烏の足音
本編中、難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
なお、本作は2012年頃が舞台となっています。
業界最大手のサンダーディスクから発売された、おとめ座銀河団のデビューシングルCDである「烏の足音」は、同社らしからぬ控えめの宣伝にタイアップも無い状態であったが、然し爆発的なヒットと為った。発売初週の売り上げ枚数、所謂初動枚数こそ五千枚弱と、ノンタイアップ曲且つ一枚目のシングルにしては健闘と云える枚数だったが、口コミに因り火が点き、発売から五週目でチャートの上位三位に喰い込み、七週目で遂に首位を獲得した。落日の兆しがある昨今の音楽業界に取って、強力な後押しや金に糸目を付けない宣伝活動に頼らず、純粋に曲が評価され、首位を獲得したと云う事実は、多くの業界関係者を奮わせた。また、流行り廃りに目敏い中高生の間では早くから注目されており、着うた・着うたフルの順位では二週目には一位を奪取し、以降八週連続で首位に立ち続けた。
一体、此の曲の何が其れ程迄に評価されたのだろうか。或る評論家はテレビの取材にて、斯う語った。
「矢張り、歌詞が良かったんでしょうね。実際に起こった事件を題材にし、其れをバンドのメンバーがより幻想的、且つ悲劇的に描き出した。此れに尽きるでしょう。事実、歌詞の閲覧を専門にするウェブサイトでは発売から三ヵ月経った今でも上位を保守していますから。確かに、曲の方も出自がロックバンドであるのに童謡調の老若男女誰にでも口遊める単純で王道なものに仕上げたのも人気の要因の一つではありますが、矢張り歌詞が良かったのでしょう」
所で、此の曲に纏わる、一つの信じ難い噂がある事を御存知だろうか。以下、其の信じ難い、だが若者の間では驚異の浸透率を誇り、事実であると広く認識されている噂を、紹介していく――――。
駐輪場にシティサイクルを停め、潜戸章哉は今日も築四十有余年のくすんだ鉄筋四階建ての校舎に吸い込まれていった。最上階に在る教室迄の、苦行とも云える階段地獄に辟易しつつ漸く最後の段を上ると、もう目的地は直ぐ其処だった。
「おいっす!」
自席に着くと、前席の級友、春賀透流が声を掛けてきた。
「おう」
章哉が挨拶を返すと、透流は流行りのスマートフォンの画面を見せ付けてきた。
「なぁ、此の歌知ってるか?!」
自分の椅子に座った儘章哉の机に身を乗り出し、捻じ曲がった姿勢にも拘らず、透流は嬉々とした表情で尋ねた。
「何が?」
章哉は差し出されたアンドロイド機を透流の手から毟り取り、4・2インチの液晶画面を注視した。一時停止中の音楽再生画面であり、CDのジャケットと曲名、アーティスト名が表示されていた。
「『烏の足音』? 誰の歌?」
「書いてあんだろ?」
「『おとめ座銀河団』……。聴いた事無いな」
「そりゃそうだろ。何たって、発売されたばっかのデビュー曲だからな」
「へぇ……」
何か悪戯――例えば、送信メールを見る等をしたかったのだが、生憎章哉はスマートフォンに必要性を感じておらず、従来の携帯電話、俗に云うガラケーを使用している為、タッチ操作が基本のグーグル社謹製のOSは全くの未知であり、従って何の操作をする事も無く、素直にピンクがかった赤色の筐体を持ち主の手に戻した。
「此れ、スッゲェ良い歌だからさ、後で聴いて呉れよ! 絶対!!」
透流は満面の笑みで言った。童顔気味の透流は笑うと幼く見える。章哉は「あぁ」と気の無い返事をした。
間も無くHRの開始を知らせる鐘が鳴り響き、古惚けた学び舎は幾億度目かの通常運転へと突入していった。
三時間目が無事終了し、学校は昼休みと相成った。
「なぁ、聴いてみてよ!」
透流は背後を振り向き、イヤホンを挿したソニーエリクソン製のスマホを章哉に突き出した。
「俺さ、スマホの操作分かんねぇんだよ、イヤホン貰うからお前が再生して呉れよ」
「ああ、そっか。分かった」
ビクター製のカナル型イヤホンを耳に装着し、透流に再生を促した。流れ出したのは、何処か素朴さを感じさせる前奏だった。続いて高音域迄軽々と伸びやかに拡がる男声ヴォーカルの歌が耳に届いた。暫し曲を聴き取る事に専念し、歌詞の世界観を想像する事に腐心した。五分弱で曲は終了し、次の曲が再生され出した所で、章哉は自分の両耳からイヤホンを引っこ抜いた。
「どうよ? 良いっしょ?!」
良かった、と云う感想が聞ける事を信じて疑わない表情の透流は尋ねた。
「ああ……確かに、良い歌だな」
「でしょ?! 絶対売れると思うわ、此れ」
「……まぁ、俺好みの曲調じゃないけどな」
「そりゃ……しゃーないっしょ。でもさ、歌詞はどうよ? 俺さ、此の歌で一番良いの、歌詞だと思うんだよね」
「ああ、確かに詞は良かったな。うろ覚えだけど」
「チョイ待って……」
そう言うと透流は机の脇に備えられた自分の通学鞄の中を弄った。
「此れ! どーよ?」
得意気に取り出したのは、「烏の足音」のシングルのCDケースだった。慣れた手付きで歌詞カードを引き出すと、章哉に手渡した。
「お前、買ったんだ? 円盤」
「ああ! 俺、気に入ったモンには金は惜しまない人だから」
「あ、そう……。まぁ、俺もそうだけどね。賃借ってあんま気乗りしないし」
「だよなー! やっぱアキャとは気が合うわ!」
「其れって気が合うって言うか?」
因みに、アキャと云うのは、章哉の渾名である。透流が名付け親で、今やクラス中に広まり殆どの級友にそう呼ばれている。
「後で見るよ。先に飯喰うわ」
「ああ。帰り迄に返して呉れりゃ良いよ」
透流は章哉の机上にコンビニのレジ袋を置き、中からカレーパンのパッケージを手に取り、封を開け頬張った。章哉は母手製の赤いランチョンマットに包まれた二段重ねの弁当箱を開き、中に詰められたスーパーの惣菜品の唐揚げを箸で摘み口に入れた。
放課後、歌詞カードを返却した章哉は訊いた。
「此れって実在の事件なのか?」
透流は確証を得ない、と云う顔付きで答えた。
「んー、どうやら実話らしいんだけど、如何せんデビューしたてで碌な情報が転がってないもんでさぁ……。本人達の発言が未だ無いんだよね」
「そうなのか……。気に為るなぁ」
「だな。まぁ、直に雑誌か何かに記事出ると思うから、其れ待ちだな。どう? 好きに為った?」
「うーん……曲自体は気に為るから、取り敢えず着フルは買ってみよっかな……。配信してる?」
「してんじゃねぇかな……。サンダーだし」
「へぇ、サンダーディスクなんだ。大手じゃん」
「うん。でも、サンダーにしてはタイアップも無いし宣伝もあんましてないんだよな……」
「まぁ、そう云う事もあるんじゃねぇの? デビューさせる奴全部が全部ゴリ推しって訳じゃないっしょ」
「……だと良いけど」
「お前、『絶対売れる』とか言ってたじゃん」
「まぁ、そこそこは売れると思うけどさ……。一発屋に為って欲しくないじゃん?」
「そりゃ、一発当てたらガッツリ宣伝して次作が売れる様に持ってくだろ」
「そうだな……。ま、俺の知ったこっちゃないか!」
「そうだよ。お前がどう斯う言った所で大企業の営業方針が変わる訳じゃないからな」
「だな! 俺は何の力も無い一小市民、村人Aだからな!」
ハハハ、と笑い合った。高校二年からの付き合いなので、章哉は半年しか透流の事を知らないが、確実に気の置けない親友に為りつつあった。
「お前さ、今日は? 帰り、一緒出来るか?」
「あぁ……、悪ぃ今日一寸用事があってさ……」
「どうせ女だろ?」
「まぁ、な」
「今の娘で何人目だよ? えぇ? 誑かしやがって」
「誑かすって……。俺が悪いみたいじゃん。俺はちゃんと付き合ってんよ、毎回。最終的に別れるって事に為るだけで」
「そっかそっか。モテる奴は違うねぇー! 別れの後に新しい出会いがあるんだからな」
章哉は皮肉たっぷりに言った。
「おいアキャ、僻んでんじゃねぇよ。男の嫉妬は見苦しいぜ?」
透流も微笑みつつ余裕たっぷりに返した。お互い、冗句で言い合っている事は承知の上だ。そう斯うしている内に昇降口に到着し、靴箱で上履きと靴を履き替えつつ掛け合いを続ける。上履きはスリッパに為っており、本体色の赤、青、緑の三色で学年分けが為されている。章哉達の学年は青を授けられたので、体操着の線も青だし、体育館用の運動靴に入る線も、其れを入れておく為の袋も青色だ。
「んじゃ女の子と宜しく遣って来いよ! 女誑しが!」
「誰がタラシだ! アキャこそ誰か見っければ良いだけじゃんか!」
昇降口を出て、直接徒歩で校門を出ていこうとする透流と、駐輪場を経由する章哉とでは向かう方向が違う為、双方歩きつつ会話するとどうしても離れ乍ら話す事に為り、必然的に声量も大きく為っていく。
「煩ぇ! とっととイチャ付いて来い! んで別れちまえ!」
「おい! 別れちまえって何だ、洒落ん為んねぇぞ! ……じゃあな!!」
「ああ! また明日な!!」
遂に透流が校舎の角を曲がっていき、章哉の視界から消えた。手を振る透流は、満面の笑みを湛えていた。大声を出した所為か、心做しかスッキリした気分で章哉はブリヂストンの自転車に跨り、家路に就いた。
約三十分間ペダルを漕ぎ続けると、自宅が見えてきた。築十数年の、建売の一軒家だ。ズボンのポケットに入っていた鍵を取り出し開錠する。両親は共働きの為、章哉の帰宅時間は基本的に無人である事の方が多い。今日も例に漏れず、誰も居ない静寂が章哉を温かく迎え入れた。其の儘二階の自室に入ると、先ず手早く部屋着に着替え、ベッドに身を投げ出す。黒い東芝製の携帯電話を手に取り、EZwebを起動させる。着うたの配信サイトで検索を掛けると、「烏の足音」はちゃんと着うたフルを配信していた。其の場で着うたフルプラス版を購入し、ダウンロードする。高音質故に膨大な情報量を誇るフルプラスは完全なダウンロードまでに二分弱の時間を要する。暫し待ってイヤホンを接続し、早速聴いてみる。流石高音質を謳うだけあり、昼聴いた時には聴き取れなかった細部の音迄聴き取れる様だった。
其の日だけで、十回以上は繰り返した。夕飯の後も、付属していた歌詞情報を表示させ、歌詞を覚え込む勢いで聴いていたら、何時の間にか日付を跨ぐ頃に為っていた。相応に消耗した東芝製au端末のバッテリーを充電させてから風呂に入り、翌日の為に就寝した。
斯うして、章哉の何時も通りの日は終わった。
だが、此処からは、何時も通りではなかった。
深夜三時過ぎ、魘された章哉は眼を開けた。酷い寝覚めだった。何だか、息苦しい。其の上、身体が動かない。室温は高くない筈だが、大量に汗を掻いていた。
何だ、此れは? 此れが良く話で聞く「金縛り」って奴なのか?
ふと、視線を感じた。他に誰も居ない筈の、此の部屋で、だ。章哉は軽いパニック状態に陥っていた。嘗て体験した事の無い、異常事態に身体ごと放り込まれたのだ、と云う事だけが唯一、理解出来た。
そして、章哉の両眼は、一つの影を捉える。自分の枕元に、くっきり、はっきり、見下ろす様に立ち尽くす、女性の影。長めの前髪に隠された其の双眸を、章哉の眼は捉えた。戦慄した。身の毛が弥立つ、と云う現象を初めて体験した。章哉は必死に身体を動かそうと試みた。然し、脳の要求に対し、四肢は一切応えない。寧ろ疲労感が蓄積していくだけだった。辛うじて僅かに口は開くが、声は出せない。唇が戦慄くだけだ。徒労、と云う言葉が脳裏に浮かんだ。と同時に抵抗する事を諦めた。そして、一周して根性が据わってきた。此の幽霊女と、一丁対話して遣ろうじゃないか、と居直りの様な気分に為ってきた。
――何の用だよ? 霊感も無い、こんな俺に。
声が出ない為、章哉は心の中で呟いた。すると、頭脳に直接響くかの様な、激しい違和感を伴った返答があった。
【こんな事をして申し訳御座いません……。初めまして。私は、コルウスと申します】
流暢且つ丁重な自己紹介をした、白装束の様な衣装を纏った彼女――コルウスは章哉の身体の不自由を解いた。
【今、お身体は自由にさせて頂きました。驚かせてしまって、本当に済みません】
「あぁ、ご丁寧にどうも。で? 何の用なんだよ? 俺には何の心霊・精霊的な能力は無いぜ?」
ウンザリした様に言い終えて、章哉ははたと気付いた。俺、ひょっとして幽霊に口利いてる?!
【私は、歌に呼ばれたのです。其の……、『烏の足音』と云う曲に。とても残念な事に、図らずも私は幽霊的な存在に為ってしまいました。何故、私が命を落としたのか、其れが『烏の足音』には描かれています。今回、其の曲が広く発売された事で何故か、一時的に私の封印が解かれ、そして特に熱心に聴いて下さっていた貴方の許へ、私は導かれたのです。ですので、貴方に何の特殊能力が無くとも、全く不自然な事では御座いません。そして、私も先程から驚いているのですが、どうやら私と貴方は共通の言語で意思の疎通が行える様です。貴方が私とお話し頂けるのは、私の想像を超えていました。とても嬉しく思います。ずっと、呪縛された怨霊の様に、唯憑き続けるだけしか出来ないか、と思っていたので……】
そう言ってさめざめ泣くコルウスに、章哉は何時しか見惚れていた。そして我に返り、そんな自分に「幽霊に見惚れるってどうなんだ?」と云う戸惑いを覚えつつ、
「じゃあ、あの歌詞は本当の事だったって事……か?」
質問してみた。
【其の通りです。正確には若干異なる点は御座いますが、概ね事実の通りです】
コルウスは答えた。彼女が何歳位なのか推測出来ないが、大人っぽい美しさと幼げな可愛らしさが同居した、中々存在しない、可成り優れた容姿をしている。
「あの歌詞が本当なら、その……こ、コルウスは……凄く辛い思いをしてきたんだよな?」
【はい……。もう、口にする事さえ苦痛です。私は生前、彼等に因って傷め付けられました。其の末、私は命を落としてしまったのです。……言葉では言い表せない、酷いものでした】
過去を語るコルウスは、腸を抉られている最中の様な苦悶に満ちた表情を浮かべている。
「もう……良いよ。辛いんなら、思い出さなくて良いじゃん」
章哉がそう言うと、コルウスは
【有り難う御座います……】
と呟くと口元に手を当て、
【温かい……。思い遣り、気遣い、と云うものが、此れ程温かいのだと云う事を、私は今迄知りませんでした。有り難う御座います……。有り難う……】
嬉し涙を流して其の場に頽れた。大きな動作を見せたコルウスの姿に、章哉は驚いた。
――動くんだ、やっぱり……幽霊も。
【私も、此の状態に為って時が経っておりませんので、詳しい事が分からないのですが……、どうやら身体の動き、と云うのは生前と変化が無いようです】
コルウスは章哉が胸中で思い浮かべた質問に回答した。
【生理現象も変化無い様で、取り敢えず今、とても強い眠気があります……】
コルウスは涙を見せ乍らも欠伸をした。寝るのか、幽霊も? 今更乍ら章哉は混乱してきた。
「と……取り敢えず、寝れば良いよ。一寸狭いけど、隣、空いてるから」
身体をずらし、空間を確保して章哉は言った。何より、自分が眠りに就きたかったからだ。今迄の件が全て酷く現実的な夢ならば、一回眠ってしまえば、次に眼が覚めた時には何もかも今迄通りの世界に為っている筈だ。
早く寝たい。寝てしまいたい。此のふざけた状況から、早く解放されたい!
【そ……そう、ですよね……。行き成り幽霊が現れて『貴方に憑く』なんて言っても、訳が分からない、でしょうね……。お気持ちお察し致します、本当に申し訳御座いません……】
「もう、俺は寝るぞ! 意地でも寝てやる! お休み!」
章哉は眼をぎゅっと瞑り、掛け布団を頭の先迄被った。
翌朝、携帯のアラーム音で目覚めた。
「んー……」
章哉は欠伸をし、右眼を開けた。途端、視野に飛び込んだのは、
【んん……】
鼻先数㎝の場所で大層可愛らしい寝顔を見せるコルウスの姿だった。
思わず起き上がらせかけていた頭を再び枕に墜落させた。
「夢、じゃなかったか……」
深い溜め息を吐く。……然し、コルウスの寝顔、可愛いなぁ……。…………いやいや、何考えてんだ俺。相手は幽霊だぞ?
一応、隣で寝息を立てているコルウスを配慮して、そっとベッドから離脱する。一度伸びをすると、首を横に数回振り、思考を吹き飛ばそうと試みた。
「……何か、可笑しいぞ、俺……」
音を立てない様に扉を閉め、独り呟いて、階下の洗面所に向かった。蛇口から水道水を呼び出し、掬った塩素臭の残る水を無造作に顔面に擦り付ける。普段なら二回程度で顔を拭うが、念入りに五回、擦り付ける行為を繰り返した。上水道を流れ来る水を遮断した章哉はふぅ、と一息吐き、手探りで手拭いを手に取り、水分を拭き取った。腰を屈めていた章哉は上体を起こし、手拭いを顔から外し、視界を開放した。其の瞬間、眼に飛び込んだのは鏡に映る自分の姿、そして其の男の背後に佇む、身体から背景が透けて見える女性の姿だった。
「おぁ……!!」
余りに大声を上げそうに為ったので無意識的に声量を絞った。今、鏡の中には、眼を見開いて馬鹿みたいに大口を開けた儘硬直する若い男と、不思議そうに其れを見下ろす女幽霊が居る。
【どうなさったのですか……?】
コルウスは心底分からない、と云った風情で訊いてくる。
――お前の所為だよ、行き成り背後に居るなよ!
章哉は口に出さずに思った。するとコルウスはしょげて、
【申し訳御座いません、どうやら貴方がお目覚めに為ると私も目が覚める様で、其の上貴方の後を付いて行かなくては為らない様なので……。驚かせてしまい、本当に済みませんでした……】
今にも切腹しそうな雰囲気で告げた。章哉は溜め息を吐き、
――良いよ、許すからそんなに辛気臭い雰囲気出さないで呉れよ……。
と頭の中で唱えた。
【あ……済みません、以後気を付けます】
コルウスは素直に返事をした。
――で、結局お前は俺に憑いた、って事だよな?
普段より味が感じられなかった朝食を済ませ、登校する道すがら、章哉は後方へ念を送った。
【はい、そう云う事に為りますね……。あ、でも、お気になさらずに! 恐らく私は貴方に対し何の危害を加える様な力は持っていない筈ですから】
コルウスはアルベルトのリアキャリアに腰掛けている。実体は無いので、章哉の体力が削がれる事は無かった。
――1㎜も重くないし、其処は助かるけど。……まぁ兎に角、俺も今朝みたいに変な所で声上げない様に気を付けるわ。当分は、後ろにお前が居るってのが日常に為るんだからな、慣れないと。
章哉は僅かに振り向き、横目でコルウスの様子を確認した。
【本当に……何故貴方にこんなご迷惑をお掛けする様な事に為ってしまったのか……お詫びのしようも御座いません……】
反省しきり、と云ったコルウスに章哉は脳内で注意した。
――また、湿っぽく為ってんぞ。
コルウスはハッとした様子で、
【あ……また……。済みません、気を付けます……】
と恐縮した。
――じゃあさ、俺から条件を出すよ。俺の背後霊遣るならさ、せめて何時もニコニコしてて呉れよ。其れなら俺も幾らか気が楽に為ると思うからさ。
そう念じると章哉は再び後方を視野の隅に入れた。
【了解しました。心掛けます】
そう返したコルウスの笑顔は、此れ迄章哉が見てきた誰よりも美しかった。余りに綺麗な笑顔に気を取られた章哉は、赤信号が出ている大通りに突っ込みそうに為ってしまった。危ない、もし此れで死んでしまったら俺もコルウスと同類に為ってしまう。動悸する心臓を抑え込む章哉は、じわじわと自分の異変に気付かされつつあった。
「おいっす!」
章哉が自席に着くと、早速透流が挨拶を飛ばしてきた。
「おう」
鞄を脇のフックに掛け乍ら章哉は答えた。
「どうだ? 着フル有ったか?!」
透流は全開の笑顔で尋ねてくる。章哉は半笑いで
「ああ、有ったよ。ダウンロード出来た」
――とんでもないオマケが付いて、否憑いてきたけどな……。
と声に出さず付け加えた。
【オマケって、私の事ですか?】
コルウスは首を傾げた。同時に透流も話してくる。
「お、良かったな! 良いだろ? あの歌」
――あぁ、お前の事だよ。其れ以外に何があるってんだ?
「確かに良いな。結構繰り返し聴取したよ」
章哉は器用に二つ同時に返事をした。
【私はオマケの様なものなんですか?】
「だよな! 久々に来た! って思った歌だったもんなぁ。アキャも売れると思うだろ?」
――……言い方は悪かったかも知れないけど、意味的には合ってるだろ?
「…………あぁ、売れるかもな。唯、売れ線の曲じゃないから、やっぱタイアップ付けないとCDが枚数売れるってのは厳しいんじゃないか?」
章哉は若干の沈黙を伴いつつ再び略同時に答えた。
【そうですよね、貴方は私が現れる事を望んでいた訳ではありませんからね……。出しゃばってしまったかも知れません、申し訳有りませんでした】
「そうか? でもまぁ、そうかもな……。あ、あれは? 『トイレの神様』。あれもタイアップ無かったけど売上枚数順位一位だっただろ?」
「……また、しみったれてんぞ」
「……え?」
三度の同時攻撃に、遂に章哉の処理能力は陥落し、口に出す筈でない方の回答を口走ってしまった。当然、透流はキョトンとした表情をしている。章哉は混乱状態に陥る頭脳を何とか立て直すべく、自らの髪をくしゃくしゃと掻き回し乍ら本来言う筈だった返事をした。
「あ、否、何でもない……。あれは知名度は抜群だけど、其の週の枚数はそんなだった筈だぞ。もうCDが売れない時代だからな。握手券のオマケに為り下がったんだよ、CDは」
【あ……済みません、先程言い付けられたばかりなのに……。申し訳御座いません……】
「そうなのか……。てか、握手券のオマケとかアキャ、毒舌冴えてんなぁ!」
章哉の髪を弄る手の動きが止まった。
「……一寸悪ぃ」
章哉は透流に断ると立ち上がり、左横に在る窓硝子を開け、
「黙ってろ! 俺が会話してる時は話し掛けんな!!」
外界目掛け、然し言葉の矛先は視界の左方に居る幽霊に向けて哮った。コルウスは怒りを露わにする章哉の姿、高純度の憤怒を籠めて自分に向けられた章哉の瞳に瞬時に畏縮した。
唐突に窓の外へ叫んだ友人を目前に透流は不安気に、
「どうした行き成り? 俺、何か拙かったか?」
と尋ねた。教室内を見渡すと、殆どの級友が突如尋常でない怒鳴り声を上げた章哉に注目していた。
「あ……否、何でも無いんだ、お前は何も悪くない、本当に……」
人間と云う生き物は、大勢の人物から一斉に視線を集められると、勝手に頬が引き攣り無意味に若気てしまうらしい。誤魔化しの薄笑いを浮かべつつ、急速に冷静を取り戻した章哉は静かに椅子に腰を下ろした。同級生の異常行動に一応溜飲を下げたらしく、級友達は徐々に章哉から視線を外していく。
尤も、一番近くで章哉の異常を目の当たりにしていた透流は相変わらず怪訝そうな眼を向けていたが。
【…………申し訳御座いませんでした】
――……もう良い。俺の言葉が分かったんなら、会話中に声掛けるのは禁止だ。了解なら返事をするな。
章哉は溜め息を吐きつつ念を押した。返事は無く、数時間振りに章哉の脳内にはコルウスの声が響かない安寧の環境が訪れた。
家の扉を開けると、今日も誰も居なかった。一人っ子であるので、母が休暇の日しか誰かが出迎える、と云う事は無いので当然なのだが。
階段を上がり、自室に入る。黙り込んだ儘、鞄を床面に放り出し、スッと背後を振り返る。気弱そうな表情のコルウスが章哉の動作に一歩遅れて怯えた様に目を逸らした。良く良く見ると、全身を小刻みに震わせ、伏せた瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。身体に合わせ、微細に震える前髪が流れ、其の中から濡れた眼が窺えた時、章哉の心臓は正確さを喪失した。不自然に早まる鼓動、章哉には其れが何故なのか痛感出来た。今迄人並みの人生経験を積んできた章哉に取って、其の感情は初めてのものでは無かった。然し、此の感情を抱いた相手に、章哉は驚愕していた。打ち拉がれた、と云っても過言ではない。
其れは、究極に成就する可能性の無いものだったからだ。
暫く自分の気持ちが落ち着くのを待った章哉は眼の前の透けた身体に話し掛けた。
「その……悪かったよ、朝は……。怒鳴り付けたりして」
コルウスは眼を見開いた後、首を大きく横に振り乍ら、
【いえ、あれは私に非が有ります。と云うか、私が悪いんです。私が、貴方がご友人とお話ししている事に対して配慮出来なかったのですから。貴方に謝られては、私はどうする事も出来ません……】
そう言うとコルウスはしょげた顔をした。章哉は心中に浮かんでくる思いを直隠し、
「言っただろ? 俺の背後霊遣るならニコニコしてろって。……あれは俺も悪かったよ。アイツ……透流は俺が学校で一番良く喋る相手なんだ。透流との会話を邪魔された様な気に為っちまったんだよ。あんなに喚く事無かった。だから、御免。……此れで此の件は終わりって事でさ、お前も笑って呉れよ。そんなにしょぼくれた幽霊が後ろに居るなんてマジで呪われたみたいで嫌じゃん。な?」
微笑んで言った。するとコルウスの冷凍乾燥された様に凝り固まっていた表情が少しずつ和らいでいった。
【……はい】
ほんの少し頬を染めつつ笑顔を取り戻したコルウスは、絶世の美女と云う形容が大袈裟でない程に可愛らしく思えた。
翌朝、階段の修業を踰越した章哉が二年二組HRに辿り着くと、透流が大きく手を振ってきた。
「あったぜ、アキャ! 歌の記事がさ!」
席に着いた章哉に透流は雑誌を見せ付けた。ロック系のアーティストを扱う音楽誌だった。其の中の単色印刷ページの一角に小さい記事が載っている。章哉は文章を眼で追う。関東出身のバンド「おとめ座銀河団」は二年前に結成されライヴの度にファンを獲得していき、数曲有った候補の内、とある国で発生した実際の事件を基にした民話を偶々知ったヴォーカルが作詞した「烏の足音」で今回メジャーデビューを果たした――云々とあった。
「やっぱ実話だったんだよ、あの歌詞!」
「あぁ、そうなんだな……」
実話である事の証明を既に背後に背負っている章哉は、至って淡々と答えた。
「あれ? 何だよ、気にしてたんじゃねぇの? 本当の話かどうか、って」
「ああ、まぁそうなんだけどさ……」
何とも答え様が無く、章哉は不鮮明な回答をした。
「折角昨日帰りに本屋寄って見っけたのに……」
「何だよ、其れは俺の為じゃねぇだろ? お前が此のバンドの記事を探してたんだろ?」
「ま、そりゃそうだけどさ……」
「分かったよ。有り難うな、良かったよ、実話が土台だって分かって」
章哉は半分苦笑しつつ言った。透流は百面相の如く表情を明るくさせ、
「宜しい! 此れで俺の苦労が報われるってモンだぜ」
満面の笑みを見せた。章哉は呆れ気味に
「別に其処迄の苦労はしてないだろ」
と突っ込んだ。透流はハハハハ、と邪気の無い笑い声を上げた。
此の間、昨日の経験を踏まえ、コルウスはずっと慈しみの眼を章哉に向け乍ら口を噤んでいた。
時間は大いなる平等性を湛えて匍匐前進していく。綺麗な背後霊を背負って生活していく内に章哉はコルウスとの関係性を深め、周囲に他人の居ない環境であれば他愛も無い会話も交わせる程に為っていた。思いを口にする事無く直接頭脳で話す形なので、章哉の思考や胸中は全てコルウスに流露していた。当然、章哉のコルウスに対する感情も直ぐに漏れ伝わる筈だが、コルウスは敢えて其の辺りには触れなかった。そして、コルウスと遣り取りをする章哉は悶々とした日々を送る事と為る。何故なら、コルウスが他ならぬ「実体を持たぬ者」であるからであり、従って章哉は彼女を抱き締める事もキスを交わす事も疎か、触れる事さえ出来ないのだから。
其れは、章哉とコルウスが邂逅してから二十日程度経った頃だった。
【章哉さん……】
土曜の夜、床に就こうとしていた章哉にコルウスが話し掛けた。
「何だ?」
【今が丁度良い頃合いだと思うので、お話したい事があるのですが……】
寝台の上に正座し、俯いて膝の上で組んだ手を見詰め乍らコルウスは言った。章哉は徒ならぬ気配を感じたが、敢えて明るい調子で返答した。
「どうした? 改まって。言ってみ?」
【はい……。…………あの……】
「そんなに言い辛い内容なのか?」
【その……章哉さんは私の事をどうお思いですか?】
章哉は瞬間的に硬直した。が、直後、照れ隠しに視線を逸らして答えた。
「どう……って、俺の思考はお前に筒抜けなんだから、分かってんだろ? 隠したくても隠し切れないんだからさ」
するとホワイトパールクリスタルシャインに染められたコルウスの頬に、微かに朱が含まれて、美しい彩色を見せた。
【ええ、承知致しております……。ですが、貴方の口からお聞きしたくて……】
朱色は見る見るコルウスの顔面を制圧していき、耳朶に迄其の勢力を拡大していた。釣られて章哉の顔も急速に赤みを増していく。
「……い、言えば良いのか?」
コルウスはこくりと小さく頷く。章哉は唾を飲み込み、息を吸った後、静かに言った。
「……コルウス、……好きだ」
二人の間の時が、大気が、静止した。次の瞬間、潤んでいたコルウスの眼から一筋の雫が零れ落ちた。其の涙腺分泌液の主成分は欣悦から来る幸福だ。
【有り難う御座います……。本当に嬉しいです……】
章哉はコルウスを抱き締めたい思いで一杯だった。然し、そうはしなかった。否、そうは出来ないのだ。コルウスのものとは別の理由から成る涙曇りが章哉の視界を暈した。拳を強く握り締める。
「でも、俺はお前に触れる事は……出来ない」
コルウスの眼が一層、見開かれた。
【私が……存在しないから……。私が死んでいなければ……】
コルウスの涙の構成要素が瞬時に変化した。一転して憐惜に満ちた表情で悲嘆に眩れる女と為った。
「……否、お前が死んでなかったら、俺とお前は斯う遣って出会う事は無かった筈だ。語弊があるかも知れないけど……そう云う意味では、コルウス、死んでいて呉れて有り難う」
章哉は水気を湛えた眼をコルウスに真っ直ぐ向けて言った。
「唯……お前が死んでしまっている事で、俺とお前が触れ合う事は叶わなくなった。其処だけは…………遣り切れない」
遣る瀬無さの籠もった、何とも哀しい表情で章哉は項垂れた。室内は葬儀会場より万倍湿っている。ふと章哉が顔を上げると、大粒の水粒を止め処無く汪溢させるコルウスの姿が在った。
其の現実味たるや、なかった。
身に着けている白装束風の衣装に悲哀の染みが拡がり、布地に触れれば湿り気を感じ取れそうな程だ。頭脳では理解し尽くしているにも拘らず、思わず章哉はコルウスの身体に手を伸ばした。然し、章哉の指先がコルウスの感触を、体温を獲得する事は無く、コルウスの頭部を素通りして空を切るだけだった。
限界だった。腹の底から込み上げる衝動、最も純粋な感情に身を任せ、章哉は嗚咽を漏らした。虚しく中空を彷徨った右手の付け根を左手で思い切り掴む。骨と関節が悲鳴を上げるが、章哉は其れを意に介さず、左手の甲に額を付け、頽れて泣き伏した。何故、何故なのだ。章哉は未だ見ぬ、雲上で胡坐を構いて無情を突き付けてくる神と呼ばれる老翁を呪った。こんなのを呑み込める無常観を持ち合わせてはいねぇぞ、俺は。万物の嚮導者に対し、章哉は号泣し乍ら心の中で中指を突き立てた。
【章哉さん】
コルウスの声に、章哉は涕泗に塗れた顔を上げた。其処には、涙を振り切り笑顔を見せるコルウスの姿が在った。笑顔と云っても涙痕を顔中に残した儘、無理矢理表情を作っている為、口の端は引き攣れた様に為っていたが、其れでも章哉には彼女の強情に似た気丈さがしっかり伝わった。
【章哉さんとの約束です】
「約束……?」
【何時如何なる時でも笑顔でいる事、です】
コルウスは赤い眼で最上級の微笑みを浮かべた。其れを眼に入れた章哉は心の平静を取り戻した。
「……ああ、そうだったな。……此れからもずっと、其の顔見せて呉れよ」
魂の思うが儘に、章哉は後々恥ずかしくて突沸しそうな台詞を思い掛けず吐いた。其の台詞に対しコルウスが複雑な表情を見せた事に、章哉は気付けなかった。
どの図鑑にも載っていない、華麗な花が所狭しと咲き乱れる丘に、章哉は立ち尽くしている。暑くもなく、寒くもなく、珠に吹き抜ける一陣の風は爽やかでとても心地良い世界だ。
「何処だ、此処……?」
そう章哉が呟いた時、遠くに人影が視認出来た。眼を凝らすと、其れは近時最も章哉の脳裏に焼き付いている姿だった。
「コルウス? 何してんだ?」
彼方に居るコルウスの動向を探るのは困難だった。然し、章哉には彼女の意図が理解出来た。
「呼んでる……」
コルウスは背を向け、歩み去ってゆく。霞む視界に浮かぶ其の背中に、章哉はコルウスとの今生の離別を強く予感した。
「あ……おい、待てよ……! 待てって!」
章哉は去り往く後ろ姿を追って一歩右足を踏み出した。が、追従する筈の左足はまるで地下深く根を張っているかの如く、びくともしない。
「な……何なんだよ、此れ……!」
ふと後背を振り向くと、可成り離れた地点からの呼び声が微かに聞こえた。章哉が再び眼を凝らすと、透流と高校の友人知人、更に一緒に居る筈の無い章哉の両親迄も勢揃いし、何やら此方に向かって叫んでいる。
「何だ、あれ……」
章哉は再び前方に向き直った。眼を凝らせば、寂しげな表情のコルウスが此方に顔を向けている、様に思えた。
「行かなきゃ……」
章哉は歩を進めようとする。然し相変わらず左足は大地に固定されてしまっていた。
「……んだよ此れ! 俺は、アイツを独りにはしねぇんだよ……、もう、アイツが悲しむのは真っ平だ。……んな事したかねぇんだよ!!」
章哉の叫びも虚しく、幾ら吼えた所で足は微動だにしなかった。一人格闘する内に、透流を始めとする連中の声が聞き取れる様に為ってきた。もう一度、章哉は声のする方へ眼を向ける。
「アキャ、何してんだよ、戻って来い!」
「行くな!」
「しっかりしろ!」
「死ぬなよ、おい!」
章哉は不思議に思った。
「は……? な……何だよ、まるで俺が死ぬみたいな……」
其処で章哉は一つの仮説に思い至った。バッとコルウスの居る方へ身体を振り向ける。コルウスは何かを諦めた様に項垂れ、首を力無く二回横に振り、背を向けて去ってゆく。
「ま、待てよコルウス……おいっ!!」
然し、章哉の声に後ろ姿のコルウスが何らかの反応を返す事は無かった。
章哉は目覚めた。目尻から頬に掛けて筋を残す涙は、もう乾いている様だ。
「……! アキャ! 眼ぇ、覚めたのか?!」
枕元に居たのは透流だった。
「待ってろ! 呼んでくるから!」
透流は慌てて病室を駆け出していった。章哉は上体を起こし、周囲を見渡す。察するに、此処は病室、其れも好待遇な個室の様だ。病室代が高く付きそうな程の。振り返ると、壁面には看護師呼出し用の釦が備え付けられてあった。
「透流、ナースコール在るじゃん……」
試しに独り言を呟いてみる。脳裏に浮かんだ文章を恙無く言語化し、声帯を震わせる事に成功した。どうやら、言語障害は無い様だ。
「俺、何で……?」
何故、自分が病院に搬送されているのか、皆目見当が付かなかった。抑々思い出そうとしても、最後の記憶がどれなのか、酷く曖昧模糊としていて、特定は不可能だった。
「潜戸君!」
てっきり女性看護師が来るのかと思っていたのだが、透流が連れて来たのは偉そうな中年の小太りな白衣の小父さんだった。医師は章哉を眼に入れるなり、
「言葉は、喋れるか?」
と訊いてきた。
「あぁ、別に特に問題無さそうですけど……」
本心の儘に章哉が答えると、
「記憶は? ……ああ! そうだ、彼の名前は? 分かるか?」
医師は矢継ぎ早に透流を指差し、言った。
「え……、透流……春賀透流ですけど?」
医師は僅かにほっと胸を撫で下ろすと、今しがた駆け付けた若い医師に
「念の為、精密検査をする。準備を!」
と託けた。はい、と凛々しい返事をした若年医師は今入ってきた入口を急いで引き返していった。
「あの……先生、何で俺は、病院に……?」
章哉は最大の疑問を医師に打つけた。
「其処は、覚えてないのか?」
「ええ……。最後の記憶がどれなのか、はっきりしなくて」
「『どれ』と云う事は、複数記憶が有るんだね?」
「ええ、他愛も無い事ですけど……。で、先生、俺は何で?」
「ああ……もう一週間近く前に為るなぁ。日曜の夕方か……君の御両親から119番通報が有ってね、『息子が半日以上自分の部屋から出て来ないから様子を見に行ったら、単に寝ている様じゃなく、何か可笑しい。意識を失っている様だ』とね。で、君は当院に緊急搬送されて来た訳だ」
「其れが……一週間前……?」
「ああ。搬送されて以来、君の意識は今迄戻らなかった。目覚めなかったんだ。丸六日間ね」
「六日間……?」
章哉は衝撃を受けた。知らぬ間に自分がそんなに重篤な事態に陥っていたとは。
「ああ。其れで、我々も色々調べたが、理由が分からなかった。ひょっとしたら、君の事例は前例が無いかも知れないんだ」
「そう……なんですか」
「ああ。済まないが、色々調査させて貰う事に為ると思う。協力して呉れないか?」
医師はそう言うと、頭だけ下げる辞儀をして嘆願した。
「ええ……構いませんけど……」
「そうか、有り難う。取り敢えず、今日はゆっくりしていて呉れ。御両親にも連絡を入れておく。明日から調査に入るから、宜しく頼むよ」
「はい……」
医師は退室していった。
「で、何でお前は此処に居るんだよ?」
章哉は透流に言葉を差し向けた。
「『何で』って……そりゃ無ぇだろ! 親友の心配しちゃいけねぇのかよ!!」
章哉の予想とは全く裏腹に、至極真剣に透流は怒りを露わにした。
「い……否、そう云う意味じゃなくて……。何キレてんだよ」
「……悪ぃ」
襟首を掴まんとする勢いだった透流は直ぐに冷静を取り戻し、折り畳みのパイプ椅子に再び腰を下ろした。
其れ以来、両者とも一切何も発せず、重苦しい様な沈黙が流れた。其の沈黙の間に、章哉は或る重大な事態に気が付いた。忙しなく周囲を見回し、章哉は焦り始める。居ても立っても居られない気持ちだ。
コルウス、何で居ねぇんだよ……!
考えれば考える程、崖の突端迄犯人を追い詰める警部補の様に、一つの結論が章哉に鋒を突き付けてくる。駆け付けた両親から自分の携帯電話を受け取った章哉は、メインメニュー画面の「機能」内の「ユーザー補助」から「電波OFFモード」をONにして、ベッドの上で思索を繰り返しつつ長文メールを作成していた。
章哉は二軸折り畳み式のT004を閉じ、すっかり消灯時刻を過ぎ、夜闇に包まれた室内で一人、腹を括った。
もう、此れしか無いのだ、と――。
「もしもし、透流か?」
〔……おいっ!! アキャ、お前何処に居んだよっ!〕
「……悪ぃな、其れは言えない」
〔お前、何してんのか、分かってんのか!?〕
「あぁ、良く理解してる。……病院を、脱走した」
〔〜〜!! お前、昨日医師に今日から調査始まるって聞いてただろ!? なのに何で〕
「あぁ悪い、一寸遮断するぞ。俺は、至って正常だ。心身共に、全く問題無い。其れが大前提だ」
〔……アキャ、其れが可笑しいんだよ、やっぱ診て貰った方が良いって……!〕
「良いから。一生のお願いだ、今から言う俺の話をちゃんと聞いて呉れ。そんで、お前にだけは、其の話が真実だ、って信じて欲しい」
〔…………俺は、アキャが軽々しく『一生のお願い』なんて言葉使う奴じゃないって信じてる。アキャが其処迄言うってんなら、それなりの正当性が有るんだろうな〕
「ああ。分かって呉れて有り難う。じゃ、話すぞ。……あれは、お前に『烏の足音』を教えて貰った日の夜だった――…………
通話を終了した章哉は昨夕から作成していた透流宛のEメールを送信した後、終話釦を長押しし、電源を落としてから黒い携帯電話を傍らに安置した。其の横に放ってあった某コンビニの半透明の小さなビニール袋の中から購入した製品を取り出す。病院着を身に纏った章哉に対しバイト店員は微塵も反応せず、我関せずとばかりに無表情の儘、系統化された反復作業を熟した。
章哉は思い出していた。コルウスが章哉の許に降臨した際、彼女は「自分の封印が一時的に解かれ、章哉の許に遣って来た」と言った事を。そして、時を早送りしてあの土曜の夜、彼女は「丁度良い頃合いだ」と言って章哉に告白させた事を。そして其の後の夢現つな記憶の中で、彼女は章哉を誘おうとしたが、章哉の背後では透流や両親等、健在の人物が挙って章哉を引き留めていた事を。
以上の事から章哉は推理した。冥界に帰還する期限を迎えたコルウスは、愛する章哉と永久に共に居る為に、章哉の意思を確認した上で意識を奪い、章哉をあの世へ連れて行こうとしたのだ。然し、すんでの所で章哉の持つ「生きようとする力」が勝り、コルウスは何かを諦めた様な、心底哀しい表情で章哉に背を向けた。其の瞬間、コルウスの奪っていた意識が回復し、章哉は目覚めたのだ――と。
初め、其の結論に辿り着いた時、章哉は驚愕した。何と云ってもコルウスは以前、自分は章哉に対し危害を加える様な力は持っていない筈だ、と明言していたからだ。瞬間的に章哉はコルウスに疑念、と云うか、裏切られた様な気分に為った。然し邂逅した当初、コルウスは章哉の身体の自由を奪う、と云う芸当を遣り果せているし、期限が迫って自分と離れたくなかったコルウスが、何らかの能力を呼び起こして仕出かしたのだ、と思うと不思議と章哉は、まぁ許して遣ろう、と云う気持ちに為った。
実際に想いを口にしたのはたった一度きりではあるが、そんなものは幾ら口にしたか、ではない。本人同士に、当人と当人との間に共通して認識された感情が在れば、其れで充分なのだ。
章哉とコルウスの間には、確実に愛が、存在していた。
章哉は無造作に積み上げられたテトラポットの狭間に窺える青空を見上げた。此の儘章哉が生き続けるのならば、章哉とコルウスは史上最も成就の可能性が低く、且つ最も遠い距離間で好き合う男女、と云う事に為ろう。ならば、章哉がコルウスの許へ行けば良いのである。章哉が獲得した正解は、至極単純だった。
街の南端、砂浜の上、歪な白っぽいコンクリート塊の陰に為る此処ならば、死体が発見されたとしても、或いは血痕で周囲を汚したとしても大した影響は無い、と考え、章哉は此処を終の場所に選んだ。
寸鉄人を刺す。カッターの鋭利な刃は、章哉の頸動脈をなぞる様に、縦に切り裂いていく。以前、ちらっと読んだ本に、血管を横に切るより縦に切った方が切開範囲が大きいので、より確実に死に至る、とあったのを覚えていた。今の今迄全身を駆け巡っていた血液は、穿たれた裂け目から其の儘の速度で体外へ噴出していく。想像以上の温度を保った赤い液体が、造られてから未だ年月が経っていない消波ブロックを染め上げていくのを、章哉は他人事の様に眺めた。
軈て、薄れゆく意識の中で弾指の間、見開かれていた章哉の両眼には、美しく咲き乱れる優曇華の花々が、揺れていた。
「アキャ、お前の死因さ、突発的な精神疾患に因る自殺、にされそうに為ってるよ。……冗談じゃねぇよなぁ。俺はお前の言い分を全面的に信じるよ。だから、お前が精神病で自殺したなんて思っちゃいない。お前は……、最愛の人とずっと一緒に居る為に死んだんだ。自殺なんて後ろ向きなもんじゃない。……そうだろ?」
透流は慣れた手付きでエクスペリア・アクロに文章を入力していく。
「俺に出来る事なんて、こんなちっちぇえ事しか無いけどさ……、此れが少しでもお前と、コルウスちゃんへの弔いに為れば良い、って……心から思うよ」
透流は画面上の書き込みの表示をタップした。通信中のアニメーション表示が躍った。
「信じるしか無ぇだろ? だって……俺は見たんだ。お前の葬式の次の日、教室で外を眺めてたら、体育館のトタン屋根の上を番いで歩く、烏達の姿を。……其の二羽の烏の立てる足音を、確かに俺は此の耳で、聴いたんだからさ」
――――以上が、若者の間で実しやかに伝播する噂の一部始終である。亡くなったAさんの友人であるとされるT氏がAさんから聞いた話を纏めた文章をネット上の複数の掲示板、コミュニティサイトに書き込んだ事から広まった、と云う。
斯うした噂は、幾ら此方側が証拠を提示した所で、事実である、と認められる事は稀だ。何故なら、此方側が提示する証拠が捏造された物であるかを、読者諸兄が確かめる手段は無いからである。なので我々から真偽を断定する事はしない。
然し、最後に一つだけ言っておこう。
我々は取材を進める内に、中部地方の或る県で、詳細が完全に一致する少年の死亡事件が発生している事を、突き止めている。
(完)
本作は、2012年頃に某小説賞に投稿したものを基に、多少の改稿を施しています。
中盤、ストーリーが省かれていますが、当時の締切りまでの時間的な都合で短編として仕上げたと云う事と、その間のラブコメ的な展開を考えるのが億劫になった、と云うのが主な理由です。
小説賞投稿用の本文をwordで作成していた為、txtファイルに変換し、ルビ振りを見直してアップする作業を試しにやってみました。
習作と云う事で生温い目でご覧頂けたら幸いです。
因みに、何故冒頭とシメが雑誌記事風になっているのか――其れは、誰にも解りません。