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約束のコンペイトウ

作者: 蒼井日向

 塔台


近所のじいさん、ばあさんはやっとこさここまで歩いている。父の見送りのためだ。

約束を破り遠い地へと行ってしまう父。なぜそこまでして、「お国のため」と言って私の元を離れていってしまうのか。

私はすべてを憎んだ。父も母もこの村の住人も、すべての人を。

「おめでとう」「頑張って」そんな声を皆にかけられる父の様子を見る。

めだいことなんてあるものか。こんなこと、めでたくなんてないやい。心の中にいる本当の私が俯き涙を流す。

 内心「万歳」なんて言えるようなものではなかった。しかし、皆がしていることだ。私がやらないわけにもいかない。涙を流し、父を睨み、両手を掛け声と共に上げる。

「万歳、万歳」と。

 父は最後まで笑っていた。ずっとずっと、歩きながら何度も振り返る彼は笑っていた。

 

            *

「坂本仙太郎はいるか?」凛々しい声が、ざわついていたテントを静かにさせる。皆静まり返ると俯きながらも各々、機嫌の悪そうな顔で隣の者と目で会話をしている。理由は明白だ、声の主は嫌われているのだ。

「はい」私は返事をして立ち上がった。ちらちらと私のことを見る者の視線を感じながらも足を進める。

 声の主の軍服は泥だらけになっている。それだけで私は何を言われるのか悟った。

「もっときびきび動かんか。これだから田舎もんは」呆れ顔ながらに嫌味を吐くこの男は軍を指揮するものだ。この口の悪さから兵士の殆どが彼のことを嫌っている。 

しかし、私は彼のことを嫌いにはならない。この程度の言葉しか知らない者なのだろうと決めているからそこまでイライラすることはないのだ。

「すみません」

「まあいい。これより坂本に命を下す。三隻目の船に乗れ」やはりそうか。予想通りの言葉だ。私は「はい」と言った。それ以外の言葉、態度はお叱りを受けてしまうからだ。

「いつですか」

「明日だ。明日の夜」

「わかりました」

 私がそういうと指揮長はテントから出て行った。まだ何かやり残したことでもあるのだろうか。

 席に着いた私の肘を突付く作磨次郎の顔は納得が言っていないようなものだった。

「次郎、どうした」机の上に組んだ手を乗せる私がそう訊ねると次郎は言った。

「なぜあんなにも平然としていられた。お前にはまだ五歳になったばかりの息子がいるというのに、なぜ出兵を言い渡されても平気な顔をしていられる」次郎は怒っている。私はそう察した。

「だからこそだ。父親が戦場でビクビクとしていた、なんてことが(よし)(さだ)の耳に入ってしまったらアイツにかっこ悪い親だと思われてしまう。それに、この戦に勝って早くアイツの元へ行って、今度こそ約束を果たす、そう決めているからな。ここで顔色一つ変えたところで戦が終わるとも思えない」

「もっともらしいことを言っているが、義定は病気持ちなんだろう? 俺だったら自分の子供がそんな状況なら指揮長が去った後に取り乱していたはずだ。その子の父親は自分だけだからな。そんな自分が戦で命を落とすかもしれない、そう思うのが自然じゃないのか。だから、お前が言っていることに心から納得はいかない」

 それが普通の感覚だろう。

 病弱の息子、義定は見送りのときに必死に自分と闘っていたように見えた。体に取り付く病魔ではない、己の心と。苦しんでいたであろう我が子に言葉をかけられなかた。何といえばわかってくれるだろうか、どう伝えれば悲しませずに済むのか、そればかりを考えていた。その結果、私を睨み続ける彼に声をかけられずただ笑うことしかできずにいた。あの場で泣いてしまえば、見送りに来ていた皆に申し訳なかったからだ。それに、私自身のけじめでもあった。

ここから先の道を歩むためには、未練を断ち切らなければならない。口が裂けても言えないが、お国のためではなく我が子のためだ。この先を生きる我が子が穏やかな世界でくらせるように。

「それでもいいさ。誰かに理解してもらうために戦に来たわけではないからな。でも、死んでしまうかもしれない俺にだって、やれることがまだ残っている」組んでいた手に力が入る。本当は死というものが怖くて仕方がないのだ。しかし、ここに集まる全ての人は皆同じ条件だ。

「何ができるっていうんだ。明日、死んでしまうかもしれないんだぞ」次郎は声を張り上げ、勢いよく机を叩いた。

 テント内にいる者全員が私たちの席を見た。声を張り上げた次郎は「すみませんでした」といって頭を下げた。その様子を見ていた周りの者はまた個々に話を始めた。

「手紙を書く。初代と義定にな。それが俺にできることだ」

「手紙…。確かに死ぬ前にできることだな。しかし、お前はそれで悔いなく人生を終えることができるのか?」

 悔いのない人生。私はそれを聞いて今まで心に押し込めていた感情があふれ出てきそうになった。だが、今更本心をさらけ出したところで何かが変わるわけもない。精一杯の強がりを次郎に見せた。

「それはわからない。そのときにならないとな」鼻から出るような軽い笑いが言葉の後で出た。

「暢気な奴だな、お前は」

「暢気で構わないさ。できることをするだけだ」

そうは言ってみたものの体の奥深くで鈍い痛みを感じた。本心ではないことを言っているから、いや家族のことが頭から離れないからだ。

次郎は「お前を説得しようと思ったけど敵わないよ」と笑っていた。その笑いはどこか寂しげで、ズキンと同じ鈍い痛みをまた感じた。

 その晩、私は紙と鉛筆を持って外に出た。夜風が当たり体は少し冷えている。

あのままテントの中で手紙を書くことはできない、そう思ったからだ。

周りの目が気になるというのもあったが、それ以上に他人の軍服姿を見ていると筆を進めることができないからだ。自分は彼らより先にこの身を投げなければならない、そう思えてならない。手紙を書くにはいらない感情がとめどなくあふれてきそうで、怖かった。

誰でもいいから変わってくれないだろうか・・・・・・。

 情けない感情を抱いたまま空を見上げる。

どこまで続いているのかもわからない空は雲ひとつなく、何千も星がキラキラと輝いていた。

「コンペイトウか・・・・・・」一人、天を仰ぎ見た私は空しさの中そうつぶやいた。

 


             *


「村長さん、どうか頼みます。おらの……おらの旦那の願い叶えてけらいねえべか」母さんは村長の腕をがっしりと掴むと必死になって言った。

村長は首を横に振った。

「それは無理だあ。この村にそんな資金はない」村長の顔は辛そうなものだった。村長も先の戦で息子を失くしている。

「そんな・・・・・・。お願いします。最期の願いくらい叶えてやりてえんだ」母さんは村長の腕を揺すった。村長は参った顔をした。願いを聞き入れるくらいの資金があればひもじい思いを村民にさせることだってない、そう言いたげだ。

「わあからも、おねがい」私は頭を下げた。母さんだけが必死になっている姿を見て、私は心が痛んだのだ。

「そう言われてもなあ」村長は禿げ頭を掻く。

丁度そのとき、村長の元に彼よりも若い男の人がきた。そして、話を聞き終えると村長は母さんの手を振り解いて言った。

「坂本さん、あんた一人を特別扱いするわけにもいかないんだ。署名でもあれば話は違うけどなぁ。兎に角、私は今から会議があるから失礼するよ」村長は私たちに背を向けるとその場を去っていった。

            *


 父の帰りを待つ間、私は何度か床から出られないことがあった。病気のせいだ。

その間、体は熱く、息が苦しかった。しかしそのたびに父が夢に出てくるのだ。

 父は小さな光が散りばめられた空を眺めながら私に一言言っていなくなる。

「すまないな。もう少しだけ待っていてくれ、約束は必ず守るから。どんな形であっても必ずーー」そう言いかけて父の姿は徐々に夢の霧の中へと消えていく。

目を覚ますといつも心が締め付けられる、そんな思いだった。またいなくなってしまったと。

 悲しげな顔をする私に、母さんは声を掛けてくれた。そのたびに同じ話をしては「父さんは会いにくる」と彼女に言った。最初は「義定の会いたいって気持ちが父さんを夢に出したんだわ」などと言って笑っていたが、いつもと違う言葉が返ってきたのはそれから四日後のことだった。

「昨日も同じ夢を見たんだ」と伝えると彼女は言った。

「母さんも見たよ。父さん、空を見て言ってたよ。二人は俺の宝だ、出会えてよかった。これからも、ずっとそう想うよ。だから、また会おう。どんな形になったとしても、家族は家族だからって」五歳の私には難しすぎたようだったが、今の私なら言いたかったことがわかる。

 当時の私は首を傾げるばかりで、母さんはその様子をみてくすりと笑っていた。寂しさが残る身体がふわりと何かに包まれた。

優しさと温もりに溢れた母の腕の中に私の体はあった。



            *


ゴクリと唾を飲み込む。

しかし恐怖のあまり唾が喉につっかえているようにも感じる。

「行ってまいります」そう言った私の体から異様な汗が出て身に寒さを感じた。ソレを目の前にしてそうならない人はいないだろう。ゆっくりと足を進め例のものに乗り込んだ。 

蓋が閉まった。その瞬間、私は生きて帰ること、息子との約束を果たせないことに涙が流れた。

悔しい。辛い。そして、何もできない自分が、この時代が、憎くて堪らない。

こんな時代のせいで、私は愛する人たちと別れなければならない。

こんな時代のせいで、初代や義定とやりたかったことをやれずにこの世からはなれなければならない。

こんな時代のせいで、こんな時代のせいで、こんな時代になってしまったせいでーー。

私はソレに乗り込んだことによって今まで堪えていた怒りや憎しみを抑えきれなくなっていた。

怒り、憎しみ、悔しさ、虚しさ、悲しみ、全てが交じり合い、私の心の中でとぐろを巻いていた。数多の言葉たちが感情の泉から湧き上がるとき、私の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。

ぐおう、ぐおう、という音が私に聞こえてくる。それは途轍もなく早い。水中のあらゆる生き物も蹴散らしてしまうのではないか、と思うくらいの勢いだ。

私が乗っているのは船ーーではない。


    魚雷だった。


私の最期の願いは叶えられるだろうか。「お国のため」と命を落としていった、故郷の仲間たちの願い、私はこの世から皆がいなくなってしまう前に聞いた。

彼らの想いを、私自身の本当の願いをーー叶えてやれたのだろうか。

私は友の言葉を思い出した。


「悔いなく人生を終えることができるのか?」


記憶が映像となったとき私は言葉にならない言葉で憎悪の感情を声の限り叫んだ。声にもならないほどの声で叫んだ。今いる空間が壊れてしまえばいい、「お国のため」と出た戦。

だが、それも無意味なことではないのか? 一体この戦に勝って、わんどは何を手にするんだ? 地位か、名誉か? そんなもの手に入るわけもない。田舎からでたわぁは、国の駒でしかないのだ。だとしたら一体何のために戦っているんだ。お偉いさんのために命を落とす、ただそれだけのために生まれきたのか? そのために家庭を持ったのか? そんな馬鹿げたことがあるものか。

こんな理不尽な世の中で悔いのない人生など送れるわけがない。

感情が噴火を続ける火山のようにドカンドカンと私の全身を高揚させた。顔が、体が熱い。


ドンっと当たる音がしたのはそのすぐ後だった。


それを聞いたのは一瞬の出来事で私の体は黒と青を混ぜ合わせたところをフワフワと浮いていた。

開放されたのか。もう、わぁのやるべきことはやったんじゃないか。だったら海を泳いで岸へ帰ってやろうか。そうして、茂みに隠れてこの戦いが終わるのを待とう。

私の心は最早、「お国のため」という忠誠の言葉より先に「家族に会うためにここから去ってしまおう」という感情が支配していた。

ただ、意のままに動かない身体に違和感を覚えた。



          *

「よく集めだな、署名」禿げ頭を撫で下ろした村長は紙の束を机に置いた。

母さんはその言葉を聴いて私の手を強く握った。

「ありがとうございます。これで、おらだけが願っているわけではない事、わがったべが?」

「勿論だ。これだけの署名が集まればおらもやるしかねえなあ。上の方さ話してみるはんで、待っててけらいねえべか?」村長は椅子から立ち上がると、母さんの顔を真剣な表情でみた。 

母さんはコクッと頷いた。

 署名がなんなのか、あのときの私にはよく分からなかった。でも、毎日のように近所や村内の知り合いを介して、皆に名前を書いてもらっていた。

最初は誰もやりたがらなかった。上の人が怖かったからだ。しかし、母さんの懸命な説得によって心を動かした人は次々と名前を書いてくれた。

そして、名前を書いた人たちは自分の友人にも書くように勧めた。その成果があの紙の束だった。そうやって努力した母の願いが叶ったときも私のそばに彼の姿はなかった。

 

 結局、父さんが帰ってくることはなかったのだ。何年待っても、だ。私はもうだめだとばかり思って毎晩泣いていた。

 あの見送りの日、睨まなければ何か変わっていたのだろうか。

 あの見送りの日、父さんと同じく笑顔でいたら、神様は父さんをこの村に返してくれただろうか。

 後悔ばかりが胸を埋めつくした。私の瞼は腫れ赤くなっていた、と母さんは言っていた。それもそのはずだ。一晩中、床で泣いていたのだから。

 でも、その涙も最後の時がきた。

あの日の夜もまた、星がキラキラと輝いていた。



           *


 帰ってこられた。私は安堵した。

 胸を撫で下ろした。

隣には義定が澄みきった表情で星を指差して言った。

「父さん、約束を果たしてくれてありがとう。わあ、すんげえ嬉しいんだ」

「そうか、わあも同じだ。こうやって義定と夜空見れて嬉しいじゃ」

 この声は届いているだろうか。隣にいる義定に。

「そうか、父さんも嬉しいか。でも、父さん、ちょっと道草し過ぎだぁ」義定が私のほうを見てにっこりと笑った。自分の声は息子に届いている、私はその事実に安堵した。

「それはーーあの戦の後に色々な国や海を旅してきたからな」

「ずるいな、父さんだけ。わぁも色んな国、旅してみてえ」

「それなら一緒に旅をしよう。約束だ」

「やった!」そういいながら義定が伸ばした腕は星には届かない。だが、彼が握り締めた手の中には確かにそれがある。

それはもしかしたら、「希望のカケラ」かもしれない。

「ただし、条件付だ」私がそう言うと義定は肩を落とし「えー」と言った。

「義定、色々な事を経験してわぁのところに来い。それはわぁへの手土産だ。父さんはもつけだから、土産は多ければ多いほど嬉しいからな」

 義定は苦笑しながら「もつけかあ」と言い、続けていった。「……わかった。でも、病気がいつ悪化するかわかんねえ、ただそれが気がかりだ。でも、父さんが隣にいてくれたら頑張れるかもしれないんだけどな」

「大丈夫だ。どんなときでも、わぁはここでおめえと母さんのことば、見守ってらから」

「んだよな。この塔台だば、眺めがいいしな。父さんもここにずっといるなら、わぁ、もう、怖いもんねえ!頑張るよ」義定は拳をゆっくりと下ろし笑った。

「んだ。もう怖えもんなしだな」

「そういえば、父さんが旅をしている間、母さんは村長さんや皆を説得していた。一体なんのためだったんだ?」

 私は義定がまだ一度も私が書いた手紙を読んでいないことに気づいた。

 初代が頼みに回っていたのは私が送った手紙がきっかけだからだ。

「家に帰ったらわぁが送った手紙を読んでみるといい」

「わかった」そう言って義定は空を見上げていたが風が彼の肌を通り抜けていくと腕をさすっていた。夏とはいえさすがに夜空の下で長居はさせられない。

「夜風も冷えてきた。もう帰ったほうがいい。わぁはいつでもここにいるから」

「わかった。また来るよ」義定は寂しそうな顔をしつつも私がいるこの場所を後にした。

私は一人空を見上げた。

家族三人が一番好きな星は三角形を作っていた。

あの星にどんな名前を付けようか。あれは私たち家族のようなものだろう。どんなに月日が経っても決して壊れることのない繋がりだ。ふと思い出した。ここに来たとき、義定が置いていったものだ。

 私はそれを石段の上から拾い上げると、二つに折りたたまれていたそれを開いた。そこには戦に行く前に彼と話し合っていたこと、つまり約束事の回答が書かれていた。

甘いもの好きのあいつらしい、答えだった。


父さんへ

あの星たちの名前は三ツ星コンペイトウに決めたよ。いいだろう。美味しそうだ、これならわぁもあきないよ。


私はその紙を二つに折ると着ていた軍服のポケットにしまった。

「全く。食いしん坊は相変わらずだな。義定のやつ、これなら長生きする。どうかあいつのことをわぁと一緒に見守っていてください、母さん」私は空を見上げ願った。

 自分の母も戦争に巻き込まれて亡くなった。極楽のどこかに母はいるだろうがまだ会えていない。私がまだここにいることを望んでいるからだろう。

 それでも、今は義定の成長を自分の時の鐘が鳴る日が来るまで見守っていたい、ただその一心だ。



            *

 

初代へ 二通目


 わぁが村を出てから何ヶ月が経ったことか。「お国のため」と言って出てきたはいいものの、やはり義定のことが心配だ。ご飯は食べているか、ちゃんと寝ているか、病状は悪化していないか。毎日そればかり考えている。

義定の姿をみたい、でもその願いはもう叶わない。

実は、明日に戦にでることになった。もしかしたら、魚雷に乗るかもしれない。そうしたらもう二度とこの体で二人に会うことはできないだろう。

そこで初代に頼みがある。

塔台に同郷出身の兵士が眠れる墓を作るよう村長に頼んでほしい。無茶なことを言っているのはわかっているが、これはわぁだけの想いじゃあない。この場で知り合った人たちの願いでもある。「せめて魂だけでも故郷にいたい」そう言っていた同郷の知り合いがいたんだ。だから、お願いします。

もし、石碑が建てられたら、わぁきっと彷徨うことはないだろう。二人の近くにいたいからな。

初代、最後の頼み、叶えてくれよ。

                    坂本 仙次郎より


手紙は涙で濡れた後があった。父さんが書いている間に泣いたのか、母さんが読んでいる間に泣いたのか、私にはわからない。

 父さんの願いは叶えられた。母さんの努力の賜物だろう。

 私はどんなに時代が進んで文化が発展しようとも、二度とあの悲しい過去を繰り返してはいけないと思っている。

繰り返す前にするべきことがある。後世にこの辛さを伝え、同じ過ちを繰り返させないことだ。

 石碑に眠る多くの人たち、彼らもまた同じことを思っているだろう。私は手紙を眺めていた。

 トンッと背中に何かがぶつかってきた。小さな腕が私に抱き着いていた。

「おじいちゃん、ごはんだよ」お下げが頬にあたり、振り返る。女の子がニコニコしながら私の様子を伺っている。

彼女は私の孫だ。今月の二日で五歳になる。私が涙を流して父を見送ったときと同じ歳だ。この時代に生まれてこれた彼女は恵まれている、勿論今の私も恵まれていると思う。

「ああ、ありがとう祥子。わざわざ迎えに来てくれたのかい?」

 私が笑顔で聞くと彼女も同じような顔で「うん」と言い、私の腕を引っ張り「はやくいこう」といった。

危うく私はそれを手にしたまま居間に向かってしまうところだった。若いころとは違いこの足では引き返すのも大変だ。急かす彼女を落ち着かせると、私は手にしていた手紙をたたみいつもの引き出しにしまった。

「さあ行こうか」彼女はいつも私の手を握ってくれる。それで少しは安心できる。空いている方の手で壁につかまりながら歩いた。

今日の夕飯も楽しみだ。料理は勿論美味しいが、今の私にとって家族の笑顔の中で食べることが何よりのご馳走だ。

手土産はもう十分だろうか、一人になればたまにそう思うこともあるが孫の笑顔を見ればまだまだ生きていたいと思う。


父さん、わぁのほうが随分長い道草をしいるよ。逢ったときには待ちぼうけを食らったとふて腐れるかい。でも欲張りな父さんにはもう少し土産が必要だろう?

だからもう少しだけこの幸せな時間を満喫させてください。

 たくさんのコンペイトウが零れ落ちていかない箱。

大きな大きな箱が完成する日。心置きなく逝けるその日までーー。


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