女装男子と野良猫
少女の似姿が雨に濡れている。
世界が白む。
空に灰が満ちる。
少女を羽織って走るあの子の不純さを、幾億の雫で出来たヴェールで隠そうと、雨は激しく、白く、冷たく……
乳白のワンピースは突然の雨に濡れて透けてしまい、肌の色さえ浮かせて見せてしまっている。
けれどもワンピースの君は気にせずに道端に立ち尽くし、曇天を見上げていた。
走っても届かなかったと、いや本当は当てのない濃霧の中へと逃げ込んでいたのだと、気づいたような顔をして、放心した。
何を目指していたのだろうか、想像することすらできない理想をあの子は持っていたのかもしれない。
見上げる空から槍のように降る雨が無垢な目に染みる。程なくしてその顔に苦痛と絶望の機微を表した。
彼ないし彼女は覚えた。
油絵のように何層にも塗りつぶされて、剥がしても消えないような雲を睥睨することすら叶わないと。自らの無力さを知って、幼い瞳で見るには余りにも屈折した、世界の理不尽さを閉眼して目の当たりにしたのだ。
ただ瞑ったまま、それでも彼女は両手を高く、空を飛ぶ竜を捕まえるように伸ばした。
その隙間から漏れ出る光を探すためにか。
雨に濡れた少女の如き身体が、凍えて震える。
ようやく雨の中の子供は、風邪でも引きそうだなと思ったのか、腕を下ろして無闇に歩き始めた。
依然として殴りつけ、刺し尽くすように鋭い雨だ。
少女はその中をゆらりと歩む。
あらゆる冷酷を吸い込みながら。
過行く者どもがカバンを傘代わりにして、走り去っていく中少女は堂々と白百合の道を歩むように、亡霊の如き足取りで少女の城へと向かった。
少女の城。
少女の国。
タコをモチーフとしたカラフルなまだらの遊具が王城のように聳え立つ公園に少女は足を踏み入れた。
打ち付ける雨が鉄の遊具に当たって鈴のような音を奏でる。
凛とした音でも地面に沈む雨の方が多くて掻き消される。
少女にとってはどうでもいいことだ。雰囲気づくりにしかならない。
汚れないように既にずぶ濡れのワンピースをお姫様がやるように裾を両手でつまんで上げると、少女の王城へと歩みを進めた。
中に入ると、やっと雨以外の土臭い匂いを感じることができた。
こんなにも水気に溢れているのに喉は乾燥していることに気づいた。
鼻に入った数滴の雨が目頭を痛く刺す。
少女は――少女のような少年はワンピースの裾を雑巾のように絞って、雨で重くなった服を軽くした。
長髪で、整った幼顔は中性的に見える。まだ男子らしい骨格に育ち切っていない未熟な肉体なのだろう。顔は幼いながらにかなりの才能を持っていた。
(適切に呼称するならば)少女少年がワンピースを脱いで青と灰色のスプライトパンツを残して全裸になった。見る者が見ればその姿は欲情を煽りかねない破廉恥だが、土砂降りの雨の中オーディエンスはいない。来るはずもなかった。
「にゃーん」
しかし、洞の中を響き渡る鳴き声。
反響し、回折し、亡霊猫のような声に聞こえて少女少年は吃驚した。
「なんだ……猫か」
柄のない灰色の猫。
この空模様よりかは幾分か明るい色味をしてるが、それでも純白のお高くとまった飼い猫たちとは違う気品を持った白夜色だった。
そんな猫が金色の瞳で清々と自然と人間の方を見つめている。
こんな街において人間が物珍しいわけでもないのに何をそんなに興味深く見ているのか、見られている少女少年はどことなく何でもないはずのその猫が自分を『見世物』として扱う変態のように感じられて、自身の境遇もあってか怒りを覚えた。
「……見てんじゃないわよ」
吐き捨てるようにそう言って脱いだワンピースを胸元に手繰り寄せて、己の濡れた肌を隠そうとした。少女少年の声変わり中のハスキーな声は反響して、自分に帰ってきた。
忌々しい声変わり。
自身のアイデンティティを否定する身体の成長に嫌気がさす。
今はそういうことにセンシティブな少女少年、それは少女少年が雨に濡れながらここまで来る前にあった家での惨劇的な談義のせいでもあるが、クローズアップは今日はされない。
濡れた髪の毛を掻き分けて、肌に雨粒を滴らせて、猫を上から睨みつける。
ジッと見つめているうちに猫の方が口を開いた。
「あぁ、まじまじと見ちゃってごめんね?」
猫が、口を開いた。
口を開いて、口をきいた。
猫が?
驚きで、少女少年の世界は一瞬、時が止まって雨の音さえ掻き消えたようだった。
猫が足元をするりと通り抜けて、猫らしい素振りで尻尾を揺らして話しかけてくる。
「見てはいたけど、決してやましい目で見てたわけじゃないよ。だって僕妖精だもん。妖精は悪戯好きでも、やましくはないもの。猫のサキュバスでもないしね。僕は雨宿りの妖精、雨宿りしてる人の話を聞くグレイマルキン、よろしくね」
少年少女は喋り、踊る灰色の猫をただただ茫然と見るしかなかった。
生きる幻想がそこに居る。死んでしまいそうな程寒いこの夕暮れにこんな温かな幻想が現れるとは思いもしなかった。現実と偏見で曇り硝子のように歪曲してしまった眼に唯一この猫だけが輝いて見えた。未だ雨音だけが洞の中に重く、白く響き続ける。
「妖精……踊る猫……私の見ている幻覚かしら?」
「幻覚じゃないよ、幻想さ。愛しき雨の日の幻想」
「……そう」
半信半疑の眼。
どことなくマッチ売りの少女のことが思い出される。けれど、雨の日に楽しい幻想に触れながらゆっくりと眠るように死ぬのならそれはそれでよかった。
少女少年は脱いだ服を放り捨てて、座り込んだ。
そして、代わりに体を温めようと、毛深い猫を抱きかかえる。
「うにゃ。冷たい体だね、子供なのにこんなに冷え切っちゃって」
「子供だってずっと元気でいられるものじゃないのよ。冷えて、凍えて、風邪をひいちゃう。子供は結局小さな人間だもの。妖精のあなたはずっとあったかそうね」
「雨宿りの妖精が雨に濡れて風邪をひくなんてないよ。ずっと雨宿りするには暖かい心と毛皮が秘訣なんだにゃあ」
「うふふ、取ってつけたみたいな鳴き声……あぁ、寒い……」
雨は続く。
だって雨宿りの妖精がいる限り、その場は雨宿る場になってしまうから。
少女少年はグリマルキンを抱き抱えることで、悪天すらも支配した。
支配したとて、このまま降り続ければいずれ凍え死ぬというのに。偶然、無意識とはいえ少年少女はゆっくりと静穏に死に足を向けていた。
「妖精が見えるってことはまだ私は子供でいられてるのかしらね。私ずっと子供でいたいの。大人になったらなんでも一人でできるようになるけれど、声が低くなっちゃうもの」
「低い声はかっこいいと思うけどなぁ」
「好みの問題よ。私はカストラートのようなソプラノでずっと歌い続けたい。変わらぬ声であり続けたいの」
「へぇ、君は歌を歌うんだね。綺麗な服に綺麗な歌声、きっと歌姫なんだ」
歌姫と言われて、少女少年は少し顔を赤くした。
毛並みの柔らかな妖精のお世辞は冷えた心を温かなスープを与えるように溶かす。
「歌姫、そんなふうに呼ばれたことはないけれど、これでも結構上手なのよ……今は歌えないけど。声に限界が来てしまってね」
そう言って喉に手を当てる。
高い声を出そうとすると、今は掠れた音しか出てこない。喉の痛みも酷いものだ。
自分の少年性が失われることに少女少年は恐怖していた。
「限界。君の望む高く響く声。でも、いずれ成長してその喉から震える声は大地の底から登りでるような声になる」
「いつかはそうなってしまうのでしょう。いえ、訣別の時はもうきっと過ぎてる。なのに私はまだ囚われているんだわ」
土砂降りな雨はいよいよ世界を白く包んだ。
白亜の雨世界。雨宿りの声すらも雨音にかき消されてしまいそうなほどだ。
グリマルキンは悲しげに外に見える雨を見る。
そして彼女の涙を見た。
未来の冷たさに、成長の恐ろしさに嘆き、閉ざしてしまおうとする彼女を救ってあげたいと思ったのだった。
けれど、自分にある力なんていうのは何もない。
悪戯な猫妖精。
羽の生えてない雨宿りの妖精。
彼女のためにできることを考えて、ふと思いついたのは勇気の出るおまじないだった。
「囚われのアリス。グリマルキンには雨の中で話し相手になるくらいしか出来ないけど、君の心の震えが止まるように魔法を送ろう。さぁ、目を閉じて」
少女少年は言われた通りに目を瞑る。
途端に雨の匂いを鋭敏に鼻が察知する。その中にグリマルキンの花束のような匂いが混じっていて、冷たい鼻腔を温かくさせる。
たとえ幻想なれども、人を幸せにする力があるように思えた。
「君の成長に祝福あれ」
雨の音が止む。
少女少年はハッとして目を開けると腕の中に確かにあったあの毛皮の感触が、軽すぎる重みがなくなって、薔薇の残り香だけが残っていた。
外からは冷えた世界を照らすように太陽が光を射している。
残った水溜りが太陽光を浴びて蒸発する土臭い湿度が立ち込めていた。
幻想からも見捨てられたかのように少女少年は感じた。涙跡を消し去るように顔を腕で力強く拭うと、そのまま外へ出た。
夏の暑さが立ち込めて、綺麗な風が裸体の肌を駆け抜けた。
雨の上がった公園に少女少年はぽつりと零す。
「あぁ……こんなの、ただ雨が止んだだけじゃない」
空を見上げては輝きすぎる太陽に目をやられないように目の上に手を添えた。
見上げた青空の先。
「けど、綺麗な虹ね……」
大きく素敵に映えた虹が少女少年を見つめていた。
それは現実に残った最後の幻想のよう。
少しはにかんで、絞ったワンピースをまた着直す。水溜りを両足で跳ねて飛び込むと、泥も跳ねて真っ白だったワンピースを小汚く汚した。
屈託のない笑顔が遊んで汚れたワンピースに映える。
それこそ子供らしく見えた。
晴天の光。
葉の上の露。
水溜りの湖面。
またどこかの雨の中に猫の鳴き声を聞く。