ホットココアが冷めるまで
心踊る、初春の羽田。頬に微かに当たる穏やかな暖かい風と、雲ひとつない蒼く澄んだ空は、薄手でも長袖では少し暑い。道路には残雪はおろか、地元では見慣れた縦型の自動車用信号機すら見当たらない。それだけ東京は雪が滅多に降らない、温暖な地域だということなのだろう。しかしこれはテレビの雛壇で同郷の芸人さんが言っていた「東京の気候は北海道より暖かいが、東京の人間の心は氷点下並み」の伏線回収に繋がりかねないので、敢えて触れずに前を向こう。
空港線に乗り込み、電車が定刻で発車するのを待つ。大学の学校見学や受験、こっちで一人暮らしをするための部屋探しで何度も東京には来たが、この赤い電車は長くて都会的ながらも、どこか田舎のワンマン電車のような匂いがして居心地が良い。もっとも、初めて東京に来てこの電車に乗ったときは動き出すと同時に音楽が流れて、これが東京なのか!と全身から冷や汗が出たが。
それにしても、東京の鉄道網は非常に複雑だ。一駅に複数路線が乗り入れているのは当たり前で、60kphの電車同士がすれ違うときの轟音には到底慣れそうにない。しかも地元では札幌に行かなければ乗れない地下鉄が、東京には13路線も通ってるなんて聞いたときは、そもそも地上だとか地下だとかという概念が存在しないのではないかと錯覚すらした。
昼前には、私が2年間住む予定の部屋に着いた。隣室の方々には既に挨拶は済んでいる。学生の一人暮らしには十分広いワンルームの玄関に、「岡崎」とネームプレートを掲げた。
こんな田舎者の女子大生のストーリーに誰が興味を持つかは分からないが、東京という華々しい地域を舞台に始まる私の夢を、どうしてもみんなに見てほしい。これは、短大生・岡崎詩音と、シンガーソングライターの卵・Shionの、平行する2つの「私」の物語である。
短大に通い始めて1ヶ月。電車通学にも慣れてきた。それまで理解不能だった満員電車も、僅かなスペースを見つけては乗り込めるようになった。20分ほどかけて大学に着けば、今度は仲良くなった友達と毎朝談笑する。週に5日、時間もまちまちだがバイトも始めた。すっかり当たり前になったこの日常に、今日から新たな日常が始まる。
時刻は夕方の6時。街には仕事帰りの大人たちが駅から押し寄せてくる。そんな人の波に立ち向かうように、北海道から持ってきたアコースティックギター背負いながら歩みを進める。
そう、ここから私は、歌手を目指す大学生Shionとして路上ライブをする。両親が大学の音楽サークルで出逢ったこともあり、私が歌手を目指すことについて、後押しとまではいかないがそれなりに自由にやらせてくれている。お金がないので音響設備は持っていないが、そこそこの人が往来する広い駅前で歌えば、誰かしら足を止めてくれるだろう。聴き入ってほしいわけではない。ただ、誰かにとっての一瞬のBGMになればそれでいい。そしていつかは、聴く人全員の心に刺さる最高の曲を作るんだ。
ギターを構え、緊張で声が震えそうになる。その不安を必死に圧し殺し、歌い始める。出だしは完璧。人前で歌うのは初めてなので、たまに音程を外してしまうこともあるが、何とか1曲目を歌いきった。私の強みは圧倒的な声量である。そのおかげで私の声は、マイクなどの音響装置を使わなくても多くの通行人の耳に届いたのだ。それもあってか、私の前には人集りができ、歌い終わると同時に拍手が上がった。
結局その日は1時間ほど滞在し、流行りのポップスや懐メロ、ロック曲のアコースティックバージョンなど9曲を弾き語りした。聴く人は入れ換わり立ち換わり50人ほどいてくださった。自分の歌を聴いてくれることが、これだけ嬉しいことなのか。歌手になりたい、その夢はいっそう強くなった。
気が付けば季節は夏になっていた。照りつける日射しは、北海道出身の私にとっては南国にいるかのような錯覚をさせるものだった。かき氷でも食べたいくらいだ。いや、いっそのこと頭から浴びたい。まあそんなことはどうでも良い。日焼け止めを塗りたくり、今日はいつもとは違う時間帯に駅前に向かう。私も含め世の中の学生は夏休みに入り、サラリーマンだけではなく若い人たちも多く行き交う。今日は懐メロは封印して、若い人が好む最近のヒットチャートを中心に歌っていこう。
しかし、若い人の通りが多い反面、立ち止まる人は少なかった。それもそうだ。夕方に通る人は仕事帰りのサラリーマンや部活だのバイトだのが終わった学生がほとんどで、日中の駅は用事を終える前の人が多い。その中で足を止める人が少ないのは予想がついたはずだった。
1曲くらい聴いてくれても良いのに。地元では感じられない灼熱の空の下で、地元では感じたことのない人々の冷たさを感じた。
最近では、夕方に路上ライブをしていると少し危険な目に遭いかける。この前はライブを終えて片付けをしているとき、20代くらいの男性2人が話しかけてきた。服装や髪型から、その目的は察することができた。その場にいた巡回中の警官のおかげですぐ退散してくれたが、それ以来は若干の恐怖と戦いながら歌っている。
そんなこんなで夏も終わり、夜になると秋風が涼しくなってきた頃、ある男性が私の目に留まるようになった。いつものように夕方の駅前で歌っていると、350mlの缶ビールを飲みながら数曲聴き、帰り際に私のカバンに千円札を1枚入れてくれる。いわゆる投げ銭だとか、お捻りだとか、そういうのを目的でやっているわけではないけれど、何だか自分のことを認めてくれたみたいで嬉しかった。名前も職業も、なんなら辺りは暗いから顔もしっかりは見えてない。ひとつだけ分かっていることは、あの人は私にとって人生を大きく変える人になるということだけだった。
この世は、常にどこかでは争いが起こっている。平和が良いとか、そんなのは平和なところにいるから思えるだけで、戦禍の市民はそんな高望みができる余裕もないのだろう。とにかく目の前で起こる銃撃戦が止んでほしい、そう思いながら時が過ぎるのを待つしかない。
そんな戦場も平和な日本も、時だけは平等に流れる。相変わらず駅前で歌えば、ビールのお兄さんが来てくれる。あの人は何者なのだろう。気にはなるが私から声をかけるわけにもいかず、1度で良いから最後まで聴いていってくれればなと思っていた。
黄色くなった街路樹の葉も落ち、いよいよ冬が始まる。懐かしさを感じるような冷たい空気のなかで、今日も駅前で路上ライブをしていた。しかし雲行きが怪しくなってきた。人のことではなく、気象学的な意味である。次第に弱い雨が降り始め、その雨足が強くなると共に通行人も早足になった。冷たい雨が降る中で歌うのは、なかなかの自傷行為である。30分ほど歌った時点で今日は終わらせることにした。
雨に濡れながら撤収の準備をする。こんなに強く降るなんて言ってたっけ。折り畳み傘も忘れたし。ぶつぶつと文句を言いながら作業をしていると、私の周りだけ突然雨が止み、同時に大きな影ができた。驚いて振り返ってみると、そこには見覚えのあるシルエットがあった。
「結構降ってきたね。今日はもう終いかい?」
間違いない。缶ビールを持っていないけど、いつも聴いてくれるあの人だ。
「はい…雨のなか聴いてくださる人は少ないし、傘も忘れてしまったので…」
突然のことで驚いたが、意外にも冷静に返答できた。
「大学生?」
「はい。」
「一人暮らし?」
「そうです。」
「そっか…今日冷えるし、もしよければ一緒にお茶でもしない?ご馳走するよ。」
優しいふりして新手のナンパかもしれない。でもまあいっか、別に完全な初見ではないし、独り寂しいワンルームに戻ってもやることはない。朝帰りならそれもそれ。暇潰し程度で一緒に行くことにした。
「ここ、よく来るんだ。特に君の歌声を聴いたあと、ここでコーヒーを飲んで帰るのが最近のマイブーム。」
そう言って店の扉を開ける。看板の「喫茶室・ハミング」の文字を薄暗い照明が浮き上がらせていた。
店の中は、お客さんが2人と店主の男性がいた。本当に常連らしく、
「やあ、お連れさんなんて珍しいね。」
「えぇ、駅前でナンパしまして。」
「そうかい、お嬢ちゃんもゆっくりしていってな。」
と店主に唐突に話を振られ、
「あ、、はい。ありがとうございます。」
と返すのが精一杯だった。
「突然声をかけて、迷惑じゃなかったかな?」
「あ、全然大丈夫です。それに、厳密には初めましてではないですよね?」
「あぁ、うん。意外と顔とか見えてるんだね。」
「あーでも、顔は見えてないです。いつもお酒飲みながら聴いてくださっているのは分かるってくらいで。」
「あはは、あれね。実はノンアルコール。僕って下戸だからさ。」
「そうだったんですね。てっきり仕事帰りのサラリーマンだと思ってました。(笑)」
「ひどいなぁ。こう見えても大学生だよ。ってか、まだ名前言ってなかったね。濱口大樹っていいます。」
「あ、私は岡崎詩音です。何年生なんですか?」
「いま3年だよ。最近はいろんな企業訪問してる。」
「そうなんですね。就活かぁ。」
「詩音ちゃんは?」
「私はまだ1年生です。今年の4月に北海道から上京してきたんですけど、歌うのが好きなので歌手になりたくて。」
そんな話をしていると、店主がこちらにやって来た。
「お嬢ちゃんはミュージシャン目指してるのかい、それでこの大きな荷物なのかい。」
「はい、邪魔ですみません。」
「いいや、広さはあるんでね。自由に置いてもらって。飲み物は何に致しましょう。」
しまった。話すのに夢中で、メニューすら開いていなかった。
「コーヒーとか紅茶とか、好きなの何でも良いよ。」
「あ、、ホットココアください。」
「子どもだなぁ。あ、僕はいつものブレンドで。」
「私、寒いときっていつもお母さんのホットココアを飲んでたんです。まあ近所のスーパーで買ったやつだと思うんですけど。」
「そっか、そういうことだったんだね。てっきりホットウイスキーでも飲んでるのかと思ったよ。」
「私まだ未成年なんですけど!?(笑)」
思いの外、話が弾んだ。すると大樹さんは、徐に店のことについて話し出した。
「女優の寺田聖菜、知ってる?」
「え、知ってます。モデル出身で、確か去年の最優秀新人女優賞を取った方ですよね?」
「そうそう。ここの店主の娘さんなんだけどね、」
「え!?そうなんですか?」
「うん。ここで一度だけ会ったことあって、握手してもらったよ。双子のお姉さまもいて、どちらも可愛かったなぁ。あと、紅白歌手の雨宮美鈴がデビュー前からここによく来てたとかって聞いたことあるよ。」
私の夢は、ここから始まるのかもしれない。絶対に歌手としてデビューすると心に誓った。
大樹さんと出逢ってから、日々の生活はがらっと変わった。何より駅前で歌うことがこれまで以上に楽しくなった。それどころか、「歌手になりたい」という夢を実現させるための一歩として、自ら作詞作曲に挑むことにした。
しかし、当然のことながらそう簡単には書けたりしない。詞もメロディーも全く思い浮かんでこず、時間だけが流れていく。
そんなとき、ふと大樹さんのことを思い出してしまう。今は何をしているのかな。またいろんな企業を訪問しているのかな。気が付けば曲のことなんて忘れて、ぼんやりと屋根を眺めていた。これじゃいけない。自分で決めたことくらいやり通さなきゃ。我に帰ると、滅多に出さないブルーのワンピースを着て出かけた。
向かう方向はただひとつ。ハミングだった。扉を開けると、客がいない店内から店主の声が聞こえた。
「おや、今日は1人かい?」
「はい。」
「珍しいね。この時間はまだ大樹くん来ないと思うよ。」
「分かってます。でも、私もここの虜になっちゃったのかも。」
「そうかい、それは結構。ゆっくりしていってね。」
あの日以来、路上ライブの後は2人でこの店に来るのが恒例となり、すっかり常連になってしまった。いつしか私の「落ち着く空間」になった場所。きっとこれまでここから羽ばたいた人たちにとっても、ここは最高の空間だったのだろう。想像しながらホットココアを啜る。焦げ茶色の天井に、店内に広がるコーヒーの香り。それはまるで実家の雰囲気を思い出させるようだった。
鞄からシャープペンとルーズリーフを出す。今なら歌詞が思い浮かぶ気がする。レポート課題に打ち込む学生のようなその目に気づいたのか、店主は流していた懐メロのレコードを止めた。冷たい空気と静寂だけが漂う店内。ひたすら言葉と向き合うその時間は、高校の現代文で赤点ギリギリの得点を叩き出した頃には考えられなかったくらいに楽しんでいた。無我夢中で書き連ねた言葉たちは、私の目には踊り舞っているように見えた。彼らをどのように活かすか、それは私が作る音楽次第である。
ふと外を見れば、すっかり暗くなっていた。帰りにスーパーに寄って、おかず代わりの惣菜でも買って帰ろう。
ただし、私が店を出た5分後に入れ替わりで大樹さんが来たことを後から聞いて、思わず声が出てしまったのは秘密である。
季節はすっかり冬になったが、薄手のジャンパーで過ごせるくらいの気温である。しかしこれも今日で一旦終わり。年末年始は明日から北海道に帰省することになっている。荷物を一通りまとめていると、大樹さんから連絡が来た。
「北海道帰るの明日だっけ?」
「うん、明日の9時の便!」
「空港まで車で送っていくよ。」
「えー大丈夫だよ、朝早いもん。」
「ううん、気にしないで、明日用事があるんで結局出なきゃいけないから。」
「そっか、、じゃあお言葉に甘えて!」
翌朝、大樹さんは私の住む部屋の前で待っていてくれた。大きなスーツケース1つをトランクに入れると、私を助手席に乗せてくれた。空港までは車で30分弱。なんだかドライブに連れていってくれてるような気分になった。
「ドライブじゃないからな?」
「わかってるよー」
空港のエントランス前に到着すると、スーツケースを降ろしながら訊いてくる。
「鍵預かっておこうか?」
少し迷ったが、あまり大樹さんに何でも任せてしまうのは違うと思い、
「ううん、大丈夫!スーツケースの鍵も一緒に付いてるから!」
「おぉーそっか。まあそれなら大丈夫だな。」
「気にかけてくれてありがと。ちょくちょく連絡するね。」
「うん、僕へのお土産忘れるなよ?」
「あー、はいはい(笑)」
北海道に着くと、こちらでは親が空港の前で待っていてくれた。
「お帰り、よく飛行機さ間違えなかったっぺな。」
「私そこまでポンコツじゃないんだけどなぁ。」
縦型の信号機や雪が積もっている田園風景は、懐かしさと安心感をもたらした。車の排ガスに慣れてしまった私の鼻が、もとの世界に戻ってきたことを喜んでいる。まあ私がここにいるのも1週間ちょっとだし、東京に戻ればまたくすんだ空気に染まる。次第に牛のにおいが窓から入ってきた。このにおいがすれば、私の実家はすぐそばである。
懐かしさすら覚える二重扉を開けると、母が待ち構えていた。頻繁に電話はしていたので寂しさはなかったが、母の匂いはこの上ない安心感をもたらす。9ヵ月振りの実家も懐かしさはあるが、ハミングのおかげでホームシックにはならずに済み、次第に疲れが先行し始める。せっかくの帰省といっても、睡魔には勝てなかった。自分の部屋に布団すら掛けず、畳の上で爆睡してしまった。
故郷で迎えた大晦日。この日の夜は毎年、家族揃って必ず紅白歌合戦を観る。今年は北海道出身のシンガーソングライターであるSolaがデビュー曲「へばね」であらゆる音楽アワードの新人賞を総ナメし、勢いそのまま紅白初出場を決めたために我が家でも盛り上がっていた。Solaさんとは同じ小学校出身なので、私も何となく親近感が湧いていた。でもそれ以上に親近感があり、心のなかで興奮したのは雨宮美鈴だった。
「あ、雨宮美鈴さんだ。私な、東京でこの人がデビュー前に通ってた喫茶店と同じところで常連だっさ!」
「あら、そうなの。美鈴ちゃんもこのところ破竹の勢いだもんね。」
「すごいでしょ!しかもそのお店、女優の寺田聖菜さんのお父様がやってると!」
「お、じゃあコネは完璧だっぺな。」
「ねぇー、なしてコネとか言うの。(笑)」
「でもあれな、もし詩音がこの舞台に立つなんてことがあるんば、お母さんたち町内を宣伝しながら歩いちゃうさ。」
「えー、どうだろう。てか音楽できるかな。」
「自信ないと?」
「うん…半年くらい路上ライブとかやってると、それらしい人からの声はかからないんさ。」
「簡単には行かんさ。もし詩音にその気があるんば、短大卒業後に音楽の専門学校さ行っても良いんだぞ。」
「え?専門学校?」
「そうさ。端から短大卒ってだけで音楽をやってけるほど甘くないのは我々が一番よう知ってる。だから最低限の学歴として短大、そのあと音楽を極めるんばそれを応援するさ。」
私の両親は牧場を営んでおり、それなりに貯金もある。でもここまでストレートに言われたのは初めてで、若干の戸惑いもあった。ここを継いでほしいとか、そういう考えがが無いわけがないのに、それを口にするどころか音楽の道に行くことを勧めてくれる。私には音楽が向いているからなのだろうか。それとも、女の私に牧場運営なんてできないという、一種の偏見なのだろうか。まあ牧場を継ぐこともやりたいことの一つではあるが、いずれにせよやりたいことをやらせてくれる今は思いきりやりきろうと思う。
そんな決意と共に、大樹さんが待つ東京に戻る日がきた。家族と別れる寂しさを背に、そして大樹さんと再会できる喜びを胸に、離陸時刻が10分遅れた飛行機に乗り込んだ。
無事に空港につくと、到着ロビーに大樹さんの姿があった。
「ただいまー!」
「おかえりー。ゆっくり休めた?」
「うん!あ、これお土産!」
「お、サンキュー!いや木彫りの熊って(笑)」
「良いでしょ、大樹さんにそっくり!」
「どういう意味だよ…」
空港から車で家に送ってもらうはずが、来た道とは逆方向に曲がった。
「どこ行くの?」
「うん?あぁ、ちょっとね。今日この後なにか予定でもあった?」
「ううん、何もないよ。」
「じゃあ少し付き合って。」
大樹さんの「付き合って」の一言に、一瞬だけドキッとした。そういう意味じゃないことは分かってる。だけど何だか有り得ない話でもない気がする。そもそも帰省する前から思ってたこと。大樹さんと一緒にいる時間は本当に楽しくて、悲しみや苦しみのすべてを忘れられる。もっと言えば、大樹さんのために路上で歌ってるようなものである。それはつまり「自分は音楽をやりたい」なのか「大樹さんについていきたい」なのか、それが自分には分からなくなっていた。大樹さんのそばにいられるのなら、実は音楽じゃなくても良いのかもしれない。何だか自分が行方不明になったみたいである。そんなことを考えているうちに、車は一軒の古めかしい長屋の前に停まった。
「詩音ちゃん、おいで。」
大樹さんがインターホンらしき紐を引くと、中から鈴のような音がした。数秒の空白の後、中から男性の声が聞こえてきた。
「お久しぶりです、倉田先輩。」
「おぉ、待ってたぞ濱口。そしてこちらが例の子か。」
「はじめまして。岡崎詩音っていいます。」
「倉田航洋です。濱口は高校の後輩で、軽音部で同じバンドだったんだよ。」
「え、大樹さんって軽音楽部だったんですか!?」
「あれ、言ってなかったっけ?僕はドラムで、倉田先輩はベース、あとギター兼ボーカルの女の子とでスリーピース組んでたんだよ。」
「初めて聞いたよ?」
「もう遠い昔の話さ。」
「おいおい、そんな言い方するなよ。この前も万葉から連絡きたんだから。」
「え、万葉とまだ連絡とってるんですか?」
「ああ、2年ぶりに話をしたよ。今は言語聴覚士を目指してるんだとさ。相変わらず良い声してた。あ、そうそう。頼まれてたマイクスタンドも万葉から譲り受けたやつなんだけど、それでも大丈夫か?」
「たぶん大丈夫だと思います。万葉のことだから新品同様の綺麗さでしょうね。」
「まさしくだ。」
2人に手招きされ中に入ると、そこにはマイクスタンドやアンプ、それらを繋ぐであろうコード類が無造作に置いてあった。
「詩音ちゃん、路上ライブでこれ使うかい?」
これらは大樹さんや倉田さんが軽音楽部時代に使っていた機材で、私がギターと譜面台だけでライブをしているのを見た大樹さんが手配してくれていた。
「これで歌える曲の幅が増えそう?」
「うん、スマホから繋いでもできるんだよね?」
「うん、できるよ。まあでも言っても6年くらい前のやつだからな、耐久性は保証できないかもね。」
「昨日のうちに繋いでみたけど、まあ俺のベースが下手クソすぎて参考にならん。音は出たからそれは安心してな。ところでこれ、車載るか?」
「リアシート倒せば大丈夫だと思います。」
思わぬところからのサポートに胸が熱くなった。また駅前で歌うのが今から楽しみである。
その翌週から再び駅前に立ち始めた。アンプは想像以上に重くて1人では持ち運べなかったので、今日の使用は断念した。いつものように、人々の帰路に細やかなBGMを送る。いつものように小さな人集りができ、いつものように拍手が起こる。そして今日も、大樹さんが途中から合流し、ライブが終わってからハミングでくつろぐ。
「そういえば大樹さん、就活順調?」
「うーん、どうだろうなぁ。とりあえずいくつか候補は上げてて、今のところ5社は受けるの確定かな。」
「え、そんなに受けるの?」
「多い人は10社以上受けるよ。僕はまだ少ない方。」
「就活ってそんなに大変なんだ…」
「詩音ちゃんは短大出たらどうするの?」
「まだ迷ってる。音楽事務所とかに入れるのが理想だけど、正直なところ微妙だから。」
「そう…だよな。」
本当は私が一番よく分かってる。堅実に就職する方が安定するって。でも夢は諦めたくない。大好きな音楽に係われるのなら、私は何だってやってやる。
だけど、1つだけできないことがある。それは、「大樹さんと離れる」ことである。「音楽」と「大樹さん」のどちらか一方を選べと言われても、その決断は私にはできない。もし大樹さんが「僕のために音楽を辞めてくれ」なんて言ってくれれば、私は二つ返事でそれに従う。だけど大樹さんは私の夢に協力的で、嬉しい反面に心苦しさもあった。
きっと私は、大樹さんのことが好きなんだ。
大樹さんと離れたくない。大樹さんがいなくなったら、私は歌う気力を失うと思う。大樹さんがいるから歌い続けられるんだ。
でもそれって、私の夢が「歌うこと」じゃないってこと?
自分が分からなくなってきた。私は本当にこのままで良いのだろうか。曖昧な感情で夢を追いたくない。曖昧な感情で人を好きにはなりたくない。
大樹さんを前にして考えていると、自然と涙が流れてしまった。驚かせてごめんね。なんでもない。ただ強がって「目にゴミが入っただけ」と誤魔化した。
このまま私にとって歌うことが「趣味」で終わってしまったらどうしよう。そんな不安を抱えていると、今までのように歌うことができなくなった。様々なことが手につかなくなり、バイト先でも普段は絶対にしないようなミスをしてしまう。
私、どうしちゃったんだろう。
自分がキライ。
自分自身を苛み続ける。でもそんな私に何かを察したのか、大樹さんから連絡が来た。
「今度さ、気分転換にどっか行かない?最近いろいろ背負いすぎて疲れちゃってるんじゃないかな?」
「大樹さんには隠し事できないね。ありがとう。もうすぐ春休みだし、大樹さんも本格的に就活始まって忙しくなる前にどこか行きたい!」
「どこ行きたい?」
「うーん、おもいっきり遊べるところ!」
「ざっくりだなぁ(笑)」
ということで、横浜に遊びに来た。大樹さんは高校生だった頃、地元の仲間とよく遊びに来ていたという。
「あぁ、この公園。よく3人で楽器の練習してたわ。」
「3人?」
「うん。僕とこの前会った倉田先輩と、マイクスタンドをくれた万葉。まあ僕はドラムだったから練習ってほどのことはしてなかったけどね。それにさ、ここは特別な場所なんだ。」
「そうなの?」
「ここは、俺と万葉が初めてデートしたところ。」
「え?」
「万葉と僕は付き合ってたんだよ。でも高校卒業して、万葉は医療系の大学行くんで別れたんだ。」
「そうだったんだ。」
「元気にしてるのかな。あいつのことだから新しい男でも見つけてそうだな。僕ですら良いパートナーができたんだから。」
「え?誰?」
微笑みながら振り向き、
「詩音ちゃんだよ。」
と言った。
「詩音ちゃんにとっては僕がどんな存在なのかは皆目検討もつかないけれど、僕にとって詩音ちゃんは、僕の夢を作ってくれた人。だから僕は、いろいろ苦しいこととかあるけど、詩音ちゃんのために就活頑張るって決めたんだ。」
あまりに突然すぎて、何も言えなかった。私のために頑張るなんて、私はそんな立派な人間じゃないよ。私にとって大樹さんがどんな存在かなんて、そんなの決まってるじゃん。
「私も…」
「私だって…」
「大樹さんがいてくれたから、歌い続けられてるんだよ?」
「大樹さんは、東京で誰よりも私のことを支えてくれてる。駅前で歌ってるときも、一緒にごはん食べるときも、お話ししてるときも!だから私だって大樹さんのために頑張る!」
…私、何を言っているんだろう。これって要するに両想いなんでしょ?好きって言えばいいのに。
「詩音ちゃん…」
私の頭を撫でながら、
「君は自分自身のために頑張ればいいよ。僕のために頑張るなんて、僕はそんな立派な人間じゃないよ。君の夢は僕の夢だから。」
思わず流れた涙に、私は言い訳なんてできなかった。
東京に来て丸1年が経った。満員電車もすっかり慣れて、ふくらはぎの筋力がだいぶ鍛えられた。来年の今ごろは、大樹さんもこのスーツの男性集団の一員になるんだと勝手に想像し、一人でニヤついてしまう。
あの日以来、私は大樹さんと付き合っているような感覚になっている。もちろん実際には付き合ってないし、多分今の私は「付き合ってください」なんて言えない。ましてこれから就活が忙しくなる大樹さんに迷惑はかけたくない。あの場でなぜあんな話をしたのか分からないけど、きっと雰囲気で言ってしまっただけだ。
大学では就活をしてる人もいる。大樹さんと2年差ではあるが、短大なので同じ時期に就活をすることになる。私は両親と話し合った結果、東京での就活はしないという結論に至った。それはつまり、自分は音楽で生きていくという決断でもあった。専門学校に行くかどうかはまだ未定ではあるが、できることを全てやっても上手くいかず、それで諦めるなら北海道に戻って親の牧場を継ぐ。大樹さんのおかげでこれを決断できた。
6月初旬。人生で2度目の梅雨入りを経験する頃、大樹さんから連絡が来た。
「今日、聴きに行けないと思う。ごめんな、僕がいなくても頑張ってな。」
「え、そうなの?寂しいな…来週は来られそう?」
それ以来、大樹さんからの返信はおろか、私からのメッセージを読んだ形跡もない。最初の頃は就活が本格的に始まって忙しいのかと思い、さほど気にはしていなかった。しかし3日経っても状況は変わらず、次第に不安が先行していった。いくら忙しくても大樹さんがこんなに放置するなんてあり得ない。いや、あり得なくはないか。もし本当に忙しくなっただけなら、私は遠くから大樹さんを応援するだけ。でも、もし大樹さんに嫌われて、私と話したくないってなってたらどうしよう。それどころか、何かの事故や事件に巻き込まれていたらどうしよう。東京は危険なところだから、通り魔とかに殺されちゃってたらどうしよう。
もはや妄想とも言えるくらいの不安に駆られた私は、スマホで最近起こった事件や事故を調べた。しかしそれらしい情報は一切無い。私のなかには、行き場のない不安だけが残っていた。
結局次の週も大樹さんの姿は見えず、メッセージの既読もつかない。もしかしたら、ハミングにいるのかな。ギターを背負ったまま店に入ったが、そこにも大樹さんの姿はなかった。
「こんばんは。最近、大樹さん来てますか?」
「大樹くんかい、ここ何日か来てないなぁ。」
「そうですか…」
いつも2人で囲むテーブルの席に座り、いつものホットココアを注文した。
「大樹くんと連絡とれないのかい?」
「はい。先週の路上ライブのときに今日は行かれないって連絡が来たんですけど、それっきり私のメッセージも読んでないみたいで。」
「そうかい。彼も懲りない子だねぇ。」
「どういう意味ですか?」
「あの子が高校生だった頃だから、もう4年くらい前か。幼稚園からの幼なじみの女の子と付き合ってたんだよ。」
「え、もしかして万葉さんですか?」
「あぁ、そうそう。その子はどんなことがあっても怒ったことはないんだが、大学受験を控えた3年の夏休みの間、大樹くんは受験勉強に集中するってんで連絡を一切絶ったんだ。文化祭で演奏する準備とかで連絡をとろうとしたのに、それがきっかけで準備不足、本チャンは散々だったらしい。普段からよく連絡をとっていただけに、大切なときに連絡を返さなかった大樹くんには幻滅し、それで別れたのさ。」
「そうだったんですか…」
「お互いに信頼し合っていただけに、その罅は想像以上に大きくなり、割れてしまったのさ。」
なんだか分かる気がする。大樹さんは自由奔放というか、すごくマイペースなところがある。私は特に寛大なわけではないが、マイペースの歩調が合っているから、一緒にいて気が楽で落ち着くのだろう。だけどそうじゃなくて、いわゆる相手のペースに合わせるタイプの優しい人からすれば、肝心なときに長期間にわたって音信不通になるのは非常識なのかもしれない。というか私だって怒るかも。
だけど、その話を聞いて私の心はさらに揺れ動いた。万葉さんのときにそんな悲しい経験をしているにも関わらず、また同じことをやるとは考えられない。本当に忙しいだけであってほしい。
なんなら、今日ここで合流できるんじゃないかなんて思ってみる。でも来る気配はない。ここに座って15分は過ぎた。ちょっとずつぬるくなってきたココアを啜る。このホットココアが冷めるまでは、ここで大樹さんを待ち続けてみようと思う。
たとえ今日も来られなくても、私はいつでも待ってるからね。
結局あの日、大樹さんは来なかった。それどころか、もうあれから半年が経ってしまった。外は冷たい雨が降る。大樹さんと初めて話したのもこんな夜だった。あの日優しく傘を添えてくれた紳士も、今や連絡ひとつ返してくれない失踪人である。あるいは、もともと存在しない人だったのかもしれない。自分の中の理想的な男性像が立体的になっているという幻想だったのかもしれない。
そんな錯覚をし始めるなんて、私は相当疲れているのかな。それとも、まだ大樹さんのいなくなった日常に慣れてないのかな。そりゃ好きな人が突然いなくなったら、精神が病むのは仕方ないことだと思う。でもなぜだろう。そういうのじゃない気がする。大樹さんは何事も無かったかのように突然戻ってくる、そんな根拠のない予感があった。
今年最後の台風が過ぎ去った、その翌日。東京では滅多に見られないような星空が広がっていた。
そんな今日は、気合いを入れてアンプとマイクスタンドを持って行くことにした。去年書き始めた曲が、ようやくしっかり形になったのだ。今日はそれを披露したいと思う。でもそれだけが理由じゃない。本当は、遠くにいる大樹さんにも届いてほしかったからだ。
「故郷では涼しくなってくると、いつも空を見上げていました。無数に広がる満天の星空。同じ空を見て育った先輩は、これに感化されてSolaとして活動しています。この空が永遠に続くように、そして大切な人との時間も永遠に続くように、そう願って作った曲です。」
『スターダスト』
東京では稀な星空の下で、故郷を思い返す。皆さんはこの空に、何を願いますか。
歌い終わると、これまでで一番の拍手が起こった。仕事終わりのサラリーマンや主婦、学生まで、実に広い年代の方々が聴いてくれた。夜の喧騒と人々の優しさによって生まれた、永久の空間。私の眼に映るその星空から、頬に流れ星が通った気がした。
重たい機材を家に置いてから、ハミングへと向かう。きっと大樹さんはいないだろうけど、すっかり自分の時間を過ごす良い場所になっていた。
その裏で、私の未来に関わる大きなプロジェクトが進行していたことを、このときの私は当然知る由がなかった。
気付けば年の瀬。大学からは進路についての報告書の提出を求められたが、就職も専門学校も決めてないため、未定とするほか無かった。そして私のことを見つけてくれる音楽事務所や関係者の方も現れず、卒業後はとりあえずバイト生活をすることにした。年末年始の帰省では両親にそれを伝えると、それが現時点での最善の道ならばと了承してくれた。これが本当に最善なのかは分からないが、音楽の道に進むことを諦めていない限りはできることを試していこうと思う。
家族で紅白歌合戦を観る大晦日。今年の推しは雨宮美鈴だった。今年の大ヒットアニメの主題歌である『青空の彼方』は、きっと聴かなかった日は無いくらいよく流れていた。私もよく路上ライブで歌うと、多くの人が足を止めてくれる。私にとっても大切な曲である。
ふとスマホを見ると、画面が光っていた。それは、私が半年以上の期間待ち続けていた人からの連絡だった。
「連絡久しぶりになってごめん。元気にしてるかな?今度時間があるときに話したいことがあるんだけど、会えないかな?」
久しぶりすぎるよ。何ヵ月待たせてるの。私がどれだけ不安で寂しい思いをしてたか。でも、話って何だろう。それはすごく気になるけれど、すぐ返信するのもなんだか気が引けて、少し時間をおいてから返信することにした。
もうすぐ今年が終わろうとする、23時45分。2時間くらいたったし、そろそろ返信してもいっか。
「久しぶりだね。心配したよ?すごく心配した。いま地元に帰ってて、東京戻るのは5日だからそれまで待っててもらえる?」
大樹さんからの返信が先か、年を越すのが先か。理由も分からず心臓が変な動きをしている。しかしその答えは一瞬で明らかになった。
「そっか、そうだったな。去年も年末年始は帰ってたもんね。羽田空港に迎えにいこっか?」
その返答にすこし考え込んでしまい、私の返信が年を越した後になってしまった。
「ううん、大丈夫。それより話したいことってなに?」
「えっとね。詳しくは直接会って話したいんだけど、簡単にいうと、詩音ちゃんを歌手として公式にデビューさせてあげられるかもしれないんだ。」
その簡単すぎる言葉を理解するのに10秒かかった。簡略化されすぎて意味がわからない。どうして私が?いつそんな機会を?疑問だらけで頭が混乱した。
1月5日。肌寒い羽田空港に戻ってくると、いるはずのない大樹さんをつい探してしまう。飛行機の到着時刻すら言っていないのだから、さすがにいるはずがない。
赤い電車に揺られ、空港を後にする。とりあえず大樹さんにも連絡をしておこうかな。
「東京戻ってきたよ。」
「おお、意外と早かったね。どの辺にいるの?」
「今は空港からの電車のなか。今日の午後、大樹さんが時間あれば会えるよ。」
「そっか。今日は用事ないから会える。どこで会う?」
「ハミングでどう?てか場所覚えてる?」
「そりゃ覚えてるよ。じゃあハミングで待ってるね。」
家に着いて荷物を置くと、部屋で独り考え込んだ。久しぶりに会う大好きな人。どんな顔で行けば良いかな。喜びを全面に笑顔でいくか、放置されていた怒りをぶつけるか。少なくとも涙だけは流さないようにしよう。
約束の時刻、緊張しながら店の扉を開く。そこには待ち焦がれていたあの見慣れた背中があった。
「大樹さん。」
「詩音ちゃん…ただいま。」
「ただいまじゃないよ。どこ行ってたの。」
「うん。実は就活が忙しくなって、」
「それでもメッセージ読むことくらいできたでしょ?私、寂しかった。」
「ごめん。本当は連絡しようと思ってた。でも、詩音ちゃんを意識したら就活が失敗しそうで、こうするしかなかったんだ。」
「どういうこと?」
「絶対に今は言うタイミングじゃないと思うけど、僕は詩音ちゃんのこと好きなんだ。」
「え…?」
「大好きな詩音ちゃんのこと考えたら、就活に集中できない自分がいて、それで連絡を絶ったんだ。」
「…そうだったんだ。」
本当は嬉しいはずなのに、唐突すぎて何も言えなかった。
「それで、話ってなに?」
本題を尋ねて誤魔化した。
「うん、この前言ったとおり、詩音ちゃんを歌手として公式にデビューしてあげられそうなんだ。」
「それ気になってたんだけど、どういうこと?」
「僕ね、音楽事務所に就職が決まったんだ。それでお世話になる上司の方に聴いてほしい歌があるって詩音ちゃんの動画を観てもらったんだ。」
そう言いながら取り出したスマホには、私が路上で歌っている映像が映し出されていた。
「実は詩音ちゃんの路上ライブ、あの日以降も毎回行ってたんだ。そしたら急に自分が作った曲を歌うってなって、急いで撮ったんだ。そしてこれをその方に見せたら、良い歌声だって絶賛してくれたの。それでデビューさせたいって伝えたら、本人の意思によっては達成できるって言われて。」
嘘なのか本当なのか分からないけれど、なんだか嬉しかった。
「それでさ、近いうちに事務所に来てほしいんだよね。いろいろ話を聞いて、正式にプロジェクトを立ち上げたい。」
後日、大樹さんと共に音楽事務所を訪ね、私の夢は大きく加速した。
普通がどんなものなのか分からないが、私は大樹さんの背中を追いかけて音楽事務所への所属が決まった。両親に話すととても喜んでくれ、短大を卒業した4月から正式に所属となる。とはいえまだあと3ヶ月ほどあるので、書類などへの捺印はもう少し待ってもらうことになった。
その帰り道、大樹さんからふいに訊かれた。
「僕がいなかった間、何か特別なことあった?」
「うーん、特になかったよ。てかさ、本当に寂しかったからあんなこともうしないでね?万葉さんにも同じことしたんでしょ?」
「寺田さんか。お喋りだなぁ。過去の話さ。」
「過去の話じゃないよ。ついこの前まで私にも同じことしてたんだから。」
「そうだな。それは申し訳なかった。」
「大樹さんは就活どれくらい行ったの?」
「えっとね、全部で6社。そのうち4ヶ所はレコード会社とかそういうのだよ。内定は3社から戴いた。」
「なんであの事務所選んだの?」
「まあ家から通勤するの楽だし、何よりも詩音ちゃんのためにかな。あそこなら詩音ちゃんをデビューさせられる。そして育てることができるし、僕も一緒にいられる。一石何鳥だろうね。(笑)」
久しぶりに見た大樹さんの笑顔は、まるで私のためだけに用意されたように艶やかだった。やっぱり私には、大樹さんが必要なんだ。
短大を卒業した3月初旬。両親を東京に招き、私が所属する音楽事務所へ挨拶に行った。もちろん大樹さんも同席で、両親と会うのは初めてである。
「君が大樹くんっぺか?」
「はい。はじめまして。」
「東京で詩音の面倒を見てくれてたみたいで本当にありがとう。」
「いえ、こちらこそ詩音さんと仲良くさせていただけて嬉しく思います。」
これで4月から私はこの事務所に所属し、秋のデビューを目指して半年間のトレーニング期間に入る。私のこの3ヶ月間というスピードは、きっと誰よりも恵まれていると思う。だからこそ気を抜いてはいけないし、気合いを入れて頑張ると誓った。
街路樹の葉の色が変わり始めた。Shionとしてデビューした私の最初の曲『スターダスト』は、CD売上で週間1位、ダウンロードでも1位、駄目押しにCMタイアップも決まった。様々な音楽アワードの新人賞を獲得した私は、2年前のSolaさんを体感しているようだった。そして念願の紅白歌合戦への出場も決まり、同郷の先輩であるSolaさんと、ハミングの先輩である雨宮美鈴さんとの間接的な共演を果たすことができた。今頃お母さんは、町内を宣伝しながら歩いているのだろうか。リハーサルが終わった後には、同郷であることを聞き付けてSolaさんが会いに来てくれた。
ちなみに、大樹さんは私のマネージャーも務めてくれており、お互い不慣れな世界で奮闘している。
緊張で何も覚えていないが、私の初紅白は無事に成功した。舞台袖で見てくれていた大樹さんから労われると、緊張からようやく解き放たれて抱きついてしまった。
「お疲れさま。完璧だったよ。」
「ありがとう!全然覚えてないけど!(笑)」
控え室に戻ってスマホを確認すると、地元の幼なじみや短大で仲良かった友達からのメッセージで溢れていた。遠くから私を観てくれていたみんなには感謝しかない。
年が明け数日が経ち、大樹さんから電話がかかってきた。
「詩音ちゃん、とんでもないオファーが来た。」
「え、なになに!?」
「寺田聖菜主演の映画の主題歌と、もしよければ出演もしてほしいって。」
「え…本当に?」
「ああ。どうする?」
「受けるに決まってるじゃん!主題歌も、映画出演も!」
ハミングの店主である父から私のことを聞いたらしく、寺田聖菜さんの直々の要望だったらしい。でもそれも、大樹さんと出逢ったから起こった奇跡であって、そもそも大樹さんと出逢ったこと、ハミングへ連れていってくれたこと、そして大樹さんが私をこの世界に連れてきてくれたこと、どれか1つでも欠けたら生まれなかったんだ。
でもこれは本当に奇跡なのかな。もしかしたら、運命なのかもしれない。きっとそうだ。大樹さんとの出逢いも運命だったんだ。
そして今日。仕事終わりの大樹さんと一緒に、いつものハミングへ向かう。デビューしてからも毎週行っていたが、いつも以上に緊張している。
店の扉を開けると、店内は華やかな装飾がなされ、正面には大きく文字が並んでいた。
『大樹くん 詩音ちゃん 結婚おめでとう!』
私たちが結婚するのは、事務所の方々とここにいる人たちしか知らない。店主やお互いの両親はもちろんのこと、寺田聖菜さん、そして同郷のSolaさんと、この店の先輩である雨宮美鈴さん。倉田さんと、万葉さんも来てくれた。そして、この話を最後まで読んでくれたあなたもそのひとり。
ちなみに、私たちに明確な交際期間はない。プロポーズは大樹さんからで、それを進言したのは倉田さんらしい。みんな私の知らないところでいろいろやってくれてたんだね。
私は、きっとこの世で最も幸せな人間だ。こんなに素敵な人たちに出逢えてたこと、それは私が恵まれている何よりの証である。だけどそれで私は気を抜くわけにはいかない。私はこれからも歌い続ける。聴く人の心に刺さる歌を作り続ける。
私の歌を聴いてくれるみんなが、永遠に幸せでありますように。
──終──