2月4日 節分と設定改変
昨日は節分です。皆豆は食べたかな?家族は自分以外豆嫌いなので残った大豆は僕が全部食べなければなりません。しかし、一日で食べられる量には限りがあるので何日かに分けます。後は空いた時間に少しずつ食べ進めていこうと思います。
本日の話題は「設定改変」について。
漫画・小説等を原作とするアニメや映画を見ていると、たまに目立つような改変が見受けられます。個人的にはその理由が納得できるのであればあまり問題視しないのですが、怒る人は本当に怒るようです。「原作通りに再現するのが当然」「そんな改変をするのならオリジナルでやれ」だなんて声も聞きますが、どうも僕自身の意見とは食い違う点になりそうです。というわけで、今回はこの話題をちょっとだけ掘り下げます。
まず、大前提としてほぼ全ての「商業作品」が商業的な成功を目標にしている事をご理解下さい。そりゃそうですよ、言っちゃ何ですがお金が欲しいから棚に乗っけてるんです。そうでないようなもの、例えば自己顕示欲から生まれた作品未満や最初から失敗させる事を目的にした悪意ある作品を除けば、基本的にはそのつもりで作られているはずです。ここで執筆しておられる先生方の中にも、書籍化に代表されるメディアミックスによって得られる金銭の為に続けている方もいるでしょうし……。
ましてや、商品なんてものは提供者(作者)と消費者の間だけで成り立つような代物じゃないんです。本来はその間にもっと多くのセクターが挟まっていく訳です。まぁ、今はその中間マージンへの批判から新たな流通体系が生まれようとはしていますが、少なくとも現状の主流は上記したようなものだとお考えください。
で、ここから本題。改変は、その「必要性」と「妥当性」が認められるのであれば概ね理解出来るとするのが僕の立場です。
「必要性」は、その改変が作品上重要なファクターにどれほど影響するのかという点です。例えば、日常の延長たる世界観での恋愛が主題であるならば、「日常的」や「恋愛」といった根本的ファクターが残っている必要があります。キャラクター単位で言うならば、そのキャラクター及び作品を成り立たせるような設定が改変されるのであれば、それは原作再現という点では些か厳しい目を向けられうると解します。
「妥当性」は、改変の結果が受け手にとって一定以上の同意・納得を得られるかどうかという点です。例えば、原作が荒廃した未来を舞台とするのに、改変によって現代日本が舞台になったとしたのなら、その差から来る違和感は大きいものとなります。ここまで極端でなくても、受け手の認識と改変のズレが生じれば、その作品の評価に少なからず影響を与えるといっても過言ではないでしょう。殊更原作が存在するような商業作品であれば、予め受け手(消費者・視聴者等)がその内容を想定しうるものであるため、このズレがひどく目立ちやすくなります。
以上の2点が僕の「設定改変」の評価基準になります。では、次週は実例を挙げながら改変の是非を語っていきたいと思います。