佳代(かよ)、たったひとりの戦い
眼下の通りから人々の悲鳴が響き渡った。
「逃げろ、危ない!」
「――きゃああっ!?」
馬車が急停車し壁に激突、転びながら逃げ出す人が見えた。
「一体何だ、ありゃぁ!?」
「衛兵を呼べッ!」
――何? 一体、何が起こっているの?
佳代の立っているのは二階の屋根の上、何が起こっているかまでは分からない。
映画に出てくるような中世ヨーロッパ風の街並みの中、馬車や人々が行き交っている。その一角で騒ぎが起こったようだ。
夜の帳が下りた路地はガス燈に似た光で照らされ、石畳の規則的な陰影を濃くしている。
佳代は様子をよく見ようと、屋根の先端でしゃがみこんで目を凝らした。
人々は逃げ出してしまったのか、通りからはすっかり人の気配が消えていた。
青紫色の霧が石畳を舐めるように流れてきた。
まるで毒ガスのような、不気味な瘴気の気配が濃くなってゆく。
と、その時。
明かりに照らされた石畳の上に、長い影がのびた。
黒い影の動きは尋常ならざるものだった。
それが人間ではないと、佳代にもわかった。まるで蜘蛛のような動き。四肢を、あるいは複数の触腕を動かす「何か」だ。
「なに、あれ……」
佳代は息を飲んだ。
人が消えた路地に姿を現したのは、六本足のタコのような怪物だった。
否――。人間が3人、背中合わせに密着している。上から見ればちょうど関節のあるタコのように見える人間の接合体。
全身が赤黒いのは、血か何かの液体なのか。上半身には首が3つに腕が6本、背中は大きく膨らんで接合しているらしく、グュグュと不気味にうごめいている。そして足が6本、外向きについて動いている。
それは、悪夢から這い出してきた怪物さながらの醜悪さだった。
動きは不安定で、ヨタヨタとし方向を見失っているようにも思えた。
苦しげな3つの顔はそれぞれの方向を向き、腕をワサワサと動かしている。背中が接合した人間たちは、男性が二人に女性が一人。
三人の共通点は、白地に青い線の入った法衣のようなものを身に着けていることだ。それさえもズタボロに破れ、赤黒い液体に染まりつつあるが。
「――ひッ!?」
屋根の上で尻餅をつき、悲鳴をあげそうになった佳代は自分の口を押さえた。
だが、次の瞬間。
3つの首が、ぐるん! と同時に佳代の方を見上げた。
――見つかった!?
虚ろな眼窩には赤い不気味な光が宿っていた。ギィン……! と、激しい頭痛を覚え、目眩のような強烈な悪寒が全身を貫いた。
ニィイイイイッと三つの口元が同時に歪む。途端に溢れ出す液体が地面を汚す。
すると怪物はそれまでの動きとは一転。素速くガサガサッと六本足を動かすと、腰を一斉に屈め、そして跳ね上がった。
「来たぁ!?」
信じられない動きだった。人間を背中で貼り合わせた怪物が壁を蹴り、向かい側の家のバルコニーにしがみついた。
そして、屋根の上で腰を抜かしかけた佳代――鬼っ娘に狙いを定めた。
『素敵ィイイイイイ……!』
『神にニィイイイ……!』
『選バレシィ……!』
3つの首がゴキゴキと音を立てて180度以上回転しながら声を発する。
『『『福音の使徒ナリィイイイッ!』』』
斜向かいの建物のバルコニーにしがみついた怪物と、佳代の距離は12メートルほど。いきなり飛んではこれないだろうが、屋根伝いに登ってこられたらヤバイ。
佳代は這々の体で逃げ出した。
「じょっ……冗談じゃないわよ!?」
口から言葉を発することで佳代は呪縛を解き、屋根の上を四つん這いの犬のように走り逃げ出した。
振り返ると、同じ高さの屋上に怪物がよじ登ったところだった。こちら側に飛び移ろうと、しているのだ。
『闇霧ィイイイノッォオオ神ィ!』
『グ=ネテゥープ様ノォオオオオッ!』
『加護をォオオオ、受け入レナサィイイッ!』
口々に謎の神への帰依を叫びながら、ビチャァ! と屋根から屋根を飛び移る。
その度に謎の液体が散り、あたりを汚す。
佳代は逃走を試みたが、屋根はあっという間に行き止まり。「うおっとと……!」と急停止。
2階建ての普通の民家の屋根の上とは言え、その高さに目がくらむ。
振り返ると、最初に立っていた位置に怪物はたどり着いていた。青紫色の霧が怪物の後を追うように、湧き上がってくる。
「う、嘘でしょ!? 嫌、いやぁ……ッ!」
――ゴローちゃん、助けて……!
佳代は祈った。だが、祈りは届かない。ナマハゲの面を被り、この世界に来てしまった以上、都合よく助けが来るはずもなかった。
ビタビタビタ……ッという湿った音を響かせながら、6本足の怪物が迫ってきた。
距離は10メートルもない。
『逝くのデェス!』
『私達トォ共ニィイイツ!』
『安寧ナル神ノ国ヘェエエッ!』
恐怖と死の気配が、闇の霧とともに迫ってきた。
――怖い!
佳代は咄嗟に目を瞑った。
嫌だ、嫌だ……!
「嫌アッ……ッ!」
逃げなきゃ、逃げなきゃ!
ここから、逃げなきゃ……!
逃げて……逃げて。
――でも……もし。逃げられなかったら?
逃げ出したって、食べられてしまうかもしれない。
ここはそもそも何処? 見知らぬ異世界で、自分は逃げ出して何処にいけばいい?
いつも心のなかでは泣いてばかり。
それを悟られるのが嫌で、人生の苦難や嫌なことから逃げ出した、結果が今。だからこんな見知らぬ世界まで堕ちて来たんじゃないのだろうか。
これ以上、自分は一体、何処に逃げられるというの?
泣き続けて、逃げて、どうなるの?
怪物との距離は5メートルも無かった。スローモーションのように狂気と喜悦で歪んだ三つの顔が迫ってくる。
もし今、死を受け入れれば、あの不気味な怪物の一部になるのかもしれない。
嫌。
そんなのは嫌。
絶対に嫌だ!
生きたい。
生きて、帰りたい。
そしてまたゴローちゃんに……逢いたい。
ドクンッ……!
心臓が強く脈打つのを感じる。熱い想いが身体を突き動かした。恐怖に怯えていた手足に、炎のような熱が巡ってゆく。
「私は……ッ!」
泣いてなんて、いる場合じゃない。
だって今、私は……まだ生きているのだから。
生きたい!
がっ、と咄嗟に背中の「鉄棒」を握りしめた。
冷たく固く、そして重い。鉄の武器。
そして理解する。これが自分の選ぶべき道なのだと。
『『『逝コウッ! 新世界ニィイイイッ!』』』
佳代は背中から鉄棒を振り上げる。そして全身の筋肉をバネのようにして、目の前に迫った三つの頭、そのうちの一つ目掛けて振り下ろした。
「もう――泣く子じゃぁ、ないん……だッ!」
振り下ろした棘付きの鉄棒の先端が音速を超えた。
パッ! と円形に広がる衝撃波が周囲の瓦屋根を吹き飛ばすと同時に、怪物の頭が砕け散った。
<つづく>