第22話 記憶
その日、春の陽射しの中を柳田孝介は幼い娘と一緒にシュプールを描いていた。バックカントリーに二人の他にスキーヤーはいない。娘は上手くなった。消防団の中でも上級者に数えられる孝介に、難なく付いてくる。体重が軽いのも幸いしているのか、くるくると器用に回り込む。遊び用の橇も持って来たし、これから毎年、こうやって楽しめるな。フェイスマスクの下でにんまりしたその時だった。
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孝介はその気配を俊敏に感じ取った。音でも臭いでもない。強いて言えば空気の流れ、だろうか。孝介は回り込んで止まり、続いて娘も父の横にぴったりと止まる。しかし…
振り返った孝介は一瞬で状況を把握した。雪山のエキスパートとして鳴らしてきた男だ。雪崩のスケール、速度、そして襲われた時に生き延びる確率も。
咄嗟に背負っていた橇を下ろし、娘のスキーのビンディングを外すと、娘を抱えて上げて橇に乗せる、小さなバックパックを頭の下に捩じ込んで、ロープで身体ごと橇に結わえ付けた。最後にバックパックにビーコンを捻じ込む。これで発見が容易になる筈だ。
そして驚く娘の頬を撫でると言った。
「雪崩が来る。逃げろ。大丈夫だ。お前は名前の通り、雪とは友だちだ。きっと助かる」
娘は訳が判らずキョトンとしている。孝介は娘の顔を目に焼き付けると、斜面を睨み、雪崩の方向と少し違えた向きに橇を思い切り蹴り出した。
「ゆきーっ! 生き延びろぉー」
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ユキはその日のことをぼんやり覚えている。父・孝介と出掛けたバックカントリー。7歳にしては上々のテクニックで懸命に父を追いかけた。秋に二人で球根を植えた場所に向かう途中だ。その途中、急に父がスピードダウンし、両手を拡げて止まった。背後を振り返り、背負っていた橇を降ろした。そしてすぐに追いついたユキをいきなり抱き上げたのだ。
なに?どうしたの、パパ?
父はユキのスキー板を外すとそのままユキを橇に寝かせた。父の手が頬をそっと触る。
「雪崩が来る。逃げろ。大丈夫だ。お前は名前の通り、雪とは友だちだ。きっと助かる」
その手の感触とスキーウェアの袖の色模様をユキは今でも覚えている。一瞬後、父はいきなり橇を蹴った。
「ゆきーっ! 生き延びろぉー」
絶叫が聞こえた。
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そのあとの記憶は、流れる青空、眩しい太陽、跳ねる橇。恐怖。それだけだ。
橇が新雪のコブに突き刺さり、間もなくスキーパトロールのスノーモービルがやって来た。スキーパトロールを務める消防団員に抱き上げられたユキにも、遠くに白い雪煙が立ち込めるのがちらっと見えた。