幼馴染は三十路でバツイチ
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寒風山から吹き下ろす風が戸を揺らしている。
秋田県男鹿市――日本海を望む男鹿半島のとある集落。船木小五郎が目覚めたのは、自宅の敷地裏に立つ古い蔵の奥だった。
「う……ん?」
懐かしい匂いがした。
何百年もつづく旧家である船木家の蔵は、土と埃の匂いがする。長い時間を経て、先祖たちが暮らした記憶が澱のように積もっている。
――オラは……戻ってきたのか?
気がつくと、小五郎は狭く暗い蔵の奥で倒れていた。
ナマハゲの面を被ったのはこれで二回目だ。そこまでは覚えている。
小五郎の精神は「異世界」へと飛翔していた。それが夢だったのか、幻覚だったのかは定かではない。だが、一回目は盗賊に襲われている現場。二回目は勇者崩れの押し込み強盗が貧しい家を荒らす現場へと。場所も状況も違えども、確かに行っていた。
二回に渡って跳躍した世界には共通点もあった。西洋のファンタジー映画のような、あるいはRPGゲームに出てくるような世界だったということ。
金髪や赤毛の人々がいて、剣と魔法が普通に存在した。
印象深かったのは美しい女騎士がいたことだ。無我夢中で怪物から彼女を庇い戦ったが……無事だったのだろうか。
と――。
小五郎はようやく違和感に気がついた。淡いランタンの明かりが天井を照らす蔵の奥、柔らかい感触が後頭部を支えている事に。
目の焦点が定まると、自分を覗き込む女性と目が合った。
「ゴローちゃん!? 大丈夫!?」
化粧と大人の女性の匂いが脳髄を刺激する。
小五郎はそこで完全に覚醒した。
「佳代……ちゃん?」
それは幼馴染の佳代だった。年齢は小五郎と同じ31歳。最近、離婚して出戻ってきたばかり、つまりバツイチだ。
彼女の膝枕の上に、自分の頭があった事に気がついて慌てふためく。
「良かった、気がついた! どこか痛いところはない? 手は、足はうごく!?」
矢継ぎ早の質問は、余程心配していたのだろう。
温かくて柔らかな手が、頬を乱暴にぺしぺしと叩いてくる。
「お前が叩いている頬が痛ェ」
「もう! ゴローちゃん……よかった」
手の動きが止まる、気がつくと彼女の目には涙が浮かんでいた。思わず小五郎は身を起こした。
「だ、大丈夫だって、ホラ、もうこの通り。ちょっと……目眩が」
「ちょっとって……。そんな、ダメだってば。病院行こう、ね。救急車呼ぼうか!?」
腕を掴んで心配そうに顔を覗き込んでくる佳代に、小五郎は心臓の鼓動の変化を感じていた。安心させようと、ぎこちない笑みを浮かべてみせる。
だが、骨ばった男の笑顔は逆に心配を加速させたようだ。
「顔がひきつってるじゃない」
「あほ、そういうんじゃねぇんだ。あ、いやすまねぇ、全然平気だから。心配かけてすまなかった……」
「ホントに、平気?」
「あぁ。それより看病してくれたのか? もさげね」
もさげね、は「申し訳ない」の方言だ。恥ずかしい時はとても便利だったりする。
「なら、いいけど……もう。いい年なんだから身体には気をつけなきゃ」
「佳代もいい年じゃねぇか」
「もう!」
子供の頃はよく遊んでいた。けれど中学、高校になるにつれて疎遠に。彼女は高校の卒業と同時に上京し、いつしか結婚したと風のうわさで聞いていた。
だが何の事情かは知らないが突然、田舎に戻ってきた。
去年の夏の終わり頃、家の前で草刈りをしている小五郎とバッタリと顔を合わせて、ぎこちない挨拶を交わした。それは十数年ぶりの再会だった。
それから近所ということもあり、時々世間話をしたりするようになった。年末に開かれた久しぶりの中学の同窓会をきっかけに、一緒に飲みに行くかと誘ったのもつい先日だ。
「ゴローちゃん持病なんかあった? てんかんとか、脳溢血とか」
「ねぇよんなもん。ちょっと、な」
「ちょっとじゃわかんないよ! 心配したんだから。蔵の扉が開いていて、呼んでも返事がなくて……」
「いや、その……」
佳代が心配そうに俺を覗き込んでいる。
ふっくらとして笑うと愛嬌のある顔。長くウェーブした茶髪を適当に結んでいる。昔は色気とは無縁の、カエルの手足を千切って男子に投げつけるような女子だった。
それが、30を過ぎてなんともいえない色香を感じてしまう。
「何でも言って。秘密にするから、身体……どこか悪いの?」
「違うんだ。実は……」
俺は事の顛末を説明した。
最初は何を言っているのかと心配された。頭でも打ったのか、酒の飲み過ぎかと。
それでも佳代は、やがて傍らに落ちている「ナマハゲ」の面を手に、半信半疑だが受け入れてくれた。
「つまり、このお面を被ると知らない世界にトリップしちゃうの? ナマハゲの姿で?」
「んだ。オラも最初は信じられなかった。だって考えても見ろ。この場所、蔵の隠し部屋、つづらの中だぞ? 普通の品物じゃない」
たしかにね、と鬼の面をしげしげと見つめる佳代。
「被ってみていい?」
「わがね。ダメだ、ナマハゲは女人禁制だぞ」
ナマハゲの風習は男鹿半島のこのあたりに残っている。担い手不足が問題になった昨今、それでも女人禁制という古い掟は守られ続けていいる。
「知ってるわよ。別に、お面を被ってみるだけよ、外を出歩くわけじゃなし平気でしょ」
「それはそうだが……」
自分に何が起こったか、向こうの世界で何を成さねばならないか。ルールと危険性を説明した上での反応だから始末に終えない。
「ゴローちゃんの話が本当か、確かめたげる」
一瞬、小学校の夏休みに神社の裏山を一緒に冒険した佳代の表情と重なる。
あの時と同じ好奇心と、楽しいイタズラを思いついた時の目をしていた。
「変だったら、すぐ外すんだぞ」
「その時は、ゴローちゃんがいるんだし。平気でしょ」
近くにあった古い葛籠の上に腰掛けると、佳代はお面をじーっと見つめて、やがて意を決したように顔に近づけた。
けれど一度そこで手を止めて、小五郎のほうを見て一言。
「もし私が気を失っても、変なことしないでよ」
「しねぇよ!」
佳代はケラケラと少女のように笑うと、ナマハゲの面を被った。
<つづく>