中篇
こじんまりとした店から普段使っている駅に着くまでの間、私はどこか夢でも見ているような気分で歩いていた。定期券をかざして改札を潜り、ホームに下りるなりやってきた電車に乗り込んだところで、一つ息を吐く。定期を仕舞おうとハンドバッグを開けば、来る時にはなかった漆黒の本と手作りの小冊子が目に入った。
「路地と路地の隙間に突如、過去を変えられる店が現れる」という話を、都市伝説や怪奇現象の類が好きな友人から聞いたのは数週間前。所詮は迷信だと、いつものように聞き流し、忘れ去っていたはずだった。会社の近くで買い物を終えて駅に向かう途中、普段なら何事もなく通り過ぎるはずの路地に入るまでは。
何故あの時、あの場所に向かったのかは自分でも分からない。店長と呼ばれていた女性に「過去を変えられると聞いて来た」と聞いた理由も不明なままだ。過去を変えたいと思ったことは何度かあった。だが都市伝説にすがるほどに望んでいたわけではないはずなのに。けれど今、私は重みのある本を持って電車に乗っている。それが全ての証明のように思えて、私はハンドバッグの持ち手を強く握り締めた。
そんなことを考えているうちに電車は自宅の最寄り駅に到着したようで、アナウンスと共に近くの扉が開いていく。私は他の乗客に押し出されるような形でホームに降りた。
人の流れに乗るように改札を通り、階段を下りていく。自宅へ向かう道に人の姿はなく、車の排気音と電車の駆動音が響くだけだった。
一人帰路に着く間も、私の頭は先程の出来事をなぞっていた。そこでふと、最後にかけられた言葉を思い出す。
「『もの寂しげに過去を見るな、それは二度と戻ってこないのだから』」
自然と口から零れたそれに、首を捻った。店を開き、過去をどうにかして変えたい人の手伝いをしているのに、それを否定するような、咎めるようなことを言うなんて矛盾している。そう思っていると、いつの間にか自宅としているマンションに辿り着いていた。自動ドアを抜け、ポストの中身をちらりと見、入れられていたチラシを抜き取ってエレベーターホールに向かう。上へ向かうボタンを押すと、さほど待つことなく目の前の扉がゆっくりと開いた。私はすぐに乗り込み、五と書かれたボタンを押す。扉が開いた時と同じように閉まり、僅かな浮遊感と共に昇っていった。
途中乗ってくる人もなく、エレベーターは静かに五階に着いた。私は誰もいない廊下を歩き、突き当りの扉に鍵を差し込む。小さな声でただいまと言ってみたが、声が帰ってくることはなかった。
靴を投げ捨てるように脱ぎ、鞄を適当な所に置いて台所に向かう。冷蔵庫から飲みかけの炭酸を取り出し、一気に煽ればいくらか気分が落ち着いた。
まだいくらか残っている炭酸片手に鞄の所に戻り、床に座って中身を取り出す。今日買った文房具を脇に置き、店員さんお手製らしい小冊子を手にした。「使用前の注意事項」と書かれた紙を捲ると、目次が目に入った。今時珍しい手書きの説明書に丁寧な人なんだと思いながら読み進めていく。
必ず名前を書いた方から開くこと。回数制限はあるが時間制限はないこと、変えたいと思うだけで実行されてしまうため、考える時は本を手放すこと。変更される際に何かしらの音が鳴るが、そういう仕組みであること。過去に関連するものなら、願う内容に制限はないこと。望む規模が大きければ大きいほど、現実への反動も大きくなることなどが読みやすく、そして分かりやすく書かれていた。
私は小冊子を置き、分厚いハードカバーへと恐る恐る手を伸ばす。存在感のある表紙には不釣合いな自分の字を見つめ、そっと開いてみた。まっさらな中扉をめくった瞬間、年表のようなものが目に飛び込んでくる。予想外の状態に面食らいながらも活字に目をやり、書かれている内容に愕然とした。
私が生まれた日時、名前の由来、はいはいから掴まり立ち、二足歩行などの成長過程、その時々の健康状態、初めて口にした言葉、最初に食べた離乳食、当時の好き嫌いなど、母子手帳かと思うぐらいびっしりと書き記されている。私が聞いたことのある話もない話も、当事者が忘れているのではと思うぐらい些細な出来事も、全て年月日付きで事細かに記されていることに背筋が凍る。
これは一体誰が書いたのだろうか。筆跡は見覚えのないものであるうえに、ずっと前、それこそ何か起きる度に書き込んでいたかのように色褪せた印象を受ける。誰かが少しずつ書き溜めたものを、あの店の人が預かっていたとか? それだと辻褄が合わない。
訳の分からない現象に恐怖を覚えながらも読み進めていくと、不意にある文章が目に入った。
「一九××年 元旦 父親の実家で開かれた宴会に参加。酔った父と叔父により酒を飲まされ、体調を崩す。以降、酒の匂いを嗅ぐと気分が悪くなるようになった」
それは私が五歳になったばかりの出来事だった。記憶には殆ど残っていないが、この出来事自体は母から聞いていた。私がお酒を好きにならなくてよかったとも。このことがあったからかは自分でも分からないが、今でもアルコールの匂いは苦手だし、居酒屋や飲み会も好きになれない。
そこでふと、先日分かれた彼氏のことを思い出す。お酒を飲むことが趣味な彼は、いきつけのお店に私を連れて行きたがった。最初は私も誘いに乗っていたのだが、回数を重ねるごとに苦痛になり、最後の方はずっと断っていた。それが原因で変な勘繰りをされ、言い合いの後に別れてしまった。
正直な所、私は別れたくなどなかった。彼の隣は居心地がよかったし、話していて楽しかった。彼もそう言ってくれていた。ずっと一緒にいられたら、とまではいかないけれど、似たようなことは思っていた。けれど、嗜好の違いだけはどうしようもなかった。彼がとても好きなものを私は好きになれなかった。
もし、私がお酒を嫌いでなかったら、今も彼と――亮と一緒にいられたのだろうか。
私はもう一度その文章を眺める。お酒が苦手となった原因を変えたらどうなるのだろう。自分が歩んできた道を曲げるのは恐い。今の自分がいなくなってしまうような気がして、自然と鼓動が早くなる。手に汗が滲み、呼吸が乱れる。私は今、未知の領域に足を踏み入れようとしている。それは恐いことだったが、亮と共にいたいという欲求には勝てなかった。
私は唾液を飲み込み、本を凝視する。変えたいのは「酒を飲んで体調を崩す」と「避けの匂いを嗅ぐと気分が悪くなる」の部分だけ。そこだけ変わればいい。体調を崩すことなく、むしろそれが要因でお酒を好きになるように。
私は一度目を閉じて深呼吸をし、頭の中で変えたい部分と内容を繰り返す。
「……変えたい」
言葉が自然と零れ落ちる。刹那、ぱちんと何かが弾ける音がした。耳元で響いたとも脳内で木霊したとも聞こえるその音に慌てて目を開き、手元の本に視線を向ける。
そこに書かれていた内容を理解しようとした瞬間、鞄の中から軽快な音楽が聞こえてきた。突然のことに思わず飛び跳ねてしまい、本が手から落ちる。忙しなく動く心臓を宥めるように胸元を押さえ、鞄を引き寄せてスマホを取り出す。メールだったため、音楽は既に止んでいた。誰からだろうと画面を開き、目にした名前に硬直する。気持ちを断ち切るように削除した彼の名前が、はっきりと表示されていた。
もう二度と連絡を取らないと言っていたのに。私の目の前で消したはず。ちゃんと見て確認した。あの後アドレスも変えた。連絡先を亮が知ることはないはずなのに、どうして。
混乱した頭のまま、メールを開け、目を通す。「いい雰囲気の店を見つけたから、今夜行かない?」という簡潔な文章に、更に困惑する。これではまるで、付き合っていた頃のようだ。
そこまで考えて、はっとした。もしかしてという思いに突き動かされるように本を拾い、先程まで開いていたページを調べる。
「一九××年 元旦 父親の実家で開かれた宴会に参加。酔った父と叔父により酒を飲まされる。以降、酒に興味を示すように」
文章は確かに書き換えられていた。あまりにあっさりとした文面は現実味がなく、つい自分の頬を抓ってしまった。地味ながらもしっかりとした痛みに、これが現実なのだとようやく実感する。自然と口角がつりあがるのが分かる。私は本をきつく抱き締め、再びスマホに目を落とした。
久しぶりに亮と会える。何を着ていこう。こんなことなら彼から貰った物を処分しなければよかった。あぁ、そういえばアクセサリーは残っていたっけ。あれを着けていこう。どこに仕舞ったかな。
浮かれながら返信画面を開き、「行きたい。何時にどこに向かえばいい?」と打ち込んで送信する。はやる気持ちのまま鞄とスマホを持ち、立ち上がったところで、手製の小冊子が目に入った。その存在を思い出した瞬間、頭の中がゆっくりと冷えていく。
そこまで大きなことを願ったつもりはないが、現状は恐ろしいぐらい私の思い通りに進んでいる。二十数年前の小さな出来事を変えただけなのに。
私は鞄とスマホを手にしたまま本を開き、最近の事象が記されているページを探した。大雑把に捲っていると、一年前の日付が出てきたので手を止める。
「二×××年 ×月 ×日 会社の友人と合コンに参加。佐伯亮と意気投合し、終電間際まで語り明かす」
そこには亮との出会いが書かれていた。だが私にそんな記憶はない。彼と知り合ったのは会社の友人によるものだが、合コンではなく街コンだったはずだ。昼間に開催されるものならお酒が絡まないだろうと考え、参加した記憶がある。
たまたま見付けたほんの些細な違いは、けれど決定的なものだった。私は食い入るように年表を読んでいく。嫌な汗が背中を伝った。
小さな、そして大きな相違は他にもいくつか出てきた。彼とデートした日付がずれていたり、知らない場所に行ったことになっていたり。覚えのない約束を交わしていたり。
本当に僅かなことだが、積もり積もれば大きな溝となる。相手がこちらの記憶と違う話をいくつも持ち出したら不審に思うだろう。別のことと間違えているといっても、限度がある。こんな状態で彼と会って、私は普通に喋れるだろうか。
不安と焦燥に飲み込まれそうになった時、手元のスマホが鳴った。思わず本を取り落とし、画面を凝視してしまう。そこには彼の名前と共に「十九時に○○駅で」という件名がはっきりと表示されていた。稀に件名に本文を打ち込んだまま送信しまうのは彼の癖だ。
もしかしたら多少余裕があるかもしれない。そんな思いで時計を確認したが、煌々と光る画面に掲げられていたのは十八時二十分という無情な数字だった。着替えて、持ち物を確かめて、気持ちを落ち着かせて。それだけでも三十分近くかかる。待ち合わせ場所が最寄り駅であることが唯一の救いだろうか。
このまま亮と会っても楽しめるわけがない。挙動不審になって、怪しまれて、何とかしようと行動した結果、墓穴を掘る姿がありありと浮かぶ。
どうしようと悩んでいる間にも時間は刻一刻と過ぎていく。焦燥から頭を抱えた時、漆黒の表紙が目に入った。これを使えば何とかなるのでないか。そんな悪魔にも似た囁きが聞こえてくる。私は手を伸ばし、床に放られたままの本に触れる。微かに震える指で本を閉じ、そっと目を閉じた。
過去に関するものではあるが、何かを変えることになるのかは正直分からない。こんなことで貴重な一回を消費するなんて、客観的に見たら馬鹿以外の何者でもないだろう。それでも、僅かな可能性に縋りたかった。
「亮に関するものだけでいいから、過去の記憶を持っている状態に変わりたい」
頼りない声が漏れる。取って付けた様な「変える」という単語に苦笑した刹那、がしゃんと何かが割れるような音が木霊した。それが何か理解する前に、私の脳裏に様々な映像が流れては消える。そのどれにも彼が映っていて、私の願いは叶えられたのだと解った。
突然の情報に目眩がするが、それ以上に安堵が全身に広がっていく。私はふらつく体を誤魔化しながら、亮と会うための準備をするべく寝室に向かった。
◇ ◇ ◇
あの後、どうにかこうにか時間内に支度を終え、何とか遅刻することなく待ち合わせ場所に辿り着くことができた。普段から目印としている大きな木の下でようやく息を吐く。久しぶりのはずなのに、当たり前のように思っているのは、記憶が改竄されたからか。
亮に関する記憶はきちんと私の中にある。そして同時に、変えたいと願う前の記憶もしっかりと残っている。古いものと新しいものが混ざり合いそうで交わらない状態は妙に気持ち悪い。新しい記憶を得た時は、その情報量の多さと、何とかなったという安心感から気にも留めなかったが、改めて意識を向けると、そのちぐはぐさに自然と顔がしかめられる。
思い出そうとする度にしかめっ面をしていたら、亮に嫌な思いをさせてしまうだろう。だが、顔の動きは自分ではどうにもできないもので、何かいい方法はないかと考え込んでいると、不意に肩を叩かれた。半ば反射で勢いよく振り向くと、手を中に浮かせた状態の彼と目があった。
「遅くなったうえに、驚かしてごめん」
私が何かを言う前に、彼の言葉が耳に届く。久しぶりに聞く親しみの込められた声色に、危うく涙腺が緩みかける。私は慌てて頭を振り、笑顔を向けた。
「大丈夫。私もさっき来たばかりだから」
「その割には何か考え込んでいたみたいだけど?」
亮の言葉に肩が揺れたのが分かった。そこまで思考に浸かっていた覚えはないのだが、どうやらそうでもなかったらしい。
「見てたの?」
「というより、さっきの驚きようかな。で?」
「ちょっと急いで出て来ちゃったから、鍵とか、ガスとか、忘れてないか反芻してたの」
あっさりと口から出てきたのは、以前使ったことのある言葉だった。急いで出て来たのは事実だし、気になるのも嘘ではない。だというのに罪悪感が浮かぶのは、本当に考えていたことではないからだろうか。
「またか。そこまで考えなくても大丈夫だって言ったろ」
亮は呆れたように返してきた。どうやら変には思われなかったらしい。私は内心で小さく息を吐いた。
「それもそうなんだけどさ、一度気になっちゃうと、どうしてもね」
「相変わらず心配性だなぁ」
亮は苦笑しながらも私の頭を撫でてきた。ちょっと雑ではあるが優しい手つきに頬が緩む。
「何なら今から確認しに行くか?」
「そこまでしなくても……」
「なら、もう気にするなよ」
亮の言葉に微笑みながら頷き返す。私の行動に満足したのか、彼は私の手を取り、引っ張るように歩き出した。
「今日はどんなお店に行くの?」
「飲みやすいワインが置いてあるとこ。チーズフォンデュと一緒に飲むと、もう最高」
「普通逆でしょ?」
二人してくすくすと笑いながら並んで歩く。昨日まで望んでも手に入らなかったものが確かにここにあった。
「隠れ家的な店でさ、雰囲気がいい上に料理も美味い。怜奈も気に入ると思う」
「そうなんだ。楽しみ」
料理が美味しいと聞いてほっとする。不味い品物を出す店は早々ないが、それでも舌に合うかどうかはまた別だ。色んなお店を回っているからか、亮の舌は肥えている。彼が美味しいというなら本当に美味しいのだろう。
それから取り留めのないことを話していると、少し奥まった場所へと入った。人通りがまばらになり、看板や提灯など、色取り取りの明かりが目立つようになってくる。
「結構外れた所にあるんだね」
「おう。見付けたのも偶然だからな」
「知る人ぞ知る店かぁ」
彼と飲みに行くのは初めてではないが、場の雰囲気と久方ぶりの会話に気分が高揚していく。こんな状態でアルコールを飲んでも大丈夫だろうかと心配になってきた頃、彼が一つの店を指した。
「ここ、ここ」
こじんまりとしたログハウスのような、温かみのあるお店だった。ほんのりとした明かりが店先を照らしていて、気分が暖かくなる。
「いい雰囲気のとこだね」
「だろ?」
亮はどこか得意げにそう言うと、木製のノブを押した。扉に付けられたベルがからんと可愛らしい音を立てる。
彼に続いて中に入ると、まず目に入ったのは左端に設置されている暖炉だった。煉瓦で造られたであろうそれには赤々とした炎が入れられており、見るだけでほっと息を吐いてしまう。
「窓際にしよっか」
「うん」
丸太をそのまま使ったような柱や、アンティーク調の陶磁器が置かれた飾り棚などを見ながら、亮に着いていく。落ち着いた木目のテーブルと椅子は滑らかで、触り心地がよかった。
「いらっしゃいませ」
私たちが席に着くと同時に店員さんがメニューを持ってきてくれた。
「お決まりになりましたらお呼びください」
店員さんは一礼して戻っていった。後姿を目で追っていると、お客が私たちの他に二組しかいないことに気付く。
「お客さん、少ないんだね」
「そういうお店みたいだからな。ところで、怜奈はどれ食べたい?」
亮がこちらにも見えるようにメニューを広げてくれたので、覗き込むように読んでいく。チーズフォンデュが気になるが、パスタやピッツァなど、美味しそうなものが多く、迷ってしまう。その中でも種類が豊富なサラダが目を引いた。
「チーズフォンデュと……、そうだなぁ、カプレーゼで」
「それだけでいいのか?」
「チーズフォンデュがどれだけお腹に溜まるか分からないから。足りなかったら、また頼むつもりだし」
「成る程。俺もそうしよっかな。ワインはどうする?」
「何が合うから分からないから、お任せする」
「りょーかい」
亮は少しメニューを眺めてから、片手を挙げて店員さんを呼んだ。
「チーズフォンデュ二つにカプレーゼ一つ、あと、ソーセージとキャベツの蒸し焼き一つ。ワインはソーヴィニョン・ブランとアンジュー・ロゼをデカンタで」
メモを手にして現れた店員さんに、亮はゆっくりながらも淀みなく注文していく。店員さんも慣れたもので、すらりとペンを走らせると、「少々お待ちください」と一礼して去っていった。
「ロゼって確か、赤と白の中間だったよね」
「そ。飲みやすいし、アンジューはコクがあるからチーズとも合うし」
「そうなんだ。じゃあ、えっと、ソーヴィニョンだっけ。そっちは?」
「ソーヴィニョン・ブランは辛口の白ワインで、ちょっときつめだけどこってりした料理に合うんだ」
亮の説明に感心していると、白とピンクの液体が入ったガラス容器とワイングラスが運ばれてきた。続いてカプレーゼとソーセージとキャベツの蒸し焼きがテーブルに置かれる。チーズフォンデュはもう少し時間がかかるようだ。亮は白ワインを、私はロゼをワイングラスに注ぎ、手に持った。
「そんじゃ、乾杯」
「乾杯」
ガラス同士が触れ合う音を聞き、そっとワインを口に含む。久々に口にしたアルコールは、今まで飲んだどれよりも美味しかった。ほんのりとした苦味はあるものの、葡萄の深みがそれを打ち消してくれる。
「美味しい」
自然と言葉が漏れ、口角が上がる。私の反応を見てか、亮も嬉しそうな表情を浮かべていた。
「な、飲みやすくて美味いだろ?」
「うん」
私はもう一口ワインを飲み、カプレーゼに手を伸ばした。トマトの上にモッツァレラチーズとバジルを乗せ、口に運ぶ。淡白なモッツァレラチーズと新鮮なトマトの瑞々しさに、全体に回しかけられているであろうオリーブオイルがアクセントを加えている。全体的にさっぱりとした口当たりのカプレーゼに、ワインも進んだ。
「今日は随分とペーズ早いんだな」
「飲みやすくて美味しいから、ついつい」
亮の言葉に苦笑いを返していると、本命のチーズフォンデュが運ばれてきた。小さな土鍋のような入れ物に入れられたチーズは湯気を立てており、独特の香りが鼻に届く。食べやすい一口サイズに切られたバゲットとゆでたブロッコリー、じゃがいも、アスパラなどの野菜が付いてきた。フランスパンだけしか出てこないと思っていたため、具材の多さに目を見張ってしまう。
「フォンデュって、こんなに色々具材があるんだね」
「な。俺もここに来て知ったよ」
亮は既に食べ始めているようで、口を動かしながら喋っていた。私もバゲットを串に刺し、チーズに潜らせた。とろりとした感触が伝わってきて、思わず感嘆のため息が零れた。バゲットから垂れるチーズが零れないよう、串を回してチーズを切り、少し覚ましてから口に運ぶ。瞬間、濃厚な味が口全体に広がった。最初はチーズの塩気と乳製品独特の味が強いが、噛んでいくうちに小麦の甘みが主張してくる。
「ほれ、そこでぐいっと」
亮に促されるままにグラスに口を付け、中身を飲み干した。口の中が洗い流され、さっぱりとした気分になる。当分手は止まりそうになかった。
「はぁ、幸せ」
自然とそんな呟きが漏れる。私の声が聞こえたのか、亮が優しく微笑んでいた。
好きな人と美味しいものを食べて、他愛ない話をして、笑って。こんな時間がずっと続けばいい。そう思った時、ふわりと意識が浮上する感覚が全身を襲った。
体が動くままに瞼を開ければ、薄暗い自分の寝室が広がった。全身が気だるく、頭が重い。部屋全体を見渡すように首だけ動かせば、私の隣で寝息を立てている亮の姿が目に入った。
恐らくは飲み過ぎたのだろう。記憶がなくなるほど飲んでふらふらな私を、亮がここまで送り届けてくれて、そのまま二人して眠ったに違いない。記憶はないが、それぐらいしか現状の説明が付かなかった。
そこまで考えた所で喉の渇きを覚え、ゆっくりと上体を起こす。頭はぼんやりするが、さほどふらつくことはなかった。足元に気を付けつつベッドから下り、台所へと向かう。手探りで明かりを点け、適当なコップに水道水を注いで一気に飲み干す。冷たい水が喉を流れていく感覚に、気だるさが少し緩和された気がした。
もう一度、コップの半分ほどの水を飲み、寝室に戻ろうと台所を出る。その時、目の端にあの黒い本が映った。普段化粧道具を置いてある場所に立てかけてあったことに首を捻るが、そういえば準備に急いでいて、適当に仕舞ったのだと思い出す。
私は何となく本を手に取り、表紙を指でなぞった。この本に出会わなければ、今夜のような楽しい時間を過ごすことも、亮と付き合い続けることもできなかったのだ。そう考えると、感謝の年が沸いてくる。
「これからも幸せでいられるといいなぁ」
私は本を抱えたまま、何とはなしに呟いた。刹那、ばりんという何かが壊れるような音が一際大きく木霊した。