第44話 植え付け
新は晩秋の山を一人で歩いていた。トレッキングコースはクローズしたものの、スキー場はまだオープンしていないのでゴンドラは休止中。バックカントリーのあの聖地を目指すのも歩くしかない。理由は花屋のマスターの言葉にあった。
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秋になって、花屋のマスターから新に、取り置きのスノードロップの球根をどうするのかと問合せが入ったのだ。ユキはスノードロップが咲くあの聖地はもう訪れないと言っていたので、本当に球根が必要なのか良く判らない。しかし、それでは余りにもつれないのでわざわざ新は花屋を訪れ、マスターに言い訳をした。
すなわち、『スノードロップが好きな同級生がいるが、その子が好きなのはバックカントリーに咲く花であって、プランターの花ではない。従って球根は要らないかも知れない』と率直に話した。するとマスターは首を傾げた。
「スノードロップが自生してるって、あんまり聞いた事ないなあ。ヨーロッパならありそうだけど」
「いや、それってその子が球根を植えたそうなんです。6年前だっけに」
「6年? 確かにスノードロップは多年草だけど、普通は3年位しか咲かないんだけどなあ」
「そうなんですか? 3年経ったらどうなるんです?」
「咲かなくなるだけだ。球根に子どもが出来ることあるから、そこから自生するってないことはないけど、普通は子株を手で分けて別に植えるからさ、自然だとどうなるんだろ。聞いた事ないなあ。そこの球根がたまたま長寿種なのかも知れんけどね」
新は考え込んだ。花が咲かなくなったら、ユキの聖地は只の草原になってしまう。何もない草原に、ユキが木に結んだピンク色のリボンだけが色褪せてゆく姿が目に浮かんだ。それはあまりに哀しすぎる…。
「あの、球根10個下さい」
「あ?」
「俺が植えてきます。3年ごとに植え替えます」
「そうかい。毎度ありー」
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こうして晩秋、山は初冬の風情の中を、新は一人で歩いていたのだ。先日の由芽の行方不明事件や、かつてのユキの迷子のこともあるので装備は厳重にした。緊急時のビバークも視野に入れた装備に、移植ゴテ等ガーデニング用品まで背負っている。
聖地の場所は覚えている。実は春以降、時々訪れていたのだ。その都度、あの木に向かって、ユキのパパに向かって手を合わせていた。朝早くに出発した新は、途中何度かの休憩を挟んで、午前中に到着した。
装備を降ろした新は、早速球根を取り出し、地面に穴を掘る。秋の山の夕暮れは早いので、時間に余裕があるとは言えない。地面も花壇ではないので、土は固く、草の間を、既存の球根を傷めないように、慎重に数センチの深さまで掘るので時間がかかる。新は花屋のマスターに聞いた通り、10センチの間隔を空け、掘った穴に丁寧に球根を置いていった。
掘り返した土を穴に掛けて、ボトルに入れて来た水を少しずつ掛ける。マスターは、スノードロップは強い花だから、殆どお世話は要らないとか言ってけど、最初なんだからサービスだよ。
『来春にはきれいな花が咲きますように』
新は最後に木に向かって手を合わせた。それは6年前にこの場所で、新と同じく球根を埋めた元消防団のエースへの追悼と祈念でもあった。
夕暮れが迫る山を新は軽快に降りる。クラストレッキングの日とは異なり、最後まできれいな青空が付き合ってくれた。センターハウス前のバス停で、新はまた山に向かって頭を下げた。