折れ、船体が火を噴く。
だが、ネルソンは動じなかった。
「イングランドは各員がその義務を尽くすことを期待する」
その有名な信号が艦上に掲げられたとき、イギリス艦隊の士気は限界を超えていた。
一方、連合艦隊は混乱を極めた。
フランス艦とスペイン艦が交錯し、指示が届かず、砲声が敵味方を区別せずに響いた。
数時間後、艦の多くが炎上し、海に沈んだ。
遠くフランス北部・ブローニュの浜辺。
ナポレオンは、海上から戻った斥候将校の報告を受けていた。
「壊滅的です。ヴィルヌーヴ提督は捕虜に。『ブケナヴェントゥール』以下、主力艦のほとんどが沈没。ネルソンは戦死した模様ですが……」
報告の途中で、ナポレオンは静かに手を挙げて止めた。
「……もういい」
その一言は、勝敗ではなく、喪失の宣言だった。
彼の眼差しは、水平線の向こうを捉えていた。
風も波もない、ただの蒼い空と海――だがそこには、フランスの未来が見えていた。
「海を、我々は失ったのだ」
ネルソンは、戦死した。
敵の英雄がこの世を去っても、ナポレオンはそれを喜ばなかった。
「彼は、イギリスそのものだった。……私のように、国家と一体化した人間だった」
敵将に対する最大の敬意と、己との照応。
それは、かつてアウステルリッツで自ら語った「太陽王の再来」などという言葉よりも、はるかに苦い真実だった。
「この手で、海を治めることはできぬ。
ならば、大地を掴み取るしかない」
彼はイギリス上陸を断念し、陸路で大陸の制圧へと向かう。
以後、彼の軍事戦略は完全に「地上戦」に舵を切る。
この転換が、やがてロシア遠征、大陸封鎖令、ナショナリズムの覚醒といった複雑な渦を生むことになる。
この日、フランスは「皇帝の夢」の一部を永遠に喪った。
同時に、「ヨーロッパの覇権」という別の夢へと足を踏み入れたのだった。
夜、ナポレオンは独り、ブローニュの軍営を歩いた。
海の匂いが風に混じる。
遠く、黒い水平線の向こうで、沈没した艦の破片が波に揺られていた。
見えぬはずのその光景が、彼にははっきりと見えていた。
「この帝国に、海はない。……ならば、陸をすべて手に入れるまで」
つぶやきは、潮騒に消えていった。




