訪問者はシルクロードを語る
なにかと噂の人が来訪します。
les quatre saisonsの主な客は、近くに住む主婦たちである。彼女たちは、家族が家にいる土曜日はあまり来店しない。その代わりに勤め人たちがやってくるのだが、雨の日にはその数も少なくなる。今日は朝から雨が降っている。
そんなわけで、その日の客は亘と久美子だけだった。
亘はテーブル席で静かに茶を飲み、久美子はカウンターでとりとめもなく話をしている。今日のように暇なときは、由里や茉莉香が相手をすることは珍しくはない。今日の相手は茉莉香だった。
「ねぇ、吉岡さんって知ってる?」
「誰ですか?」
茉莉香は恐る恐る聞き返した。
誰もいないせいか、あるいはもともとそういうことを気にしない性格なのか、
これからの話がいかに不穏なものかを予感させる物言いだったからだ。
亘は誰もいないかのごとく、平然とお茶を飲んでいる。
「あのクリニックに30年以上通っている人のことよ」
あそこが30年も続いていたとは知らなかったな・・・と
思うが、話の要点はそこではないだろう。
「学生時代から引きこもっているの」
30年以上通い続けていたら、それなりの年齢になっているだろう。
「ご両親がね、共稼ぎだったから、今のところ経済的には不自由していないんだけど自分たちがいなくなったら、家を維持することも難しいだろうからって、家屋敷を手放して、全財産をご両親が所属している宗教団体に寄付して面倒見てもらう手続きとったんですって」
「久美子さん。いくら誰もいないからって、そういう話はねぇ」
店の品性を保つのは店主の役割である。内容そのものもそうだが、話し方と、声の大きさも問題だ。
「はぁーい。すみませーん。でもね、茉莉香ちゃん。あの先生はメディアでも有名だけど、時代にそぐわないって言っている人もいるの。だから、合わないと思ったら・・・・・」
「久美子さぁーん!」
今度は声がちょっと怒っている。
どうやって他人の赤裸々な内情を知ることができたのか、茉莉香には理解ができなかった。そういえば、待合室で誰かれなく話しかける久美子の姿を見かけたことがある。les quatre saisonsでも絶えず誰かと話をしているようだ。
由里は、なんとかしてこの久美子にこの話を止めさせたかった。
そして、ある考えが閃いた。かなりの名案のはずだ。
「茉莉香ちゃん。世界史でわからないところがあるって言ってたわよね。亘さんに聞いたらどうかしら?」
突然ふられて慌てる亘。
いつも動じない亘だが由里にはめっぽう弱い。
「いや、世界史といっても僕の専攻は……」
「世界史なんてみんな一緒じゃない!」
由里はいつも理不尽さに亘は観念した。
「いらっしゃいませ!」
ようやくお客様が来た。話が中断できる。安堵のため笑顔が満開になる。
「えっ?」
あまりの歓迎ぶりに、たじろぐ客は20代半ばくらいの青年である。
慌てる相手を見て、茉莉香はなんとか冷静さを取り戻した。
「お好きなお席にお座りください。メニューをどうぞ」
「なにかおススメはありますか?」
「ウバティなどはミルクを入れると飲みやすいですし、白桃はストレートでさっぱり召し上がれます」
「じゃあ、ウバティお願いします」
彼は、きょろきょろとあたりを見回したのち、標的を見つけたようだ。
「岸田さん。ご無沙汰しております」
亘が見上げると、そこに見知った顔があった。彼は、雑学動画の作者、荒木耕一だった。
「おや、ひさしぶり」
言葉にとくに含みはないが、体の向きがいつの間にか、彼のいない方へ変わった。
「茉莉香ちゃん、何を教えればいいのかな?」
勉強を教えてくれるのはうれしいが、少し様子がおかしいなと思いながら、
「えっと・・・・『“中国西域から中央アジアまでの道、北方のモンゴルやカザフスタンの草原、ステップ地帯から黒海に至る道、中国南方から海へ出て、東南アジアからインド洋。アラビア半島に至る道”これらを総称してなんと呼ぶか?』・・・・と、いう問題なんですけど」
「う……んそれはね」
どう説明しようか考えていると、
「シルクロードです」
すかさず荒木が答える。
「え?そうなの?」
「ちょっと、意地の悪い問題だなぁ。シルクロードって一般的には砂漠をラクダで歩いているイメージだけど、『オアシスの道』、『草原の道』『海の道』って3種類あるんです。3本の道というのも正確ではないんですが・・・・」
ふたりのやり取りを聞きながら亘は考える。
(そう、正確ではない。道という線ではなく、ローマ帝国、中国、イスラムの国々を含む東西南北に網の目のように伸びた面というか・・・・・でも、それも的確とは言えない……)
「こんなにぱっと出てくるなんて。すごい!!」
きらきらとした視線を回答者に向けている。
彼は、女子高生に教師のごとく教えを授けたことを、気恥ずかしく思いながらも悪い気はしないようだった。
やがて、荒木は彼はここへ来た目的を思い出した。
「岸田さんのお耳に入れたいことがあって来ました」
女子高生にリスペクトされてゆるんだ顔が、緊張感の満ちたものに変わった。
亘は荒木の表情の変化を見逃さなかった。
「もう、閉店時間だ。話は僕の部屋でしないか?」
二人は店を出て、上階に上がっていった。
「茉莉香ちゃんもお疲れ様。今日は実家に帰るんでしょ?」
「はい。ありがとうございます。今日はこれで失礼します。」
茉莉香も家路についた。
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