彼女とお酒と音楽と
私は彼女が大好きだった。十六歳の出会いの頃から、ずっと変わらず好きでいる。いつも一緒に行動したし何でも話したから、そのうち自分の考えている事なのか彼女の思考なのか、区別がつかなくなったこともある。彼女は私を信頼してくれていたし、私は彼女を尊敬していた。
それなのに特別なきっかけがあったわけではなく、なんとなく会話がかみ合わなくなって、電話をする回数も減っていった。
「元気?」と聞けば「まあね」と彼女は答える。
「仕事はどう?」「ぼちぼちやな」
こんなやりとりが、その後しばらく続いた。
私が誘えば出てきてくれるし、私のどうでもいい話も彼女は聞いてくれる。でも何かが決定的に変わってしまっていた。それが何かはわからなかったけれど。
彼女とあまり話せなくなったのは、私が二人目を出産をした後ぐらいからだ。
出産してすぐの時も、友達と二人で病院までお見舞いに来てくれたけど、彼女はずっとぼんやりしたままで、以前のように話ができなくなっていた。その様子を友達が不思議がったけど、私にもどうしてそうなったのか、よくわからない。
よくわからないまま、十年も経ってしまっていた。
薄情なことにその間、私は彼女の事をあまり思い出さなかった。彼女からの年賀状は、毎年届いていたので全く忘れたというわけではなかったが、そこに記される手書きの文字から彼女の匂いは感じられず、彼女がよこす年始の挨拶と一年の無事を願う言葉は、どこかの企業のダイレクトメールのように思えた。
私はその頃、育児に追われてそれどころではなく、彼女のことを心配したり、考えたりする余裕がなくなってしまっていた。でもそれがただの言い訳だということを知っていた。気付いていながら、知らないふりをしたのだ。
夫には「私、去るものは追わない主義だし」なんて冗談めかして言ったけど、本当はただの強がりを言っただけなのを、夫は気づいていただろうか。
あの時期、私ではだめだったのだろう。私はそれが寂しくて、悲しくて、悔しかった。でもなんとなくわかっていた。必要とされていないことを自覚するのが怖くて、私は忙しいことを言い訳にして逃げていたのだ。
私はずっと、寂しかった。
彼女からの電話を受け取るのは、十年ぶりだった。他人が聞くと聞き流してしまうような会話の中に、隠された暗号のような言葉がある。それは家族や恋人の間だけで通じる言葉で、かつて私と彼女はそういう言葉で話すことができた。久しぶりに電話をしてきてくれた彼女と、以前と全く同じようにとはいかなかったが、十年ぶりに聞く彼女の声は、音叉のような安定を取り戻していた。
そして私は彼女と会う約束をした。
ドキドキしていた。私は彼女と話せるだろうか。久しぶり、元気だった?と、ちゃんと言えるだろうか。また彼女と向き合えるだろうか。
『ギリギリになると思うから、先に入ってて』彼女からのメールが届いたのは、開演二十分前のこと。私は一人でぼんやりと開演前のSEを聞いていた。ドキドキしているのは、これから始まるライヴへの期待なのか、それとも十年ぶりに彼女と会うからなのか。
薄暗い会場の中で、私を見つけた彼女は、少しうつむいて目を伏せ、笑うのを我慢しているのがわかるくらいにキュッと口を閉じて、小股でコソコソと走ってきた。
「久しぶり、元気だった?」きちんと話せないままライトが落とされ、ライヴが始まった。
再会の場所に選んだのは、昔から私達が大好きだったシンガーソングライターダンサーのライヴ会場だった。
大音量に圧倒され、年齢を感じさせないダンスに驚き、ポップなメロディーに酔い、これでもかと息苦しくなるくらいに、音とリズムが迫ってくる。隣にいる彼女とは何も話さなくても、無言の会話をしているかのような気分になった。
昔からそうだった。音楽は彼女と私の共通言語だった。会場を出る頃には、お互いが同じ言葉を話していたことを思い出していた。その夜のライヴがいかに素晴らしかったかを話しながら、夜の街を二人で歩いた。
私は誰かと歩く時、相手の左側に立つ癖があった。それは私が左利きで、食事の時に肘がぶつかり合うのを避けるうち、いつの間にか左側が私の立ち位置となったのだ。
ところが彼女も、左側が自分のポジションだと言い張るので、二人で歩くと左側を奪い合うことになる。
そんな左側だが、子供を産んだ後、私はあっさりとそのこだわりを捨てることができた。子供と歩く時に、私が必ず車道側を歩くようになったからだ。いつも都合よく左側が車道だとは限らない。
彼女とこうして梅田の街を歩くのは、本当に久しぶりのことだった。私は黙って、自分の左側を彼女に譲った。彼女は昔からそうしていたかのように、自然に私の左側を歩いた。
十年という時間は、そういう小さなできごとを、簡単になかったものにしてしまう。そのことに彼女は、気づいただろうか。
ライヴの間立ちっぱなしで足が疲れていたので、たまたま目についたバーに入った。ほんの少しのお酒の力を借りて、彼女と向き合った。
多くは語らなかったが、この十年、彼女は精神的にキツい年月を過ごしたようだった。彼女の背負うものが大きすぎて、「会えなくて、寂しかった」とは言えなかった。
彼女の方が大変な状況にあると思うのに、昔と変わらず私のことばかり気づかっていた。
店を出て駅まで向かう間、彼女はまた私の左側を歩いた。終電までもう少し同じ時を過ごしたかった。彼女と私は、それぞれ反対方向の地下鉄に乗って帰るので、駅がお別れの場所だった。
「地下鉄来る音聞こえてるよ。早く行きなよ」と私の背中を押す。改札をくぐり、小走りで階段を下りると、ホームに扉を開けて車両が到着していた。
私は扉が閉まるのをホームで見ていた。
長い鉄の塊がホームから走り去った後、反対側のホームに地下鉄を待つ彼女を見つけた。彼女は、もう私が乗り込んだと思っているだろう。
反対側のホームに地下鉄が到着した。
私は柱のかげに隠れ、誰もいない部屋へ帰る彼女を、そっと見送った。