4話
清掃の日も朝から雨が降っていた。じめじめした空気を不快に感じ、僕は溜息をつきながら現場のアパートに向けて車を走らせている。作業服を着ているので余計に暑苦しい。カーナビの指示に従いながら道を進み、大通りから路地に入って数分ほど走らせる。目的のアパートは若干分かりにくい位置にあるようで、近くの有料駐車場に車を止めて歩いて向かうことにする。
車のエンジンを切り、必要な書類を確認してから後部座席に置いてある仕事道具を取り出す。荷物を抱えながら車外に出ると、雨に顔を打たれる。この時期にしては心なしか若干冷たい。
傘を片手に車に鍵をかけた後、周囲を見渡してみると何だか薄暗い。大通りからそこまで離れていないのにもかかわらず、人通りが少ない。周囲に10階建てほどのビルが建っているからか、晴れていても日が当たらないのだろう。なるほど家賃の低さもこれが理由の一つだなと考えながら僕はアパートに向けて歩き出した。
アパート自体はこの薄暗い一帯の隅に位置していた。10メートル程の細い路地道の最奥にポツンと佇んでおり、後ろと右隣には古いビルが建ち並びアパートを見下ろしている。左側には三階建ての同じくらい古いアパートが建っており、三面を自身より背の高い建物に囲まれている格好となっている。現場のアパートの玄関がちょうど細い路地の行き止まりに位置しており、まるで路地道に入り込んだ獲物を待ち構え補食せんとアパートという化け物が口を開いて待っているかのようだ。
「不気味だ」
僕はそう口から漏らしていた。都心近くの人通りの多い区域であるはずなのに、昔旅行で訪れたとある地方のさびれた街並みの様な、誰も人がいないあの空気を感じた。背の高い建物によって遮ぎられているからだろうか、通りの喧騒も聞こえない。暗いじめじめした空気だけがそのアパートを包んでいた。
気味の悪さを感じていると、どこかで犬の鳴き声が聞こえた気がした。わんっ、と短い鳴き声だが不思議とどこから聞こえてきたのか分からない。人はいないが犬はいるのか、と苦笑してしまった。もしかしたら、これから向かう清掃現場に残された体液や肉片を餌にしている犬がいるかもしれないなと考えてしまう。そんなわけあるか。いや、絶対ないとも言い切れない。なんせボロいアパートのはずだ。犬や猫が出入りする穴がどこかに空いているかもしれない。もしそうなら、現場に入った僕は食事中の犬と鉢合わせしてしまうかもしれない。そいつは人喰い犬だ。襲い掛かってくるかもしれない。僕もその部屋で殺されてしまえば、それは立派な事件だ。再び警察の現場検証が始まってしまい、その後に再びどこかの清掃会社に依頼が行って別の清掃員が訪れるだろう。その清掃員はまた食事中の人喰い犬と遭遇して殺されてしまうのだ。そんなことが繰り返されて、そのアパートは清掃員殺しの館と呼ばれて業界の人間達から恐れられるようになるのだ。
ふふっ、と軽く笑ってしまう。一昨日に敏子から仕事について話をされてからもやもやしていた心が少し軽くなったような気がした。
さて、くだらない妄想なんかしていないでさっさと仕事に取り掛かろうと思い、細い路地道に足を踏み入れる。足を進める度にアパートが近づいてくる。そんなにゆっくり歩いているつもりはないが、たかだか10メートルの道がとても長く感じた。
アパートに辿り着く。玄関前で足を止め、全体を見渡してみると改めて不気味に感じる。もらった情報によると築62年とのことだが、とにかく汚らしい。ところどころが黒い煤のようなもので汚れており二階へ向かう階段の手すりは一面が錆びに覆われている。いくつかの窓はひびが入っておりガムテープで舗装されている。そして、人の気配を感じない。多くの窓にはカーテンのようなものはかかっておらず、容易に内部を見ることができそうだが、全て真っ暗だ。
なのに、どこからか視線を感じるのだ。このアパートの住人達が窓や玄関の覗き穴から僕を見ているような、そんな光景が脳裏をよぎる。ふぅ、と一息つけて僕は階段に向けて進み出す。大家に挨拶する前に玄関だけでもいいので現場を見ておこうと思い、階段の手すりに手をかけようとしたそのとき、
「葛城さん」
僕は飛び上がりそうになった。ばっと後ろを振り向くと傘を差した上沢が立っていた。無表情でこちらを見つめてくる。
「お待ちしておりました」
「あ、こ、これから清掃に入ろうかと……」
驚きからかうまく挨拶ができなかった。一体いつのまに後ろに立っていたのだろうか。せめてもう少し気配を出して声をかけて欲しかった。
「あ、これ、書類です。ご確認ください」
「拝見いたします」
そう言うと上沢はその場で書類に目を通し始めた。あまり興味がないのかすぐに顔を上げる。
「確認しました。こちらが部屋の鍵になります。」
あっさりと内容を確認した上沢から鍵を受け取る。現場の部屋の鍵だ。
この上沢という老いた女は、喫茶店で会ったときも終始無表情だった気がするが、今日も変わらず無表情だ。そして瞬きもせずにこちらを見てくる。薄暗い雨の中、とても不気味な存在に思えた。
「ありがとうございます。では私は作業に入ります。終わりましたらお声がけいたしますので」
薄気味悪い目の前の依頼主から離れたく、そう言って僕は足早に階段を上ろうとした。すると背後から上沢の声がぼそっと聞こえる。
「綺麗に、してくださいね」
半分ほど振り向き軽く会釈することで答える。そして、半分ほど階段を登ったところで普段どこに上沢がいるのか確認していないことに気づき、質問しようと振り返ったが下には誰もいなかった。
「まじか。お声がけしますって、どこにいるのか分からなかったら声のかけようがないな…」
加えて大家である旦那の方にも挨拶をし損ねた。一応旦那が大家ということになっているので、依頼内容の確認くらい清掃前にしておきたかったが。まぁ、電話番号は知っているし、こういった老夫婦が大家の古いアパートは大家も同じアパートに住んでいることが多い。なんとかなるだろうと思い、僕は再び階段を上りはじめた。
件の部屋はアパートの204号室だ。1階も2階も4世帯が入っているので、2階の一番奥の部屋ということになる。階段を上り、2階の外廊下を奥まで進む。玄関扉の前まで行くと腐臭が僕の鼻を突いた。遺体はすでに警察によって運び出されているが、体液が付着した家具等が残っていると、それが臭いの発生源となってしまうのだ。僕はマスクを装着し作業バッグを開けて必要な用具が一式あることを確認する。そして、上沢から預かった鍵で玄関を開けた。アパートに着いたときから感じていた視線は今は感じない。
ぎぃと軋みながら扉が開く。明かりがついていないので暗闇が広がっており、中の様子ははっきりとはわからない。マスクをしているが、きっと開け放たれたこの扉から悪臭が溢れ出し僕を包み込もうとしているのだろう。明かりのスイッチを探そうと、玄関の中に足を踏み入れる。
暗闇の中、視界に入ってきたスイッチを見てぞっとする。動物の爪痕のようなものが無数についているのだ。スイッチの下に集中してひっかいた様な跡が残っている。
先ほどのアパートに通じる路地道の入り口での妄想が一気に再生される。この狭い廊下の先の部屋に、いる。この爪痕を残した奴が。明かりをつけてしまえば、誰かがこの部屋に入ったと奴は気づくかもしれない。そして、こんなボロいアパートの扉なんか突き破ってこの廊下に飛び込んでくるだろう。僕を見つけたそいつは喉元めがけて食い破ろうと飛び掛かってくるのだ。
「いやいや、馬鹿なこと考えてないで明かりつけなきゃ」
あえて声に出すことで妄想を振り払おうとするが、震えた小さい声しか出てこない。自分で思う以上に僕は小心者なのだろう。
おそるおそるスイッチに手をのばし、押す。カチッと小さな音が鳴り天井の電灯が点滅した。しかし2,3度点滅しただけで電灯がつくことはなかった。壊れているのか、何度か試してもつかない。あいにく懐中電灯は持ってきてないぞ、と心の中で悪態をつきながら、僕は玄関を開けたままにして外の明るさで中を照らそうとした。雨で薄暗いが少しは中が見えるだろう。よくよく見ると廊下はやはり狭い。玄関から入ってすぐ右が簡易的な台所となっており、反対側に引き戸がある。そして、奥にもう一つ引き戸がある。確か貰った図面からは台所の反対がトイレと風呂場で、奥の引き戸の向こうが寝室になっているはずだ。
狭い廊下にはゴミがほとんど落ちていなかったが、ところどころ黒く汚れている。次に寝室を確認しようと僕はゆっくり奥の引き戸に向かって歩き出した。寝室の明かりは生きているかもしれない。そうなら引き戸を開けておけば廊下も照らされるだろう。
引き戸の前に立ち、ゆっくりと手をかける。先ほどからくだらない妄想が頭で繰り返し再生されている。人喰い犬なんかいないと自分に言い聞かせながら、一呼吸置いてゆっくりと音を立てないよう戸を引く。顔が入るほどの隙間をあけ、顔をそっと入れて寝室の中を覗いた。
犬がいた。
僕は固まってしまった。
暗い部屋の中、引き戸の反対側の窓近くの机の上に、犬はいた。上向きの尻尾を左右にゆっくり振りながら窓から外の様子を伺っている。僕は目を見開いて犬を見つめることしかできない。体が動かない。首から下がまるで自分のものではないようだ。早くこの場を離れないと。せめてこの引き戸を閉めなければ。
その時、後ろからバタンと音がして視界がさらに薄暗くなる。声にもならない悲鳴を上げて後ろを振り返ると、開けていたはずの玄関が閉まっていた。誰が? 上沢か? 大家か? それとも他の住人か? 開けたままにしていたから閉められたのか? それとも建付けが悪く勝手に閉まったのか? 色々な思考が脳を巡る。玄関を見つめていると背後の寝室から視線を感じる。このアパートに近づいてから感じた視線と同じものだと、本能でそう判断する。心臓がまるで自分のものではないかのように、これまでにない速さで脈打つ。うまく動かない首をなんとか動かし後ろを振り向く。
顔一つ入るほど開けた引き戸を挟み、向こう側の目と鼻の先に、犬がいた。僕を見上げている。呼吸すら止まって見返すしかできない僕に向けて、犬はゆっくり口を開けた。尖った牙が現れる。殺される、そう思った。
「よお、ずいぶん遅かったじゃねえか」
いきなり聞こえてきたその声に驚いて、僕はとうとう気を失ってしまった。