マラルメの沈黙、ランボーの逃走
Wikipediaを見ると、マラルメは完全な詩作を目指して、結果、非常な寡作になったそうだ。一方、その対蹠と見えるランボーは、詩作を捨てて、アフリカへ渡っている。
マラルメが完全な作品を目指して、ついに一つの沈黙に至るという事は彼のありあまる才能を示していると言えるだろう。才能や能力というのはそれが限度を超えると、それ自身を食い尽くすに至る。そういう豊穣な悲劇をマラルメは体験したのだろうし、ランボーも同様な悲劇に陥った。ただ、両者はタイプが違っている。
ランボーは詩作を捨てて、アフリカへと渡っている。ランボーの魂の音色は例えば「想えば、よくも泣きたるわれかな。来る曙は胸を抉り、月はむごたらし、陽は苦し」に見る事ができる。しかし、これは世界に対する嫌厭の裏返しでしかない。ランボーにおいては世界に対する毒舌と自己に対する愛、自分の懐かしさを歎賞する事は一つの精神の異なった断面に他ならなかった。
ランボーの中のもっとも美しい歌は次に代表される。
「鳥の群れ、羊の群れ、村の女達から遠く来て。
はしばみの若木の森に取り囲まれ、
午後、生ぬるい緑の靄に籠められて、
ヒイスの生えたこの荒れ地に膝をつき、俺は何を飲んだのか。
この推さないオアーズの流れを前にして、俺に何が飲めただろう」
…もちろん、詩人は何も飲めなかったのである。詩人の口を潤すものは何一つなかった。そしてその事を知っていからこそ、この哀れな詩人はオアーズの流れの前に辿り着いたのである。
この叙情的な気分、美しい風景が、ランボーの退廃と疲労とが臨界点を越えて始めて現れる場所だという事に注意しよう。ランボーが美しい風景に出くわすのは彼がへとへとに疲れ果て、己にも世界にも侮蔑と慈愛を投げつけた「後」である。世界が終わった後にもう一つの世界があるのかーーー人は疑問を持つだろう。無論、それはある。しかし、それを語る事はできない。ランボーはそれを一瞬、言語化する事に成功したが、それをランボーの目を透して再び見るとは何と辛い事だろう。我が国でも、小林秀雄という哀れな詩人がランボーの目を通じて、「もう一つの世界」を見た。
ランボーには行き場はなかった。彼の倦怠が、疲労が一つの美しい光景を見たとしても、それは雪解けのように消えていくものだ。一方、マラルメは頑強に己の立場を固守した。マラルメには書斎があり、家族があり、仕事があった。彼には芸術について語り合う、非常に狭隘だが、確固とした小さなグループがあった。マラルメには籠城する場所が僅かに残されていたが、ランボーにはそのような場所はなかった。ランボーという名のついた不良少年ーー愚かな詩人は世界の街路を放浪する他なかった。彼のポエジーはこの宇宙に居場所を持たなかった。だからそれは今でも宙を飛んでいるのである。
マラルメの主調音は次のようなものだ。「全ての書は読まれたり、肉は悲し」 マラルメもランボーと同様に嘆いているように見える。しかし、マラルメはおそらく、嘆いている自分を嘆いたりはしなかった。マラルメの沈黙はランボーの詩からの逃走とは訳がちがう。マラルメは自分の詩作に籠城し、ついにそのまま外に出られなくなった。そんな滑稽な姿を想像してみても、怒られないだろう。マラルメは詩作を捨てなかったが、それが不完全であり、彼の表現上の意図と表現されたものとのギャップに苦しんだ。彼にとって書く事は不完全だという事は、彼の頭に浮かばなかったのだろうか。どうしてマラルメはアフリカに逃げ出さなかったのだろうか。彼は詩の城に籠城し、窒息しつつも詩作したのだろうか。
ランボーは己の詩を蹂躙する事が、彼の詩作の全体像となる特異な姿を見せている。これは例えば、哲学を食い尽くす事がその人の哲学そのものであったウィトゲンシュタインのような存在になぞらえる事ができる。これは非常に不思議な事であるが、詩や哲学という語の定義そのものによる。才能ある者、優れた者は、その能力故に一つの絶対的不可能性に突き当たる。しかし、余人には、絶対的不可能性なんてものは能力の不足故に突き当たるものとしか思われない。ランボーが外道の言葉しか持たなかった所以である。彼は人に語る言葉を持たなかった。彼の詩はまるで宙に浮かんでいる。それと会話する事はできない。ランボーはあまりに天使であった。
ランボーは詩を食い尽くし、マラルメは詩の可能性の海の中で沈黙してしまった。マラルメは広大な詩の世界で一人佇み、その周囲を見る。やれやれ、と彼はため息をつく。「肉は悲し、全ての書は読まれたり」 その間、ランボーはもうアフリカに旅立ってしまっている。彼は詩作を置き去りにして世界の果てに行ってしまった。では、彼が捨てた詩を通じて彼の姿を追う私達はやがて、世界の外に出なければいけないのだろうか。答えは、出ない。
僕は彼らが体験した悲劇について言う事はできない。ただ一つ言える事は、彼らは人間というより、詩人という名にふさわしい生物だったという事だ。彼らの魂を言葉が侵食した時、その侵食の意味を更に言葉で疑おうとしたマラルメと、それを切り捨てようとしたランボー。しかし言葉はどこまでも追ってくる。全てを嘆いた時、その嘆きは一つの美しい歌となる。では、その美しい歌をまた詩人は嘆くのだろうか? 無限に続く彼らの道筋の中ではどんな光も見えてこない。あるいは彼らの世界はあまりにも光り輝いて力強い。だからこそ、彼らもそれに焼きつくされしまったのだ。その事に僕がかける言葉はない。
現代では、詩はどこへ消えたのか。全ての物事に自分を預け、傾けないーーつまり、何事にも呪われる事なく、己を客観的な立場に置いておく事が現代の流行なのだろうか。では、詩の欠けた世界を歌う事は一つの詩となるのだろうか。僕はイエスと答える。ランボーとマラルメの姿は遠くで光り輝いている。そして私達の世界はそれに比べれば暗く濁っている。しかし、彼らの姿が近くに見えてくるほど、僕達の身に孤独がやってくる。その時、僕達は詩によって再び世界を力強く見るだろう。その時、この世界はどんな色をしているか? それは僕が答える事ではない。かつて、ランボーやマラルメが見たもの。それは必ずや、まだ存在していない詩人が再び見る事になるだろう。僕はこの現代においても未だにそういう信仰を抱いている。