エリザベート
◆
――わたし、お父様のような騎士になるわ。
淡く暖かな光で満たされた世界で、無邪気に笑う幼女。
『そうだなエリザベート、楽しみにしているよ』
それは女騎士エリザベートの、幼き日の姿だった。
色とりどりの薔薇が咲き誇る邸宅の庭先で、父であるハイアット・ニクロスア辺境伯が優しく微笑み、彼女の金色の髪を優しく撫でた。
女の子が騎士だなんて……と横で聞いていた母が困ったような、楽しそうな笑顔を浮かべている。
広大な敷地を有する邸宅の庭で、ひときわ美しく輝くのは純白の薔薇。
あの頃は、全てが幸せだった。
苦学と修行の末、王国騎士団に所属し、やがて女性の騎士として白薔薇騎士の称号を得た。それは父の辺境伯という地位と七光りだと陰口を叩かれもしたけれど。それでも尊敬する父に近づけたことは喜びであり、エリザベートの誇りだった。
――お父様、私……騎士になれたのかしら……?
すると、庭の向こうから愛犬のシャルルが駆け寄ってきた。激しくじゃれつくと、エリザベートの頬を大きな舌で舐めた。ペロペロ……ペロペロ……と。
――もう、シャルルったらお止め。あっ……お父様、お母様?
不意に世界が揺らいだ。父の姿と優しい母の姿が、急激に遠のいてゆく。
――まって、お父様……お父様!
手を必死で伸ばすが、空を切る。
シャルルが行く手を阻むようにじゃれついて、顔を舐めるのをやめない。いつの間にか夢の世界は黄昏て暗くなっていた。すでにお父様の姿も、綺麗な薔薇の咲く庭も消えていた。
感じるのは愛犬シャルルがペロペロと、ベロベロと……ベロンベロンと、しつこいほどに顔を舐める感覚だけ。
――ちょっ……やめて、シャルル! やめてってば! シャ
「……ルル?」
はっ! とエリザベートは目を覚ました。
夢……?
いや、違う。ここは……
『んっ、はぁあ、はぁあぁあエリザベェェト……さまぁあ……ン』
ビッチャァネチャァ……耳の側で音がした。そして、レロォオオオンと生々しい舌の感触が頬を舐めあげた。だが、それは愛犬シャルルのものではなかった。
「ひ、ィッ!?」
エリザベートは思わず悲鳴を上げた。
耳元で聞こえる荒い息遣い、そしてベロォン……と生温かい舌が頬を舐める感触に、凄まじい嫌悪感と、怖気が背中を駆け抜けた。
ゾッする感触に身体をよじろうとするが、ガシャン! と音がした。
「なっ!?」
両手足が冷たい鎖で繋がれている。身動きが取れない。しかも身につけているのは夜着のような薄衣だけ。あられもない姿で実験台のような台の上に縛られている。
――こ、これは一体……何だ!?
意識が一気に覚醒し、ぼやけていた視界が戻ってくる。
――見知らぬ天井……?
何処かの地下室だろうか。暗く、幾つか淡い光が灯っている。
『アァ……レロレロォオン……』
「きっ……貴様は……イッ……イグニール!?」
なんと頬をベロベロと舐め回していたのは、あの道化のような騎士、イグニールだった。
いや――。正確にはイグニールの顔をした、犬だ。
身体は茶色く毛が生えており犬そのもの、尻尾を激しく左右に振るのが見える。だが、顔は狂気と喜悦に歪んだ……イグニールの顔なのだ。
『フゥン……フゥウンン! レロレロォオン……』
ここは悪夢の続きか。そうであって欲しいと願うエリザベートの願いは虚しくも否定された。
生ぬるく不気味な舌が、明らかに現実だと告げている。
「なッ!? 何故……貴様、その姿は!?」
イグニールは同郷の出身だが、没落貴族の息子。温情と慈悲でエリザベートの父に引き取られ、陪臣の屋敷で面倒を見てやっていた。だが、美しいエリザベートに執心し後を追うように騎士になった。配属は赤銅騎士という下級騎士。
だが持ち前の道化のような振る舞いと器用さで、上手く立ち回り、いつのまにか白薔薇騎士の行動を監査する騎士監察官の役職を得て、同じ隊に配属されたのだ。
辺境伯である父に恩情を感じていたせいか、エリザベートにまとわりつきはしたが、悪さはしてこなかった。
今思えばこの男の振る舞いは、しつこい野良犬のようだった。
『……ハァハァ、私はァ、私ハねぇ、今ァエリザベェト様の犬になったのですぅう、クゥウン! ずっとずっと夢見ていた貴女の、愛犬になれる日をぉお……!』
尻尾を凄まじく振りながら台座に登り、上から見下ろしながら顔を舐める。なんという変態か。あまりにも不快な感触に、気が遠くなる。
「け、汚らわしい! やめろッ……! お前は……狂っている!」
『ハァハァ、そんなぁ……犬ですよぉお? 犬、お好きですよねぇ? ……ペロペロ、レロレロしたいって……ずぅううっと、お慕い申しておりましたぁ……』
犬臭い息に思わず顔を背ける。しかし身体は動かない、目に入ったのは何かの祭壇のようなものだ、そこに誰かがいる。
天井の梁に吊るされた魔法のランプによってかろうじて分かるのは、薄暗く何処かの地下だということ。壁一面には棚があり、何かの薬品のラベルの張られた茶色い瓶や、魔法の触媒らしい骨や乾燥した植物の根、鉱石などが並んでいる。
「ぐっ……!」
湧き上がる疑問と同時に、内臓を貫かれた感覚を思い出した。焼けるような痛み、呪いに徐々に蝕まれてゆく死の恐怖も。
そうだ、自分はあの時――魔法騎士リーデンハイアットの凶刃に倒れたのではなかったか。
そして意識を失った。
あの後、いったい自分はどうなったのか。
記憶をたぐり寄せるのを遮るように、またベロンと生臭い舌が顔を舐めた。
『エェリザァベェェト、さまぁアアアン……!』
と、その時だった。闇の向こうから人影が近づいてきた。青白い鬼火のような魔法で足元を照らしながら。
「おやめなさい、イグニール。まったく望み通り忠実な犬にして差し上げたのに……見苦しい」
『アァ……アァア! リーデンハイアットォオオ様ァアアア、ハァハァ、ありがとうございますぅう! 今……私はァアア、最ッ高の幸せヲォオオ感じておりマァアアッ!』
だらしなく舌を垂らし、まさに犬のようだ。現れた男に向けて駆け寄っていくが、直前で魔法か何かで弾き飛ばされた。
キャウン! と喜ばしそうな悲鳴をあげ壁に激突するイグニール。
「……汚らしい犬め」
「き、貴様……魔法騎士……リーデンハイアット!」
エリザベートが首だけを動かしてその姿を睨みつけた。裏切り者の汚名を着せた、憎き男の名を叫んだ。ガシャリと手足の鎖が音を立てる。
「おや、お気づきになられましたか、エリザベート嬢」
まるで仮面だ。表情筋を全く動かさず口だけで声を出している。瞳に宿るのは底知れぬ闇。もはや人間的な感情のゆらぎなど感じない。
「これは何のマネだ……! 私に……何をするつもりだ!」
「生かして差し上げるのですよ。貴女を」
「な、に……?」
意味がわからない。だが、何かの祭司のような黒衣を纏った魔法騎士、リーデンハイアットは口角をわずかに持ち上げながら、淡々と語る。
「貴女の心臓は今、私の魔法で動かされています。本来なら貴女は死んでいる。未知の怪物に組みした裏切り者として、処刑されてもおかしくなかったのです」
そうだ思い出した。『闇の眷属』討伐戦の後、共闘してくれたあの赤い髪の少女、ナマハゲ・カレンと名乗る少女とともに自分は刺し貫かれたのだ。
「貴様……!」
「あぁ、あれはちょっとした不幸な事故でしたが……。お詫びにこうして生かしてさしあげているのですよ」
得体の知れない、呪いの剣。あれはただの刀傷ではなかった。鎧を容易に貫き、内臓を蝕む死の呪いを流し込まれた。
「……思い出したようですね。貴女は、私の計画を遂行する上で、まだ死なれては困るのです。貴女のお父上、ハイアット・ニクロスア辺境伯の介入を招くと厄介なのでね」
「計画とは……いやその前に、その犬は何だ!?」
嫌な予感がした。イグニールの首から下の身体は明らかに犬だ。身体が変異したものではない。
「貴女は、光と闇。どちらがこの世界を統べるに足るとお考えですか?」
「貴様……闇に落ちたかリーデンハイアット!」
「ずいぶんとお元気だ。ですが、自分の置かれた立場がまだおわかりでないようです……ね」
ぱちん、と指先を鳴らすと、心臓が急に脈打つのをやめた。
「か……かはぁっ!?」
息ができない、エリザベートは意識を失いそうになる。だが、再び心臓が動き始めた。苦しい呼吸と共に、魔法の力で心臓が動かされているのだと理解する。
「生殺与奪、貴女は私の掌の上なのですよ? おわかりになりましたか。ではまず、私の問いへのお答えを頂きましょうか?」
「く……こ……」
「ん?」
黒衣の魔法騎士リーデンハイアットが僅かに小首をかしげ、エリザベートの唇から漏れる言葉に耳を傾ける。
「くっ……殺せ、こんな辱めを……受けるくらいなら」
「そうはいかないと申し上げたでしょう?」
そう言うとリーデンハイアットは掌の上で赤黒い燐光を放つ、黒い鉱石を見せた。
それは黒魔晶石だった。
「そ……れは」
「そうです。人体を……いえ、生命体の垣根を超えた融合を実現する、奇跡の力。闇霧の神――グ=ネテゥープ様の力の顕現……! すべての生きとし生けるものを一つにする、素晴らしい力!」
リーデンハイアットがこれでもかと言わんばかりに、狂気に顔を歪めた。
そうか……そういう、ことか。
女騎士エリザベートは理解した。
三人の人体が融合した『闇の眷属』に、犬と融合した道化の騎士イグニールの悍ましい姿。
それらは全て、あの闇霧の神が引き起こした、暗黒の外法なのだと。
そして、目の前にいる黒衣の魔法騎士リーデンハイアットが仕組んだ事か。
「さて、騎士エリザベート。あなたには簡単な、改造手術を受けてもらいます。なぁに、痛くはありません、グ=ネテゥープ様の力を得て素晴らしい存在に成るだけですからね」
黒魔晶石をエリザベートに近づける。
『イーッ! イーッ!』
背後で犬の体のイグニールが歓喜に打ち震えている。
「や、やめろ……貴様……! そんな……私は……」
私は、光と法に殉じる正義の――
騎士、なのだ。
――お父様……。
エリザベートの意識は、そこで再び途絶えた。
◆
<つづく>




