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わんだふる  作者: garashi
8/11

8話

 敏子とのデートから帰宅し、マンションの玄関の前に立つ。玄関の扉は綺麗なままだ。確かに家を出る前に奇妙なことが起こったが、そんなことよりも敏子が僕に歩み寄ってくれたことの方が遥かに大きかった。僕は鼻歌を口ずさみながらキーケースを取り出し鍵を開ける。

 玄関を開けて家の中に入り靴を脱ぐ。目の前には先月買ったばかりのスリッパが、1足揃って並んでいる。僕は室内では素足派ではなくスリッパ派なのだ。今日家を出るときは何かと余裕が無かったはずだが、こうやって綺麗に揃っているのを見るに習慣化しているらしい。我ながらきちんとしているなと感心しながらスリッパに足を突っ込む。

 

 右足の指先が何かを押しつぶした。


「うわっ!」


 思わず叫びながら、スリッパから右足を引き抜く。

 グレーの靴下の親指部分に何か染みの様なものができていた。おそるおそるかがんでスリッパの中を見る。


 真っ黒な大型の虫が中で潰れている。

 うっ、と声に出しながら後ずさる。なんだこの虫は、気持ち悪い。仕事柄、こういった類の虫はよく目にするので比較的慣れている方だ。だが、自分の履いたスリッパの中にいる虫を潰すのはあまりに気持ちが悪い。


「いつのまに入り込んだんだ……」


 やはり一階だからだろうか。隣近所が最近生ごみでも溜めているのだろうか。

 スリッパの中の虫は既に死んでいるらしく微動だにしない。その潰れた黒い体から汁を滲ませている。


 これじゃあもう履けないな、とビニール袋の中に入れて口を縛ってゴミ箱に入れる。新しいのを買ってこなければいけなくなったが、今日はもう遅い。仕方がないので、明日買いに行くことにする。


 僕は靴下を脱いで洗濯機の中に放り込んで寝室に入った。テレビをつけてベッドに腰を下ろす。ニュースキャスターが早口でリポートしている声が聞こえてくる。どうやら殺人事件が起こったようで、犯人は捕まっていないとのことだ。被害者の住んでいるマンションの部屋に侵入した犯人が、中にいた男性を包丁でめった刺しにして殺したらしい。被害者の友人が目撃者らしく、被害者宅に向かおうと近くを歩いているときに悲鳴が聞こえたと思えば、返り血を浴びた犯人がマンションの入り口から血みどろの包丁を片手に出てきたとのことだ。そして、その犯人は被害者の顔見知りの女らしい。


 殺人鬼は家の中にも侵入するのだ。何と物騒なことか。マンションに一人暮らしの身としては、明日は我が身だとまではいかないがやはり怖いと感じてしまう。殺人鬼ではないが、不快害虫なら今日侵入してきたぞと心の中でつぶやく。もっとも、返り討ちにしてやったが。

 そういえば靴下を履いていたとはいえ、気持ち悪い虫を潰してしまったのだ。早くシャワーを浴びた方がいいだろう。そう思って僕は腰を上げると、着替えを持って風呂場に向かった。


 シャワーを浴びながら今日の敏子のことを思い返す。今後敏子から転職について色々と言われることも少なくなるだろうが、だからと言って全く考えなくてよくなったわけでもない。やはり彼女からしたら僕の職業は気になるところだろう。僕も今年で29歳になる。未経験の職種にポテンシャルで採用されるのも厳しい年齢だろう。何か資格の取得を視野に入れた方がいいのかもしれない。だとしたらどういった資格がいいのだろうか。

 普段はこんな風に将来のことを考えたりはしない。億劫な感情がどうしても優先するのだ。今、将来のことを前向きに考えられるのは、気分が優れているからだろうか。ドライヤーで髪を乾かしている間も、同じように思考することができた。

 寝室に戻りベッドに横になってからも今日の敏子とのことを考える。結婚する上でこれはプラスに働くぞ、と安心していつの間にか僕は眠りに落ちていった。 



 その夜、夢を見た。

 女が一人、夜道をゆっくりと歩いている。しばらく歩くと街灯が見えてくる。その街灯によって照らされている道には見覚えがある。そこは、僕のマンションのすぐ近くの道であった。女は僕のマンションの前まで来ると足を止め、入り口から中に入る。ゆっくりと一階の廊下を歩いて奥に進んでいく。そして、僕の部屋の玄関の前まで来て立ち止まる。女がドアノブを握り回すと、施錠されているはずの玄関の扉が開いた。そのまま女は中に入り廊下を進み寝室の扉を開ける。寝室のベッドには男が一人、横になっている。その男は全身を包帯の様なものでぐるぐる巻きにされて身動きが取れないらしい。部屋の中に入ってきた女に気が付いたのか、男は体をくねらせながら逃げようとする。しかし、うまく動くことができないようだ。女がベッドに近づき右腕を上に掲げる。その手には大きな包丁が握られている。女の顔はよく見えない。そして女は包丁を握っている手を勢いよく振り下ろした。

 ドっ、という鈍い音が響き男の腹に包丁が突き立てられる。刺された腹部と、顔を覆っている包帯が真っ赤に染まっていく。男は何とか逃げようと体を揺らすも、ベッドから移動することもできない。女は包丁を引き抜くと、ゆっくりと再び包丁を握る手を上に掲げ、振り下ろす。何度も何度も、女はその動作を繰り返す。

 その時、男の顔に巻かれた包帯が解けて顔が露になる。その男は僕と同じ顔をしていた。

 僕の顔をした男の表情は恐怖と苦痛で歪んでいる。口と鼻から血の泡を吹きながらもなんとか女から逃げようともがくも、じきに動かなくなった。女はそんな男の骸をじっと見降ろしている。するとどこからともなく、無数の黒い虫が現れベッドの上の男の死体に群がっていく。皮膚ををちぎるような耳慣れない音が幾度となく部屋に反響する。黒い虫の群れは、男の死体を食っている。

 しばらくその様子を見降ろした後、女がゆっくりと後ろを向いた。窓から僅かに漏れる街灯の光で女の顔が照らされる。


 女の顔は真っ黒だ。全体を黒い毛に覆われ、顔の上半分には目の様な黒い円が大小びっしりと並んでおり、下半分には涎を垂らす牙の様なものが歪に並んでいる。

 女は、おぞましい黒い虫の顔をしていた。

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