夜と約束と動き出す歯車 4
そこは古びたレストランだった。雰囲気的にはダイナーに近い。カウンター席とボックス席がいくつか並び、20人入れば一杯になってしまいそうな店内は総じて古びた馬車のような香りがした。
店内の時計を見ると4時半。中に入ると、蓄音機から重い油のような音楽が流れていた。
夕食時には早い時刻だが、それでも店の中にはある程度の人たちが居て、まるでちょっとした飲み会であるかのように、誰かれ構わず仲良さそうに会話を楽しんでいた。老人とアリエスとシロンは静かにその店の一番奥の席を選んで向かい合わせのソファに腰を降ろした。
「おじいさん……ここは?」
「ミートパイが美味いんじゃ」
3人が座るとどこにいたのか、高年齢の白いエプロン姿のおばさんが注文をとりに来た。
「マダム・ハドスン。ミートパイを3つ頼む。後、コーヒーとそれから……」
老人はアリエスの方を見たため、アリエスは咄嗟に「オレンジジュースを」と答えた。
「ミートパイは2つです」
また機嫌を損ねたような顔色で彼女がおばさんに言う。
「私がお肉食べちゃいけないのは知ってるでしょう?ハドスンさん。私は季節野菜のスープにしてください」
告げると同時にメニューを閉じてフォルダに戻すシロンをおばさんはクスクスと笑いながら、「ちょっと待っててね」と言い残し、厨房の奥へと消えて行った。
「相変わらずの菜食主義じゃの、シロン。別段経典でも菜食が望ましいと書いてあるだけで、肉食が禁止されているわけでもあるまいに」
「修道女として当然のことです」
すると、店の中の一人の中年の男がシロンに向かって話しかけた。
「まったく……聖女様ですら、たまに鶏肉を召し上がっているというのに……」
「あれは戦場に行くのにタンパク源が必要だから仕方なく食べてたんです!!普段はお野菜しかお召し上がりになっていません!!!」
きっとそんなことはない。人間は動物性タンパク質を摂取しなければ生きて行かないからして、おそらく日本の精進料理がそうであったようにこっそりと肉が紛れ、肉に似せた食感のものを食べているはずだ。事実、毎日野菜スープだけでは路上生活者のアリエスですらも生きていくことは出来ないだろう。そんなことはつゆ知らず、辺りを見ればいつの間にか中年の男がワラワラとジョッキ片手に集まってきていた。
「だから、成長しないんだ!!八百屋のトキちゃんなんか見てみろ!!12歳で出るとこしっかり出てて」
「関係ないでしょう!!!ってかそれはセクハラです!!!」
「なんだと~!!ウチの母ちゃんなんてな!!!」
「ばーか。お前んとこのブサイクな嫁とお前が初めて会ったのは20超えてからだろ」
「何を~!!ウチの母ちゃんほどキレイな女はいねぇぞ!!お前んとこだって、最近ブクブク太り始めやがって!!」
「なんだと!!てめぇ!!やんのかコラ!!」
「上等だ!!かかってこいやこのクソ野郎!!」
先程まで上機嫌に話していたというのに、いつの間にやら拳を握りしめボクシングさながらのファイティングポーズを取る中年男2人。それを唖然として見つめるアリエス。それはまるで映画の中の炭鉱夫の光景だった。しかも、それを見ていた周りの人間は止めるどころか、総出で机を片付けて2人の周りを丸く取り囲みいつの間にやら即席のリングが出来上がっていた。
「やれダッフィ!!!見せてやれ!!!」
「なあ賭けようぜ!俺はシャルルに今夜の酒代を賭ける!」
「乗った!!ダッフィに今晩の酒代!」
「おい!!コングもってこいコング!!!」
「マダム、フライパンとしゃもじ借りるぞ!」
唖然としている間にしゃもじがフライパンに叩きつけられ殴り合いの喧嘩が始まった。しかも恐ろしいことに、当の2人はその顔に怒りよりも楽しさを覚えているような顔つきである。
まったくもって酔っぱらいというものはよくわからない。
「止めなくて良いの?」
心配そうにアリエスがシロンに聞くと、あっけなくもシロンは「いいんです」と言い切る。
「毎日なのさ。文字通り、日常茶飯事なんだよ」
そう補足を付け加えたのはミートパイとスープと飲み物を大きなトレイに載せて持ってきた先程の白エプロンのマダムだった。
そんなことを言っている間にも後ろでは喧嘩はインターバルに入り、今度は服を脱いでの筋肉の見せ合いが始まっていた。
「まったく、馬鹿としか言い様が無いだろ?」
おばさんの言葉にアリエスも苦笑いしながら頷く。
「でもさ」
「良い村ですね」
おばさんが言う前にアリエスが笑って付け加えた。
するとおばさんは男勝りのその顔をニンマリとその顔をほころばせた。
「何にも無い村なんだけどね」
「そのとおりじゃ」
老人はミートパイにかぶりつきながら何度も頷いた。
「少年。この村にはな、名産品もなければ観光地も無い。伝統職人だって居ないぞ。あそこでコング叩いとる鍛冶屋なんか平凡そのものの腕前、いや平凡かどうかすら怪しいほどじゃ」
向こうのテーブルから「なんだと~!!!」という一人の男の声と、「そうだぞ!!!平凡以下だ!!」という声と多数の笑い声が響く。
「八百屋なんぞ昨日は人参を取り扱わないぐらい品揃えが悪いし、魚屋なんて滅多に空かない」
「それに肉屋も鮮度が悪いぞ~」と誰かの声が響き、そしてまた喧嘩が始まる。
「楽器は教会にあるオルガンが一台だけ。当然、活動写真なんて無い。たまに来るのは子供向けの紙芝居ぐらいなものだ。」
「それに変な東洋魔術かぶれのじいさんもいるしな!!」と誰かが言ったことで、喧嘩が鎮静し、再びレストラン中に笑い声が響いた。
そして、今まで沈黙していたシロンが最後を締めくくるように。囁くように言う。
「でも……」
同時に視線がシロンへと集まる。
「確かにここは何にも無い村ですけど……何かが見つかる村だと思います」
先程まで騒がしかった店内が一気に静まりかえった。
「私が聖女に連れられてこの村に来た時。あの時、戦争で親も無くして、本当に抜け殻みたいでした。でも、この村に来て……たまにレストランでこんな風に食事したり、聖女様からいろんなことを教わったり、時には喧嘩したりして。それで、何かを見つけることが出来ましたから。大切な”なにか”を」
先程までの喧嘩すら鎮まり、誰もが黙る中、老人だけが口元を緩ませる。
「まあ確かに。何かが見つけられるかどうかはわからんが、自分の棺桶を埋めるには最高の場所じゃな」
「なに言ってんだじいさん!!明日にも死にそうな面しやがって!!」とまた誰かの声が響く。
「なんじゃと!!儂は少なくとも後30年はいきちゃるわい!!!」
「30年前にも同じこと言ってたぞ!!!」と誰かがまた、叫び、そして、店内は再び笑い声に満たされる!!」
「よし!!!俺たちも何か見つけよう記念だ!!酒もってこい酒!!!」
最初に喧嘩をしていた男の言葉により、再び店内は宴会場と化した。店の奥から運ばれてきた酒はジョッキの10や20ではない。中盤からは店内のジョッキが足りなくなり、ついには樽でそのままエールが供され、それに対する肴の量も次々と追加されていった。
その喧騒の中からゆるりと現れた中年が勢い良くシロンの隣へと腰を下ろし、その肩を抱き寄せるように軽く叩いた。
「よう、シロン!!!ありがとな!!!お前のおかげで飲む口実が出来た!!!」
たしかこの男はさきほど喧嘩していた男の片割れだったはず。
機嫌良さそうに大笑いする男に対して、シロンは困惑したように俯き、困ったように周りを見回した。
「そんな、私は」
どうして良いのか分からないような顔をするシロンはこの状況を沈める方法はないかとあたかも小動物のように当惑するばかりだった。
「まあまあ、良いじゃねーか。ほら、これは俺の奢りだ。」
男はそう言って、シロンの目の前にオレンジジュースを出す。困惑しながらもシロンは「あ……」と声を出しながらも、「ありがとうございます」と言って、それを受け取った。
「シロンは本当に可愛いね。私の若いころにそっくりだよ」
「なに言ってんだ。お前の若い頃はガキ大将だろ?」
「言ったね!!」
とまた喧嘩が始まる。
シロンはそれを少し困ったような、でも嬉しいようなちょっと穏やかな照れ隠しの表情で見つめつつ、目の前のオレンジジュースに口を付ける。
「あ」
だが、一口飲み込んだ途端にクラクラと仕出し、そしてフラフラと蹌踉めく。
「これ、お酒……」
フラフラと店内のソファに倒れこみその後少し唸っていたが、しばらくして動かなくなった。
「シロン?シロン?」
もしかして何か危ない病気や、おかしな化学反応が起きてしまったのかもしれない。慌ててアリエスが顔を覗きこむと、彼女は頬を赤くしながらも、規則正しい寝息をたてながら眠っていた。驚き、そして意外そうな顔をするアリエスに男が言う。
「あーあー、まったく。相変わらず酒に弱いんだなーコイツ」
頭をワシャワシャと掻き呆れたような面持ちで男はシロンを見つめる。
「昔っから同じような手口で何回も飲ませてるんだが、スグに酔って寝ちまう。まったく、弱いったらありゃしねぇ。たかがカクテルなのによ」
アリエス自身、酒というものを飲んだことがないのでなんとも言えないが、確かに知っている価値観で言わせてもらうとそれは弱いと思う。確か空きびん回収の仕事で生計を立ててみようと瓶を街中の瓶を集めて回った時、瓶に書いてあったアルコール度数は4%前後だった。それがどれほどの酔いを回すのかはさておき、一口で酔っ払うことなど、普通の価値観ではあり得ないのではないだろうか。
「何言ってんだい!!アルコール度数ほぼ100%の酒でオレンジジュース割ったサンライズなんて私は聞いた事ないよ!!!」
だが、そんなアリエスの妄想とも言える想像はおばさんの一言によってかき消された。めちゃくちゃだ。それはカクテルとは言わない。そもそもアルコール度数ほぼ100%というのは酒と呼ぶべきなのだろうか。それは、アルコールと呼ぶべきではないのだろうか。
「まあ、固いこと言うなって!!さて……」
豪快に笑った男はアリエスの前に空のコリンズグラスを出し、その中に毒々しい赤い瓶から注いだ透明な液体を並々と入れた後にオレンジを血管の浮き出た腕の筋力で絞って出した果汁を加え、乱暴にグラスに指を入れてかき混ぜる。
「オレンジジュースだ。飲め」
絶対に嫌だった。そもそもこれをジュースと言っていいはずもない。明らかな嫌悪感を示すアリエスに男は「なんだ、指で混ぜて汚いってんなら心配ないぞ。なにせアルコール度数は100%。消毒液より強いって聖女も御公認の酒だからな」と目線を光らせるが、問題なのはそこではないし、それを公認と言うなれば言葉の使い方が激しく間違っている。
「いや、実は酒はちょっと」
「何!!?俺の酒が飲めねぇってのか!!!」
「言っちゃった!!ジュースじゃなくて、酒って言っちゃった!!!」
「飲まなきゃ大きくなれねぇぞ!!!」
「そんな馬鹿な!!」
「嘘じゃねえって!!アルコールの中にはな!!デカクナールって物質が入ってて、それが頭に作用して、寝てる間の成長を促すんだって!!!」
そんな馬鹿げた話、有るわけがない。そんなことはきちんと教育を受けてきた人間なら思春期を迎える頃には、とうに身についてしかるべき知識だ。
だが、しかし……アリエスという少年はきちんとした教育も受けてなければまだ10歳という思春期前。地球なれば小学校3年生に当たる年齢のまだまだ幼い子供だった。
「ほ、ホントに?」
男の目を伺うようにアリエスが見つめると男はなんら屈託のない瞳で見つめ返した。
「ああ!!ホントだとも!!!さあ、飲め飲め!!!」
「は……はい。わかりました!!」
残念ながら10歳の少年にそれを嘘だと裏付ける知識は無かった。
※ ※ ※
それから、どれぐらいの時間が経っただろう。
次に意識が覚醒した時、外はすっかりと夜の帳に包まれていた。田舎町ということもあり、ぼんやりと灯りを落とす蝋燭の周囲以外は、まるで霧状の墨に覆われているような暗さに包まれていた。頭が破裂しそうな頭痛に顔を顰めつつも、体に誰かが毛布を掛けてくれていたことに少し驚く。すでにレストランは閉店したのか食器類は全て片付けられ、使用していない椅子はテーブルの上に上下逆さまに置かれていた。店内には先程まで元気よく飲んでいた大人たちが数人壁際のソファでゆっくりと寝息を立てている。暫し店内を見回した後、アリエスは先程寝ていたはずの少女の姿が隣の椅子にないことに気がつく。
「シロン?」
隣で寝ているはずの少女の名前を呼び、もう一度辺りを見回すがやはりその姿は確認できない。
とりあえず、周りで寝ている人を起こさないように静かにソファから立ち上がり、床で寝ている人を踏まないようにそっと入り口の方へと近づいていく。寝ている人にそっと毛布をかけ直しているシロンがそこには居た。
同年代の少女が見せる小さな母性と窓から差し込む月明かりの優しい光に包まれた彼女の姿にアリエスの心が高鳴った。
「アリエス君」
呆けていると先にシロンがアリエスの存在に気がつき、静かに声を掛けた。
「もう、お目覚めですか?」
「いや……眠いけど、眠れない不思議な感覚なんだ」
疲れよりもぐったりと身体に纏わりつくような眠気は身体を休ませようと瞼の重みを必死に増すが、それでも酔いによる頭痛が酷く、それどころではない。風邪をひいた時、具合が悪すぎて眠ることも出来ない感覚に近しいものを感じた。頭を押さえるアリエスにシロンがそっと水を差し出す。
「酔い覚ましのハーブが入ったお水です」
「ありがとう」
差し出された水を一気に飲み干し、アリエスはフ~と嘆息した。ミントのようなスッキリとした味わいの水が喉を通りぬけ、滋養を受け取った全身の神経が振動し、頭の中を這いまわる虫を優しく溶かしていく。
「少し楽になった気がする」
脳みそそのものが軋むような頭痛が緩和され、精神が弱冠の安息を得るのを感じた。だが、シロンの「眠れそうですか?」という問いにアリエスは手を振って”無理”という意志を表した。正直緩和されたとはいえ首の凝りすらわかる程の頭痛はまだ継続している。
「そうですか。でも、朝までまだ大分ありますし、このまま起きているわけには」
「今何時?」
「5分前に日付が変わりました」
どれぐらい寝ていたのかということはわからないが、ミートパイを食べ損なった空腹の加減から考えるとおそらく4,5時間は寝ていたのだろう。体の疲れと同時に空腹を紛らわすためにも睡眠は是非とも取りたい。だが目を閉じて呼吸をすると同時に、頭痛の存在感は一気に数倍に増す。
「眠れそうですか?」という二度目の問いにアリエスは「無理かも」と答えた。
すると、シロンは優しく微笑み、「なら、星でも見に行きませんか?」と呟いた。
「星?」
「ええ……少し道は悪いですが、近くに星がすごく綺麗に見える場所が有るんです。田舎だけ合ってそれぐらいしか夜中に楽しめることって無いんですけどね」
「星か」
思えばそんな事が出来るのは何年ぶりだろう。
ここに来るまでの彷徨っていた2年間といえば、太陽が昇れば子供なりに皿洗いや靴磨きなどの仕事を探し、クタクタに疲れて日が暮れればゴミ箱を漁って食べ物を探し、星が出ることにはうち捨てられた新聞紙に包まって熟睡していた。
星を見る。そんなのんびり贅沢すら何年もしていないように思えた。普段寝床にしている場所は屋根のある場所か壁に囲まれた場所を探していたから寝るときに星を見るなんてこともなかった。
「わかった。いいよ」