アップルパイとアップルティー
そろそろ事件を・・・・と、思いましたが
そもそも事の発端を話していませんでしたね。
それは突然に始まった。
連休が終わり、初めての登校日だった。
いわゆる「連休ボケ」を気にかけながらも、クラスメイトと休暇中の話ができることを楽しみに茉莉香は教室に入った。
ところが……何かが違う。
挨拶をしても返ってくるのは生返事ばかり。
連休中のことを聞いても「えーーーーあーーーー」
という感じ。
そして、昼休み。いつもの席で食べようとすると。みながいない。
ピロティーで食べてきたという。
「ごめんね。言い忘れちゃった」
(忘れちゃうこともあるわよね・・・・・)
違和感を持ちながらも、自分に言い聞かせる
ところが翌日、その日はみんないつもの席で食べている。
だが、人の輪がぐるりと完結していて、入る隙間がない。
「えっ……ちょっと、入れて?」
と言っても返事がない。
それが始まりで、それが何日も続いた。
声をかけると、潮が引くようにいなくなってしまう。
ある日、上履きがなくなった。
それは校庭の水飲み場の蛇口の下にあった。
その次は、ノートがなくなった。
こちらをむいて、ひそひそと話すようになった。
これまでは休み時間は楽しくおしゃべりをし、放課後には買い物やお茶をした友だちが、なぜこんな風に変わってしまったのか?
いじめの軸となっているのは、一番仲が良かった澤本知佳だった。
茉莉香には原因がまったくわからなかった。
ある朝、眩暈がして起き上がることができなくなった。
近くの内科に行き、その後心療内科を勧められた。
そこで茉莉香は学校でのことをはじめて両親に話した。
学校と母親と茉莉香の間で話し合いが行われ、今後についての取り決めが行われた。
父親は当日仕事の都合で来ることができなかった。
母親は赤く目を腫らしていた。
優しい院長が穏やかに茉莉香に説明した。
「学校には保健室に1時間だけ登校すればいいですよ。
そのとき課題を出しますから、翌日までに提出してください。
それで1日出席したことにします。
まずは、体を大切にして、治ったら登校してくればいいですよ」
この状態ままで卒業することもあり得るということだ。
成績が一定のレベルに達すれば、附属の大学にも進学できるという。
茉莉香のこれまでの素行を考慮にを入れての、恩情と言えば恩情だが、いつまで続くのかを考えると、手放しでは喜べない。
そして、通学の負担を少しでも軽くするために、自転車での通学が可能な、海外赴任をしている叔父の契約している、こののマンションで一人暮らしをすることになった。引越しで環境を変えることは、カウンセラーのすすめでもある。
そんな風に、茉莉香の保健室登校が始まった。
1時限目が始まってから、他の生徒の目につかないように保健室に入り、休み時間をやり過ごし、2時限目を待って下校する。
そんな毎日を過ごして、ひと月ほど経ったある日、茉莉香のいる保健室に、体育でけがをした生徒が運び込まれてきた。茉莉香は、教師に頼まれて患者の担任を呼びに職員室に向かった。
休み時間だった。そのとき、クラスメイトのグループに出くわしてしまった。
彼女たちはいっせいに茉莉香を見た。
一瞬の沈黙。
その後、茉莉香の存在などなかった目にしなかったかのようにくるりと背を向けて歩き出した。
後姿からどっと哄笑が起こる。
茉莉香は足元から血の気が引いていくようだった。
哄笑も不快だが、一瞬目があったときの視線が心に刺さるようだった。それを思い浮かべたとき、へたへたと座り込んでしまった。
すぐに誰かが走り寄り、保健室に運ばれた。
その後、どうやってマンションへ帰ったか茉莉香は記憶が定かではない。
翌日は雨だった。アラームが鳴っても起きることができなかった。
先生から携帯に連絡があったが、でることができなかった。
食事もできず、ただベッドで寝ているしかなかった。
離れて暮らす母親の顔が無性に見たかった。
それはできない。先日実家に帰宅した時、父親の仕事のせいか家の中が慌ただしく、母親も疲れ切った様子だった。
これ以上、両親に心配をかけることはできなかった。
それしても、なぜ自分がこんな目に合うのだろうか?
なぜ自分だけが、他の生徒の目を逃れてこそこそと登校しなくてはいけないのだろうか。
いつまでこんな日々が続くのか。
不安と焦りで、このままではいけないと、思いながらも体が動かない。ぐったりと寝ていることしかできない。食事をしたいとさえ思えない。
外は薄暗い。まだ雨が降っているようだ。
あれから何時間経ったのだろうか。
やがて若い、健康な茉莉香の体にある現象が起こった。
(お腹がすいた)
一度食欲が湧くと、なんとしてもそれを満たさずにはいられない。
1階がカフェであることを思い出した。
何か食べるものがあるかもしれない。
「いらっしゃいませ。あと30分で閉店ですけど、大丈夫ですか?」
上品で快活そうな女店主が明るく声をかけてきた。
「は、はい。」
「ご注文は?」
「お食事したいのですが……」
口に入れば何でもよかった。
「サンドイッチはもう品切れですけど、アップルパイがありますよ」
とにかく何かを食べなくてはいけないと思った。
「それでお願いします」
「お茶はどうします?メニューをご覧になる?」
「はい」
メニューを開けて瞬間、茉莉香は目を丸くした。
原産地国名だけでも、インド、中国、セイロン、ケニア・・・・・・。しかも農園別、季節別に
分かれている。
少し前までぼんやりとした頭に、驚きという感情が沸き起こった。
「すみません。あの、おすすめってありますか?」
オーナーの女性は笑いながら
「そうよね。多すぎてどれかわからないわよね。アップルティーなんてどうかしら?アップルパイに合うのよ」
「じゃあそれで」
ほっとしてメニューを閉じる。
アップルティーはリンゴの風味で、味も香りもほんのりとした甘さがある。
温めたアップルパイを食べ、湯気の立つ紅茶を口に含む。
パイのさっくりとした歯触りと、リンゴの甘酸っぱさと、バターの香りが口に広がる。
「どう?紅茶はバターを使ったお菓子と相性がいいのよ。」
「はい。美味しいです」
思わず笑みがこぼれる。
空腹が満たされたためか、パイの美味しさが心を動かしたのか、張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れたようだ。茉莉香の目から涙がこぼれた。
「あらら・・・だ、大丈夫?」
「ごめんなさい、あの、あんまり美味しくて」
美味しいから泣くのだろうか?おかしな言い訳だと思いながらも、涙は止まらなかった。
「はい、どうぞ」
白いハンカチが手渡された。
閉店時間はとうに過ぎていた。オーナーと二人きりになった茉莉香は、ここに来るまでにあったいろいろなことを彼女に話してしまった。
「ごめんなさい。初めて会った人なのに」
洗いざらい話したせいか、涙も止まり、気持ちも静まっていた。
「いいのよ。私のお茶とケーキがあなたの役に立ってくれたみたいでうれしいわ」
彼女の言葉に嘘はないようだった。
「ねぇ、このパイね。私が焼いたの」
「え?すごい!」
そして、あらためて店を見渡す。
「素敵なカフェですね。紅茶専門店なんて初めてです
“les quatre saisons”ってフランス語で“四季”っていう意味ですよね」
精涼学院では、英語のほかにフランス語も教えている。
「そうなのよ♪ 季節の旬のお茶がそろえてあることと、そのときの気分で楽しんでもらえるように。という思いが込められているの」
茉莉香はあらためてメニューを見直す。たしかに毎日来ても、飲み切るのには、時間がかかりそうだ。期間限定のものもあるので、あるいはその日は来ないかもしれない。
メニューから顔を上げるとオーナーがなにか言いたそうにもじもじとしているのが目に入った。
そして、彼女の次の言葉を待った。
こんなとき、茉莉香はちょっと首をかしげておっとりと相手を見る。そのしぐさは、話し手の心を開かせる効果があることを本人は気づいていない。
「茉莉香ちゃん。このお店気に入ってくれた?」
「はい!」
「この上のマンションに住んでいるのよね?」
「はい!」
「実は、この前バイトの子が辞めちゃって困っているのよね・・・・・・」
こんな風にして、茉莉香はこの店で働くことになった。
そろそろ店の常連さんを紹介したいと思います。