第11章 マレンゴの反撃──剣を携えた統領(1800年・31歳)
「剣を置くには、まだ早すぎる」
そう呟いたナポレオンの眼差しは、雪に覆われた峠の彼方に伸びていた。
1800年5月。フランスの政治は、ようやく秩序を取り戻しつつあった。
終身統領に任命され、国内では「法と秩序の支配者」としての地位を確立したナポレオン。
だが、ヨーロッパの王侯貴族たちは、彼を単なる軍人上がりの簒奪者と見なしていた。
特にオーストリア帝国は、北イタリアに再び軍を進め、革命政府が勝ち取った支配地を奪還していた。
ナポレオンは決断した。
再び、自らが軍を率いる。
「君は統領だ、もう戦場に立つ必要はないのでは?」
そう問う側近に、ナポレオンは即座に首を振った。
「剣なくして国は守れぬ。私は今なお兵士だ。必要ならば、この手で運命を切り開く」
フランス軍の編成は急ピッチで進められた。
ナポレオンが選んだ進軍ルートは、常識では考えられぬものだった。
それは、氷雪に閉ざされたアルプスのグラン=サン=ベルナール峠を越えるという過酷な道だった。
馬も砲も、兵たちも、何日もかけて峠を登った。
峠に立つ修道士たちが見送る中、ナポレオンは堂々と騎乗し、こう叫んだ。
「共和の剣は、山をも越える。イタリアに平和を取り戻す!」
その姿は、のちに画家ダヴィッドによって神格化され、「アルプス越えのナポレオン」として記憶されることとなる。
6月14日。イタリア北部、マレンゴ平原。
朝靄のなか、オーストリア軍が奇襲をかけてきた。
フランス軍はまだ陣地を整えておらず、各部隊は後退を余儀なくされた。
ナポレオンは戦場の中央で状況を把握し、冷静に判断を下す。
「……悪くない。彼らは勝ちを急ぎ、深追いしてくる」
撤退ではない。逆転の布石である。
彼の目には、すでに勝利の布陣が浮かんでいた。
だが、劣勢の中、部下の誰もが不安を募らせる。
そのなかで、ただ一人、彼の意図を読み取って動いた者がいた。若き将軍──ルイ・シャルル・アントワーヌ・デセーである。
「ナポレオン閣下、私に最後の一手を打たせてください」
彼は二千の増援を率いて、激戦の戦場に現れた。
フランス軍が後退し、敵が隊列を崩したその瞬間──
デセーの部隊が、右翼から一斉に突撃をかけた。
ナポレオンは即座に中央部に砲兵を集結させ、歩兵と連携して前線を押し戻す。
次第に戦局は逆転へと傾き、夕刻には完全なフランス軍の勝利となった。
だが、その報を聞いたとき、ナポレオンの顔色は一変した。
「……デセーが……?」
彼は、最前線で指揮中に銃弾に倒れていた。
二十七歳の若き才能。ナポレオンが“未来の元帥”と期待を寄せた男。
「勝った……が、あれは、彼の命で得た勝利だ」
彼はしばし言葉を失った。
夜、戦場に残された野営地で。
ナポレオンは一枚の地図を前に座り込んでいた。
勝利の報を伝える特使が来たが、彼は目もくれず、デセーの軍帽を見つめたままだった。
「彼の死は、共和国の栄誉であり、私の痛みでもある。
勝利とは、常に代償の上に成り立つものだ。英雄を失って、私は何を得たのか……」
しかし、その痛みを胸にしまったまま、翌日ナポレオンはパリに向けて勝利の報告を送る。
「統領ナポレオン、自ら軍を率いてオーストリア軍を破る」
その文言が新聞に躍った瞬間、フランスの民衆は歓喜の声を上げた。
統領としての威信は、戦場での勝利によって不動のものとなった。
議会はナポレオンにさらなる権限を与える方向で動き出し、
民衆は「ナポレオンなら国を守る」と信じた。
「統領とは、法の番人である。しかしその手に剣を携えぬ限り、秩序は保てぬ」
パリに戻ったナポレオンは、以前よりさらに強い存在感を放っていた。
彼が席に着くと、すべての者が立ち上がり、膝を折り、沈黙のうちに敬意を表した。
かつての“軍人ボナパルト”は、
“国家の象徴”として、誰よりも強く、誰よりも恐れられる存在となっていた。
ジョセフィーヌは、彼の変化を感じ取っていた。
帰還した夫の中に、かつての優しいまなざしはなかった。
「あなたの心は……もう、どこにもないのね」
その問いに、ナポレオンはただ答えた。
「あるとも。だが、それは一人の男の心ではない。
フランスという名の国が、私の心の全てを占めている」
その夜、ナポレオンは執務室でペンを取り、新たな草案を記し始めた。
それは民法の整備でも、教育改革でもない。
「皇帝」という言葉が、彼の頭の中に浮かび始めていた。
まだ誰にも言ってはいない。だが、彼の歩む先にそれがあるのを、誰よりも彼自身が知っていた。
剣を再び手にしたことで、彼の野望は、再び燃え上がる。
「国家は、勝利を欲している。
ならば、私がそれを、永遠に約束しよう──」
マレンゴの戦い(1800年6月14日)
オーストリア軍、約3万。フランス軍、約2.2万
午前7時頃、オーストリア軍は正面から中央突破を図り、フランス軍を圧迫。
ナポレオン本軍1万2千はマレンゴ村から撤退し、戦線は西のサン・ジュリアーノ・ヴェッキオ近くまで下がっていた。
ただし、左翼の部隊は下げさせなかった。
右翼:将軍ビュトン 約6,000人(砲兵を含む)
左翼:将軍デセー 約6,000人
将軍デセーは、戦場の混乱を伝え聞き、ナポレオンの命令を待たずに自らの判断で進路を北東に転じる。
オーストリア軍3万は、ナポレオン本軍1万2千に完勝したと喜んでいたところに、将軍デセーが側面から突撃。
それに応じて将軍ビュトンの大砲隊がオーストリア主力に砲撃を加え、好機ととらえたナポレオンも反転攻撃に出た。
形勢は一気に逆転し、オーストリア軍は撤退。
【フランス軍】
戦死:約1,100〜1,200人
負傷:約3,500人前後
行方不明または捕虜:約900人
【オーストリア軍】
戦死:約1,200〜1,400人
負傷:約4,000人前後
捕虜:約3,000〜4,000人
大砲・軍旗などの喪失:多数
25歳で将軍となり、ナポレオンを最も尊敬し心酔していた若き将軍。
ナポレオンも、彼を最も信頼していた。
ルイ・シャルル・アントワーヌ・デセー将軍(即死)は、32歳で亡くなった。
彼が生きていれば、歴史は違っていたかもしれない。




