表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/23

第13章 トラファルガーの暗雲──海を奪われた皇帝(1805年・36歳)

1805年、秋。

ブローニュの海岸には、およそ15万人の兵士が待機していた。

彼らは帝国軍の最精鋭――イギリス本土を侵攻するために集められた「ブローニュ軍団」である。


その背後には、数千頭の馬、数百門の大砲、物資を積んだ荷車が延々と列を成していた。

ナポレオンは海を渡る準備を整え、ただ「その時」を待っていた。


だが、その「時」は、訪れることはなかった。


「海が渡れないのだ。艦隊が、来ない」


ナポレオンは執務天幕の中で、地図の上を睨みつけながら呟いた。


イギリス上陸には、制海権が必要だった。

だが、フランス単独では制海権を確保できない。

ゆえにナポレオンは、遠くカリブ海にいたスペイン艦隊と自軍のトゥーロン艦隊を合流させ、英仏海峡まで一気に駆け上がるという奇策に出た。


この大胆な海上作戦を阻止すべく立ちはだかったのが、ホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊である。

海戦の天才。

指揮下の艦は劣勢でも、彼の策と意志が勝利を引き寄せてきた。


10月21日、スペイン南西沖、カディスの外にあるトラファルガー岬沖――

運命の海戦はここで始まった。


イギリス艦隊27隻。

フランス・スペイン連合艦隊33隻。


数の上では有利。

だが、連携も練度も、そして指揮統一もない連合艦隊に、ネルソンは一言で十分だった。


「敵の中を突き切れ。混乱させろ。砲火はその後だ」


イギリス艦隊は縦陣で突進し、敵艦の間を裂いて侵入した。

それは戦列艦同士の定石を破る、命がけの奇襲だった。


だが、それこそがネルソンの戦い方だった。


旗艦「ヴィクトリー」に砲弾が飛ぶ。

帆が裂け、マストが折れ、船体が火を噴く。

だが、ネルソンは動じなかった。


「イングランドは各員がその義務を尽くすことを期待する」


その有名な信号が艦上に掲げられたとき、イギリス艦隊の士気は限界を超えていた。


一方、連合艦隊は混乱を極めた。

フランス艦とスペイン艦が交錯し、指示が届かず、砲声が敵味方を区別せずに響いた。


数時間後、艦の多くが炎上し、海に沈んだ。


遠くフランス北部・ブローニュの浜辺。

ナポレオンは、海上から戻った斥候将校の報告を受けていた。


「壊滅的です。ヴィルヌーヴ提督は捕虜に。『ブケナヴェントゥール』以下、主力艦のほとんどが沈没。ネルソンは戦死した模様ですが……」


報告の途中で、ナポレオンは静かに手を挙げて止めた。


「……もういい」


その一言は、勝敗ではなく、喪失の宣言だった。


彼の眼差しは、水平線の向こうを捉えていた。

風も波もない、ただの蒼い空と海――だがそこには、フランスの未来が見えていた。


「海を、我々は失ったのだ」


ネルソンは、戦死した。

敵の英雄がこの世を去っても、ナポレオンはそれを喜ばなかった。


「彼は、イギリスそのものだった。……私のように、国家と一体化した人間だった」


敵将に対する最大の敬意と、己との照応。

それは、かつてアウステルリッツで自ら語った「太陽王の再来」などという言葉よりも、はるかに苦い真実だった。


「この手で、海を治めることはできぬ。

ならば、大地を掴み取るしかない」


彼はイギリス上陸を断念し、陸路で大陸の制圧へと向かう。

以後、彼の軍事戦略は完全に「地上戦」に舵を切る。


この転換が、やがてロシア遠征、大陸封鎖令、ナショナリズムの覚醒といった複雑な渦を生むことになる。


この日、フランスは「皇帝の夢」の一部を永遠に喪った。

同時に、「ヨーロッパの覇権」という別の夢へと足を踏み入れたのだった。


夜、ナポレオンは独り、ブローニュの軍営を歩いた。

海の匂いが風に混じる。


遠く、黒い水平線の向こうで、沈没した艦の破片が波に揺られていた。

見えぬはずのその光景が、彼にははっきりと見えていた。


「この帝国に、海はない。……ならば、陸をすべて手に入れるまで」


つぶやきは、潮騒に消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ