島03.毛塚治子の視点
毛塚治子、女、50歳、身長155。
独身、未婚。黒髪黒目。姿勢が正しく、凛とした印象を受ける女性。
ネガティブな感情を持たない訳ではないが周囲にはそれを見せない。
島03.毛塚治子の視点
まさか私が、こんな目に遭うなんて。
そんな風に思ってしまうのも仕方ないことだと思いたい。
飛行機の墜落事故。
宝くじが当たるのに比べれば可能性が高いそうだけど、どちらにせよ可能性はかなり低い。
ただ、飛行機の墜落事故で死ななかったのだから運が良かったとは思う。
だけど足が痛む。
自称お医者さんの診断によると骨折しているそうだ。
墜落のショックで死んでしまう人に比べれば骨折は幸運とも言える。
だけど人生で初めての骨折は地味にきつい。
年も年だし。
とはいえまだ五十になったばかりだ。
骨はそんなには弱くなっていないと思いたい。
通常であれば二か月ほどで完治するはずだけど今は通常とは言えない。
私たちは飛行機の墜落事故で見知らぬ土地に居る。
近くに病院がありそうもないこんな場所では適切な治療は望めないだろう。
現状その辺にあった物を利用して足を固定して貰い、痛み止めを飲んでいる。
早く病院に行き、適切な治療を受けたい。
救助はまだ来ない。
墜落してどれ程の時間が経ったのか正確には分からない。
墜落してからの混乱は収まり今は皆がそれぞれに行動しているから、それなりに時間は経ったと思うけど、まだまだ救助は来ないものかしら? それとも来ていてもおかしくはないのかしら? 残念だけどそのての知識が無い私には分からない。
多くの人は座り込んだり寝転がったりして休んでいる。
だけど、働いている人が居ない訳じゃない。
自称お医者さんは精力的に動き回り、体調が悪い人や怪我人を診て回っている様に見える。
他にも火を焚くためかしら? 森から木を取ってきて組み立てている人や飛行機から荷物を取り出している人もいる。
火事場泥棒でなければいいけど、今の私ではどうすることもできない。
私の荷物よりも私自身の方が大事だ。
だけど惜しくない訳ではない。
少し苛立つ。
ままならない身体がこんなにも精神的苦痛を与えて来るなんて、大きな怪我の経験が無かったせいで知らなかった。
五十年生きたところで知らない事の方が多い。
百歳の祖父も知らない事の方が多いと言っていた。
まだ半分の私では当たり前ね。
少し離れたところに居る四人が楽しげに笑っている。
このような状況でも人は笑える。
それはきっと良い事だ。
だけど私に良い感情は無い。
だって足が痛むんだもの。
「はあ、何か良い事でもないかしら」
私のその呟きは誰の耳にも届かなかっただろう。
私の呟きと同時に地響きが轟くと皆の動きが止まり、それに集中したからだ。
それはきっと生物の根幹、生命の危機に対する反応なのだろう。
獣の咆哮の様なものまで聞こえてきた。
これはもしかして大変な状況かもしれない。
「地響きがした時に山の中腹の木々が倒れていった」
そんな誰かの声が聞こえた。
山? 確かに少し遠くに山は有る。
少し遠いけど、木が倒れた瞬間を見たと言っているのだから、きっと見たのだろう。
老眼で遠視になっているから私にも見えているという訳ではない。
「あら? そういえば老眼が気になってなかったわね」
思わず口から言葉が零れた。
まあ、細かい文字を読んでいる訳ではないのだから気にならないのも当然かしら。
山をしっかりと見る。
ここから一番近い山の中腹の木々が倒れたのだとしても、そこから獣の咆哮がここまで聞こえてくるかしら? それに山にあるどの木を倒したのかは知らないけど、ここから確認できるとなると大きな木のはず。
そんな大きな木を倒せるほどの獣が果たしているかしら? 例え、そんな獣がいたとしても、地響きと共に複数の木を倒すとなると難しい。
仮に象であればどうかしら? 可能であるような気もするけど、分からない。
だけど象ならそんなに危険では無いかしら。
ああでも興奮状態にある象は物凄く危険だと聞いた記憶が有る。
あら? そもそも象の鳴き声とさっき聞こえた獣の咆哮の様なものは違うわね。
それに、獣の咆哮の様なものはあくまでも様なものだし、獣の咆哮だと断定できるものじゃないわね。
地響きと共に木々が倒れたのは地崩れが原因であり、その影響で獣の咆哮の様な音が聞こえたという可能性の方がよほど高いかしら。
その様なことを考えていたら、人が近付く気配を感じたので、そちらを見る。
私と同年代か少し上かしら? 事故の後だというのにロマンスグレーの髪が上品にまとまっている素敵な紳士が、微笑し会釈した。
私も微笑み、会釈を返す。
「初めまして、突然すみません。あなたが足を骨折している女性ですか?」
「はい。そうですけど、あなたは?」
「私は近藤と言います。霧崎君に頼まれてあなたの松葉杖を作りに来ました」
「霧崎君?」
「お医者さんの名前です。自分で言うのもなんですが、私は少しばかり手先が器用でして、それを知っていた彼から松葉杖を作って欲しいと頼まれたんですよ」
「なるほど」
その辺にあったものを上手に組み合わせて見事に松葉杖を作っていく近藤さん。
素晴らしい才能だと感心する。
私も才能が有ると言われているけど、今は役に立たない。
そのうえ恥ずかしながら性格にも難が有る。
一方、近藤さんは性格も素晴らしい。
松葉杖を作る作業をしながらも、私と会話をして楽しませてもくれている。
さっきの獣の咆哮の様なものに対する私の考察についても賛同してくれて単純に嬉しかった。
近藤さんの様な才能と性格は尊敬するし羨ましくも有る。
「そろそろ暗くなってきましたね」
言われてみれば確かに薄暗い。
出来上がった松葉杖の具合を確かめながら空を見る。
一番星どころかいくつも星が見えている。
あら? 何か変ね。
空に少しの違和感。
何だろう? 私の知っている空と何か違う。
「何か変ですね」
「え? 近藤さんもそう思いますか?」
「ええ、こんな言い方は間違っているかもしれませんが、私の知っている空と違います」
「私もそう思っていたんです」
一緒に空を見ていた近藤さんも違和感があるようだ。
そうこうしているうちに夜の闇が深くなっていく。
星たちがより明確に見えるようになると、違和感の正体に気付く。
私の知っている星座が一つもない。
そんなに星座に詳しくはないし、ここが日本ではないことを踏まえても、知っている星座が一つもないのはたぶんおかしなことだ。
「毛塚さん、ここは一体どこなんでしょうか? 日本でないことは分かっています。ですが、ここはまるで地球とは別の世界のようです」
「確かに、この空を見てしまうと、ここが地球とは別の世界だと言われても妙に納得できてしまいますね。ですがこのことは他の人にはなるべく言わないでおきましょう」
「どうしてですか?」
「他の人にとって今は知らなくても良い情報だからです。先程の獣の様な咆哮のこともあります。私たちの言葉でここが未知の世界だと強く感じてしまったら、救助がなかなか来なくて不安に思っている人はパニック状態になってしまうかもしれません」
「確かにそうかもしれませんね」
そう言いながらも近藤さんはまだ何か言い足りないようでもあったが言葉を続けなかった。
なぜなら私たちの方へ近づいて来る人たちが居たからである。
先程、少し離れていたところで笑い合っていた人たちの中の二人、十代後半くらいの青年たちだ。
「こんばんは」
にこやかに礼儀正しく挨拶をする青年と会釈をする真面目そうな青年。
真面目そうな青年はどこか不満が有りそうな顔をしている。
とりあえず挨拶を返す。
近藤さんも勿論挨拶を返していた。
青年たちは自分たちの名前を告げて来た。
にこやかなのは朽木君で真面目そうなのが片平君。
私たちも名前を告げようとすると、朽木君が遮った。
「知っていますから大丈夫です。毛塚さんと近藤さんですよね」
「え? どうして?」
どうして私たちの名前を知っているのだろう?
私の仕事は講師だ。
今まで教えてきた生徒は数多く、相手は私のことを知っていても私は知らないなんてことはよくある。
だから私の生徒だったなら私の名前を知っていても不思議ではない。
だけど近藤さんの名前まで知っているのはおかしい。
もしかしたら私が知らないだけで近藤さんが有名人である可能性もあるけど……
その疑問の答えは得られないまま朽木君は話を続ける。
「種明かしは後でします。ところでお二人とも夜空を見ておかしいと思ったんじゃないですか?」
まるで近藤さんと私との会話を聞いていたかの様に質問のていを取りながらも断定的に話してくる。
近藤さんと私は互いに視線を合わせどちらともなく頷いた。
そして近藤さんが口を開く。
「確かにおかしいと思いました。あなた方もおかしいと思われましたか?」
「こっちの片平は星座には相当疎いのでお察しです。俺もそんなに詳しくないですが、おかしいと思う人がいるだろうことは想像ついてました」
「なるほど。ですが朽木君はおかしいと思っていない?」
「その通りです。だってここは地球とは異なる世界、異世界ですから」
「おお……」
感嘆したかのようにそう呟くと近藤さんは何かを考えこむかの様に黙ってしまった。
私も朽木君の言ったことについて真剣に考える。
一笑に付すことはできなかった。
まるで地球とは別の世界のようだと近藤さんに言われて妙に納得してしまったばかりというのもある。
だからといって現実的に考えると異世界であるという言葉に素直には頷けないとも思う。
だけど何故だか分からないけど、朽木君の言ったことを少し信じてみたい気持ちもある。
相反する気持ちが存在している。
少しすると朽木くんがまた話しかけてきた。
「ところで毛塚さんは武術に精通していますよね。気功は使えますか?」
どうして知っているの? その言葉はあえて飲み込んだ。
推測もしない。
種明かしは後でしてくれるといった朽木君の言葉を信じることにする。
「そうね、知識としてやり方を知っている、とは言えるわ」
「でも感じることができない?」
「そうね」
私が講師をしているのは古武術だ。
多くの人に教えてきた。
手前味噌だけど古武術の使い手としての評価はそれなりに高かった。
才能が有るとも評されていた。
だけど講師としての評価はそれを大きく上回るものだった。
それはつまり使い手としては頭打ちであると私は思う。
実際、体系的に古武術の技術を深く理解することはできても体現できないことがそれなりに有った。
気功もその一つで、やり方は理解していても気功という謎のエネルギーのようなものを感じることはできなかった。
思い返してみると、有って欲しいと思いつつ信じてはいなかったのかもしれない。
「今ここでやってみてください」
「分かったわ」
なぜだか不思議と朽木君の言葉に従ってしまった。
だけど特殊な環境にある今、やってみるのも有りだと思ったのも確かだ。
うちの流派で代々引き継がれている気を練る為の動きを行う。
骨折している足に負担を掛けないようにほぼ上半身のみの動きだけど、問題は無い。