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第12章 皇帝、冠を戴く──帝政の光と影(1804年・35歳)

1804年12月2日、パリ──

ノートルダム大聖堂には、万雷の鐘の音が鳴り響いていた。


石造りの大聖堂には、全フランスが息を呑んで見守る中、壮麗な戴冠の儀式が執り行われようとしていた。

民衆は興奮し、貴族は黙して立ち会い、教会の権威すら、この場では脇役に過ぎなかった。

なぜなら、今日ここで、ひとりの男が神の代理人ではなく、自らの手によって皇帝となろうとしていたからである。


ナポレオン・ボナパルト──

軍人として戦場に立ち、革命の混乱を鎮め、法と秩序を築き上げた男が、ついに「皇帝」の名を戴く。


前年、彼は終身統領となり、すでにフランス国内では実質的な支配者であった。

だが彼は、それでは満足しなかった。統領では不十分だったのだ。


「国家に永続を。フランスに安定を。革命に終止符を打つには、象徴が必要だ」


そう語った彼の眼差しに宿っていたのは、もはや軍人の情熱ではなかった。

国家そのものを自身に重ねる、皇帝としての意志であった。


そして国民投票──

信じられぬことに、投票者の99%以上が彼の皇帝就任に賛成した。


この結果が本当に民意であったかどうかは問題ではなかった。

民は混乱を終わらせる力強い存在を望み、それをナポレオンに重ねたのだ。


戴冠式当日、教皇ピウス七世はローマから遠路はるばるやってきていた。

本来、教皇は君主に王冠を授けることで、その正統性を保証する。

だがこの日、儀式の中心にいたのは教皇ではなかった。


ナポレオンは荘厳な式の中、教皇が差し出した皇帝の冠を、そっとその手から受け取った。


そして――


自らの手で、その冠を自らの頭に戴いた。


教皇も、枢機卿も、側近たちすら言葉を失った。

世界はその瞬間を目撃する。


「権威は、神から与えられるものではない。

それは、己の手で勝ち取り、己で背負うものだ」


それが彼の宣言だった。


続いて、彼はジョセフィーヌに近づき、もう一つの冠をその額に乗せた。

人々はそれを「愛の戴冠」と讃えたが、ナポレオンの瞳はどこか遠くを見ていた。


「私は、共和の崩壊ではない。

革命の理念を、永遠の秩序へと昇華させる者だ」


彼はそう言い切った。

だが、彼の前にひれ伏したのは貴族であり、官僚であり、かつて処刑されたルイ16世の血を受け継ぐ者の残党でもあった。


王の首を切り落とした革命が、今また新たな王を生むという皮肉。

それを意識していなかったわけがない。

ナポレオンは、すべてを理解した上で、この道を選んだ。


「民は、象徴を欲する。剣で守る秩序を、冠で飾ることを求めているのだ」


そう呟いた夜、彼は執務室の天井を見上げ、しばらくペンを止めていた。


戴冠後の日々は、かつてとは異なっていた。


執務室には新たに金の紋章が掲げられ、宮廷には礼儀と格式が戻り、臣下たちは「陛下」と呼び始めた。

だがナポレオンは、そうした表面の変化よりも、心の奥に広がる孤独に戸惑っていた。


「ジョセフィーヌ、私は……皇帝として、人間でなくなる気がする」


彼女は微笑み、手を握り返した。


「あなたが国を背負って歩むなら、私はその影でありたいわ」


しかし、彼の心にあったのは、すでに彼女への情熱ではなかった。

愛は義務に、結婚は制度に変わっていた。


国家を築くとは、私情を断ち切ること。


ナポレオンは、それを理解しながら、なお心を殺す努力をしていた。


「皇帝ナポレオン一世、帝国の礎を築く」


そう書かれた布告が、フランス中に配られた。

新たな法典が起草され、軍の組織が再編され、官僚機構は緻密に整備された。


帝国は確かに動き出していた。


だが──


王冠の重さは、ただの金属の比重ではない。

背負えば背負うほど、足は地面に沈み、心は風を失う。


彼の心には、かつてエジプトの星空の下で抱いた「夢」が、静かに、しかし確かに遠のいていた。


夜更けの執務室で、ナポレオンは一人、少年時代のノートを取り出した。

そこには、粗い筆致でこう書かれていた。


「いつか世界を変える人間になる。

そのために、全てを捨てる覚悟を持つ」


彼は静かに笑った。


「捨ててきたな……ずいぶん、たくさんのものを」


そして、そっとノートを閉じると、机の上に置かれた帝冠を見つめた。


「だが、それでも私は歩く。フランスのために。いや──私自身のために」


その夜、ノートルダムの鐘は鳴り止んでいた。


しかし、ナポレオンの胸の奥には、誰にも聞こえぬ鐘が響いていた。

それは、革命の終焉を告げる鐘ではなく──

帝国の始まりを告げる、静かな、しかし決定的な鐘の音だった。

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